第18話 これは何だ?
石段を降りてくる足音が聞こえたのは、それからしばらくしてのことだった。
ひとつはガレスの、規則正しく重たい軍靴の音。
もうひとつは、それよりずっと乱れていた。一段降りるごとにつまずきかけ、壁に手をつき、また足を引きずるように降りてくる。
アルフレッドは扉の枠に背中を預けたまま、振り返らなかった。
「陛下。お連れしました」
ガレスの声に、アルフレッドはようやく身体を起こした。
ガレスの後ろに、侯爵ギルベルト・ヴァレンティアが立っていた。
ほんの少し前まで晩餐の上座近くで穏やかに微笑んでいた男とは、まるで別人のようだった。整えられていた灰色の髪は乱れ、片眼鏡はどこかへ失くしたのか、裸の目がランプの光に落ち着きなく揺れている。上質な上着の膝には、さっき通路で膝をついたときの埃が白くこびりついていた。
侯爵は地下の小部屋を見回し、壁に吊るされた鎖に目を留め、それから開け放たれた鉄の扉に目を向けた。
そこで、凍りついた。
牢の奥の壁際に、少女がうずくまっていた。
床に置かれたランプの光が、その痩せた身体を照らしている。
少女も、侯爵を見ていた。
灰色がかった青い瞳が、大きく見開かれていた。
怯えていた。
父親を見た娘の目ではなかった。
鞭を持った者の姿を見つけた、獣の目だった。
◇ ◇ ◇
お父さま。
お父さまが、来た。
わたしは壁に背中を押しつけたまま、動けなくなった。
お父さまがこの牢へ降りてくることは、めったになかった。最後に顔を見たのがいつだったのか、思い出せないくらいに。お父さまはいつも上の御屋敷のどこかにいて、ドルフさんやお母さまを通してだけ、わたしのことを知っていた。
何を食べさせたか。何を言ったか。どれくらい泣いたか。
お兄さまの言葉が、耳の奥によみがえった。
――お前のことはな、全部書き残してあるんだ。
そのお父さまが、今、ここにいる。
黒い外套の男の人と、もうひとりの大きな騎士の人と一緒に。
わたしは胸元のボタンを、服の上からぎゅっと握りしめた。
お父さまが、わたしをこの人に渡しに来たのだ。
そう思った。
値段の話をしに来たのだ。
わたしがどれくらい泣くのか、どれくらいの石を生むのか、どんなふうにすれば早く泣くのか。帳面に書いてあるすべてのことを、この人に教えに来たのだ。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
◇ ◇ ◇
「侯爵」
アルフレッドは、静かに言った。
侯爵の肩がびくりと跳ねた。
ゆっくりと、まるで首が錆びついた蝶番になったかのように、侯爵はアルフレッドのほうへ顔を向けた。
「説明を聞こう」
「……は」
「この地下は、ただの倉庫だと言ったな」
侯爵の喉が上下した。
しばらく、何も言わなかった。言えなかったのだろう。
けれどやがて、その顔にゆっくりと何かが戻ってきた。
帝都の社交界で長年かけて磨き上げてきた、穏やかな当主の仮面。それを、崩れかけた顔の上に必死にかぶせ直そうとしているのが、アルフレッドには手に取るように分かった。
「……お恥ずかしいところを、お目にかけてしまいました」
侯爵は深く頭を垂れた。
「陛下に偽りを申し上げましたこと、心よりお詫び申し上げます。ですが、どうか、事情をお聞きいただきたいのです」
「聞こう」
「あれは」
侯爵は、牢の奥の少女のほうへちらりと目を向けた。
娘、とは言わなかった。
「私どもの娘、リシェルでございます」
ほんの一拍遅れて、ようやくその言葉が出た。
「幼い頃より重い病を患っておりまして。ひどい発作を起こすのです。発作が起きると我を忘れて暴れ、自分の身体を傷つけ、ときには世話をする者にまで掴みかかる。医師にも何人も診せましたが、どうにもならぬと匙を投げられました」
「それで、地下に閉じこめたと」
「閉じこめたなどと、とんでもない。療養でございます」
侯爵は顔を上げた。
その声には、いつの間にか淀みがなくなっていた。
「娘の病は、人の多い場所では悪くなる一方でした。光や物音が発作を誘うのです。ですから静かで、暗く、誰の目にも触れぬ場所で、心を落ち着けて過ごさせることにいたしました。医師の勧めでございます」
「鎖は」
「発作のときに、娘が自分を傷つけぬように」
「魔力封じの刻印がある」
「娘の病には、魔力の暴走も伴うのです。封じねば、娘自身の身体が持ちませぬ」
すらすらと、答えが返ってきた。
まるで、ずっと前から用意してあった台本を読み上げているかのように。
「七年前に死んだことにしたのも」
アルフレッドは言った。
侯爵の目が、一瞬だけ揺れた。
「……ご存じでしたか」
「答えろ」
「世間体でございます、陛下」
侯爵は、悲しげに目を伏せた。
「名門ヴァレンティアの娘が、心を病み、地下で鎖に繋がれて暮らしている。そんな噂が立てば、家名は地に落ちます。娘自身にとっても、それは不幸なことでございましょう。いっそ死んだことにして、静かに療養させてやるのが、娘のためだと。妻ともよくよく話しあって、そう決めたのです」
侯爵は、胸に手を当てた。
「親として、断腸の思いでございました」
アルフレッドは、何も言わなかった。
牢の奥の少女に、目を向けた。
少女は、壁際で身体を硬くしていた。父親の言葉を聞いているのかいないのか、その顔からは何も読み取れなかった。ただ、膝の上で握りしめた両手だけが、白くなるほど力をこめられていた。
親として、断腸の思い。
その言葉を、この子はどんな顔で聞いているのだろう。
アルフレッドは、牢の中へ一歩踏み入れた。
少女の肩が跳ねる。鎖が鳴った。
アルフレッドは、そこで足を止めた。
これ以上は近づかない。
近づく必要もなかった。
さっきから、ずっと感じていたのだ。
牢の床の、藁の中。
少女のうずくまる壁際から、ほんの少しだけ離れた場所に、何かがある。
晩餐の間で首飾りから感じたものと、同じ気配だった。
細い、冷たい、糸のような魔力。
けれどこれは、首飾りの石よりもずっと新しく、ずっと強かった。まるで生まれたばかりのように、まだ脈打っている。
そしてその糸は、まっすぐに、目の前の少女へと続いていた。
アルフレッドは、身をかがめた。
藁の中に、手を差し入れる。
指先に、冷たく硬いものが触れた。
つまみ上げて、ランプの光にかざした。
小さな、青黒い石だった。
小指の爪よりもまだ小さい、涙の雫のような形をした石。光にかざしても少しも明るくならない、夜の底を切り取ったような色。
蒼涙石。
西の反乱軍の陣幕で見つけたものと、同じだった。
侯爵夫人の胸元で光っていたものと、同じだった。
ただひとつ違うのは、この石からは、細い糸がまだまっすぐに伸びていることだった。目の前でうずくまっている、痩せた少女の胸元へと。
とくん、と。
少女の怯えに合わせて、石が手の中でかすかに震えた。
アルフレッドの頭の中で、ばらばらだったものがひとつに繋がっていった。
――泣かせろと言われたのも奥様で。
看守の言葉。
――泣けば、いいですか。お腹が空いていれば、もう少し早く出ると思います。
少女の言葉。
帝国中に出回る、出所の分からない青黒い石。東部から月に一度、闇の競売に運ばれてくる品。この十年ほどのあいだに、急に出回りはじめた石。
十年前。
あの子が、自分の前で布に顔をうずめて泣いていた頃。
あの頃にはまだ、この石は世に出ていなかった。
アルフレッドは、手の中の石を見下ろした。
小さな雫の形をした、冷たい石を。
指先が、かすかに震えた。
「侯爵」
声は、静かだった。
自分でも驚くほど、静かだった。
「では、これは何だ?」
侯爵の顔から、今度こそ完全に、血の気が引いた。
仮面が、音を立てて剥がれ落ちていくのが見えた。
「そ、それは……」
「娘の療養のための地下に、なぜ蒼涙石が落ちている」
「それは、その……領地の鉱脈から出たものを、娘が慰みに……光る石を眺めていると、発作が和らぐと医師が……」
「医師の名は」
「は……」
「娘を診たという医師だ。何人も診せたのだろう。一人でいい。名を言え」
侯爵の唇が、震えた。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
台本は、そこで尽きていたのだ。
アルフレッドは、手の中の石を握りしめた。
「この石は、まだ温かい」
侯爵が、息を呑んだ。
「生まれたばかりだからだ」
「陛下、それは」
「この石には、魔力の糸が繋がっている。首飾りの石にも繋がっていた。どちらも、同じところへ伸びている」
アルフレッドは、牢の奥の少女に目を向けた。
「この子へだ」
沈黙が落ちた。
地下の湿った空気が、ひどく重たくなった。
石段の下で、ガレスが小さく息を呑むのが聞こえた。
◇ ◇ ◇
見つかった。
わたしは、その人の手の中の小さな石を見つめていた。
さっき、手のひらから滑り落ちた石だった。拾うことも忘れて、藁の中に転がしたままにしていた石。
その人は、まっすぐにそれを見つけ出した。
まるで最初から、そこにあることを知っていたみたいに。
――ああ。
胸の奥で、何かがすとんと落ちていった。
やっぱり、そうなのだ。
この人は、石のことを知っている。
石のことを知っていて、石を生む女の子がここにいることを知っていて、それで、ここまで降りてきたのだ。
買いに来たわけではない、とこの人は言った。
でも、それが何だというのだろう。
買うのでなければ、取り上げるのだろうか。お父さまから、わたしを。わたしの涙を。
どちらにしても、同じことだった。
この人の手の中にある、あの小さな青黒い石。
それが、この人がわたしに求めているもの。
わたしがこれから、この人のために生み続けなければならないもの。
お父さまが、何か言っていた。病気だとか、療養だとか、医師だとか。
わたしは、その言葉をほとんど聞いていなかった。
ただ、黒い外套の人の手の中で、ランプの光を吸いこんで鈍く光る石だけを、ずっと見ていた。
わたしの涙。
わたしの、たったひとつの価値。
どこへ行っても、きっと同じ。
わたしは胸元のボタンを握りしめたまま、ゆっくりと目を伏せた。
◇ ◇ ◇
「答えろ、侯爵」
アルフレッドの声が、地下の小部屋に低く響いた。
「この石は、何だ」
侯爵は、答えなかった。
答えられなかったのではない。
アルフレッドは、侯爵の顔を見ていた。そこにあるのは恐怖だった。罪が暴かれたことへの恐怖。皇帝の前で嘘が崩れたことへの恐怖。家名が、財産が、すべてが失われることへの恐怖。
けれど、そのどこにも。
牢の奥でうずくまる少女に対するものは、何ひとつ浮かんでいなかった。
十七の娘を、十の年から七年、この地下で鎖に繋いできたことへの、ほんのひとかけらの痛みさえ。
侯爵の目は、ずっとアルフレッドの手の中の石を見ていた。
娘ではなく。
石を。
アルフレッドの中で、何かが静かに切れた。
晩餐の間からずっと腹の底で燃えていた冷たい炎が、音もなく、喉元まで這い上がってきた。
アルフレッドは侯爵から目を離さないまま、背後に控えるガレスのほうへ右手を差し出した。
「ガレス」
低い声だった。
「剣を」




