第19話 お前が嫌がることはしない
ガレスは、主君の差し出した手を見つめていた。
剣を。
その一言の意味を、ガレスは誰よりもよく知っていた。
戦場で、帝都で、この方が誰かに「剣を」と言ったとき、その先にあるものはいつも決まっていた。三年前のあの夜も。西の反乱の、あの一夜も。
一瞬だけ、ためらった。
相手は帝国の侯爵だった。裁きも審問も経ずに、この場で斬れば、どれほどの騒ぎになるか。東部の貴族たちがどう動くか。宰相閣下がどれほど頭を抱えるか。
けれど、ガレスの手は動いていた。
腰の剣を鞘ごと外し、主君の手のひらに載せる。
ためらいは、ほんの一瞬で消えていた。
壁に吊るされた小さな鉄の輪を見た。差し入れ口の下の黒い染みを見た。痩せ細った少女の手首を見た。
そして、娘ではなく石だけを見つめ続けている、この男の目を見た。
止める理由が、ガレスにはひとつも見つからなかった。
アルフレッドは、剣を抜いた。
鞘から刃が滑り出る冷たい音が、狭い地下に長く響いた。
ランプの光が刀身を走る。
侯爵ギルベルトが、ひっと短い悲鳴を上げて後ずさった。踵が石段の一段目にぶつかって、その場に尻もちをつく。
「へ、陛下……! お、お待ちを、お待ちください……!」
アルフレッドは答えなかった。
牢の扉から一歩、外へ出る。
侯爵のほうへ、ゆっくりと歩いていく。
急ぎもせず、止まりもせず、ただまっすぐに。
「わ、私は帝国の侯爵ですぞ……! 裁きもなしに、このような……東部の諸侯が黙っては……っ」
「黙らせればいい」
短い答えだった。
侯爵の顔が、引きつった。
「せ、せめて弁明の機会を……娘の、娘のことは、すべて家のためを思って……」
「家のため」
アルフレッドは、侯爵の前で足を止めた。
剣の切っ先が、侯爵の喉元にまっすぐ向けられる。
「十の子どもを鎖に繋いで、七年、陽の光も見せずに泣かせ続けたことが、家のためか」
「そ、それは……」
「あの子が泣くたびに、お前はその涙を拾わせて、金に換えたのだろう」
侯爵の目が見開かれた。
言い返そうとした唇が、何の言葉も結べずに震えた。
アルフレッドは、それ以上何も言わなかった。
言う必要がなかった。
剣を、わずかに引いた。
振り下ろすための、ほんの小さな予備動作だった。
◇ ◇ ◇
わたしは、それを見ていた。
牢の奥の壁際から。
開け放たれた扉の向こうで、黒い外套の人が剣を構えていた。その切っ先の先で、お父さまが石段にへたりこんで震えていた。
お父さまが、殺される。
そう思った瞬間、頭の中が真っ白になった。
お父さまのことが好きだったわけではない。
お父さまは、わたしの顔をほとんど見たことがなかった。わたしの名前を呼んだことも、たぶん数えるほどしかなかった。わたしがどんなふうに泣いているのかなんて、きっと一度も気にしたことがなかった。
それでも。
あの剣が振り下ろされたら、お父さまが死ぬ。
わたしのせいで。
わたしの石のせいで、この人がここへ来た。わたしがこぼした一粒を、この人が拾った。それでお父さまの嘘が崩れて、この人が剣を抜いた。
全部、わたしのせいだ。
お母さまの声が、耳の奥でよみがえった。
――あなたが泣けば、たくさんの人が喜ぶの。
わたしが泣けば、人が喜ぶ。
わたしが泣かなければ、人が困る。
そしてわたしの涙のせいで、今、人が死のうとしている。
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。
身体が勝手に動いていた。
藁の上から這い出すように前へ。鎖がぴんと張って、足首の古い傷に食いこんだ。痛かった。でもそんなことはどうでもよかった。
声を出そうとした。
喉がひりついて、うまく出なかった。
それでも、絞り出した。
「や……」
かすれた、小さな声だった。
「やめて……ください……」
◇ ◇ ◇
アルフレッドの剣が、止まった。
振り下ろされる寸前で。
侯爵の喉元から、指一本ぶんの距離で。
背後から聞こえたその声は、ひどく小さかった。地下の湿った空気に溶けて消えてしまいそうなほど、かすれて、震えていた。
それでも、アルフレッドには聞こえた。
はっきりと、聞こえた。
振り返った。
牢の中で、少女が床に手をついていた。
壁際から這い出してきたのだろう。足首の鎖がいっぱいに張りつめて、その先で、細い身体が前のめりに倒れかけている。
少女は、こちらを見上げていた。
灰色がかった青い瞳が、恐怖でいっぱいに見開かれていた。
唇が、震えていた。
「お、お願い、です……」
途切れ途切れの声だった。
「わたしの、せいで……誰かが、死ぬのは……いや、です……」
少女の肩が、大きく上下していた。
息がうまく吸えないのだ。
それでも少女は、目をそらさなかった。
剣を持つ男を、まっすぐに見上げていた。
「お願い……します……やめて、ください……」
アルフレッドは、少女の顔を見つめた。
この子は、父親を庇っているのではなかった。
父親のために泣いているのでもなかった。
この子は、怯えていた。
自分のせいで人が死ぬことに。自分の涙が、また誰かの運命を変えてしまうことに。
そしてその怯えの中で、それでも、声を上げたのだ。
七年間、泣くことしか求められなかった子が。
名前を呼ばれても「はい」としか答えられなかった子が。
「泣けばいいですか」と、自分の涙を差し出そうとした子が。
今、初めて、自分から「いや」と言ったのだ。
アルフレッドの中で、喉元まで這い上がっていた冷たい炎が、すうっと引いていった。
消えたわけではなかった。
腹の底では、まだ燃えていた。この男を許すつもりなど、ひとかけらもなかった。
けれど。
この子の目の前で、この子が「いや」と言ったことを、踏みにじることだけは。
それだけは、できなかった。
アルフレッドは、剣を引いた。
一呼吸のためらいもなかった。
刃を下ろし、鞘に収める。
鍔が鞘口に当たる、乾いた小さな音がした。
ガレスが、息を呑む気配がした。
この方が一度抜いた剣を、斬らずに収めるところを、ガレスは一度も見たことがなかった。
アルフレッドは、少女のほうへ向き直った。
牢の扉の手前で、片膝をつく。少女と、目の高さが同じになるように。
少女はまだ、床に手をついたまま、震えていた。
「分かった」
アルフレッドは言った。
低く、静かな声だった。
さっきまでの冷たさは、どこにもなかった。
「お前が嫌がることはしない」
◇ ◇ ◇
わたしは、その人を見上げていた。
分かった、とその人は言った。
お前が嫌がることはしない、と。
剣は、もう鞘の中だった。
お父さまは、石段の上で尻もちをついたまま、まだ生きていた。
何が起きたのか、分からなかった。
わたしは、やめてと言った。
それだけだった。
たったそれだけで、この人は剣を収めた。
ためらいもせずに。
わたしのお願いを、聞いてくれた。
――どうして。
お母さまは、わたしのお願いを一度も聞いてくれなかった。お腹が空きました、と言っても。寒いです、と言っても。痛いです、と言っても。
お兄さまも、ドルフさんも。
わたしが何かを言ったところで、それで何かが変わったことなんて、一度もなかった。
わたしの言葉には、何の力もないのだと思っていた。
わたしに力があるとすれば、それは涙だけなのだと。
それなのに。
この人は、わたしの言葉ひとつで、剣を止めた。
分からなかった。
分からなくて、怖かった。
どうしてこの人は、わたしの言うことを聞いたのだろう。
わたしを怖がらせると、石の色が悪くなるからだろうか。
機嫌を損ねると、泣かなくなるからだろうか。
お母さまも、ときどきそうだった。「上出来ね」の日の前には、林檎をくれた。焼き菓子をくれると言った。わたしを喜ばせて、それからもっとたくさん泣かせるために。
この人も、そうなのだろうか。
わたしは床に手をついたまま、その人の黒い瞳を見つめた。
その瞳の中に、何かを探そうとした。
お母さまが石を見つめていたときの、あのうっとりとした光を。
お兄さまがわたしの顎をつかんだときの、退屈そうな色を。
見つからなかった。
その人の瞳には、そのどちらもなかった。
ただ、何かをじっと堪えているような、深くて静かな色だけがあった。
それが何なのか、わたしには分からなかった。
◇ ◇ ◇
「ガレス」
アルフレッドは、少女から目を離さないまま言った。
「はっ」
「侯爵を上へ連れていけ。夫人と長男もだ。今夜から、侯爵家の者は一人残らず、この屋敷から一歩も出すな。誰とも連絡を取らせるな。書斎には近衛を立たせて、紙一枚動かさせるな」
「……はっ」
「看守もだ。全員、生かしておけ」
ガレスは一瞬だけ主君の背中を見つめ、それから深く頭を下げた。
石段の上で、侯爵がよろめきながら立ち上がる気配がした。
「へ、陛下……寛大なるご処置に、心より……」
侯爵の声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
そして、その目がちらりと牢の中を見た。
娘を見たのではなかった。
娘の足元の、藁のあたりを。
まだ他に石が転がっていないかと、確かめるように。
「よく言った、リシェル。お前はやはり、いい子だ――」
「連れていけ」
アルフレッドの声が、侯爵の言葉を断ち切った。
振り返りもしなかった。
ガレスが侯爵の腕を掴み、半ば引きずるようにして石段を上っていく。侯爵が何か言いかけるたびに、ガレスの腕に力がこもるのが分かった。
足音が遠ざかっていく。
やがて、上の扉が閉まる重たい音がした。
地下には、アルフレッドと少女だけが残された。
アルフレッドは、片膝をついたまま動かなかった。
少女も、床に手をついたまま動かなかった。
ランプの光だけが、二人のあいだで静かに揺れていた。
――お前はやはり、いい子だ。
去り際の侯爵の言葉が、まだ耳に残っていた。
この子が今、父親の命を救った。
その父親が娘にかけた言葉は、それだけだった。
ありがとう、でもなく。すまなかった、でもなく。
いい子だ、と。
まるで、よく躾けられた犬を褒めるように。
アルフレッドは、少女の顔を見た。
少女は、父親の言葉に何の反応も示していなかった。喜びも、悲しみも、怒りも。ただ、目の前の見知らぬ男が次に何をするのかを、息を詰めて待っていた。
慣れているのだ。
この子にとっては、それが当たり前なのだ。
アルフレッドは、もう一度、同じ言葉を口にした。
この子に、届くまで。
何度でも。
「お前が嫌がることは、しない」
少女は、答えなかった。
ただ、その瞳がほんのわずかに揺れたのを、アルフレッドは見逃さなかった。




