第20話 皇帝の客人
足音が遠ざかって、上の扉が閉まる音がしてからも、その人は動かなかった。
牢の扉の手前で、片膝をついたまま。
わたしも、床に手をついたまま動けなかった。
ランプの光だけが、わたしたちのあいだで静かに揺れていた。
お父さまは、連れていかれた。お母さまも、お兄さまも、ドルフさんも。この屋敷の人たちはみんな、上で誰かに見張られているのだという。
この地下に残っているのは、わたしと、この人だけだった。
何をされるのだろう。
さっきは剣を収めてくれた。わたしが嫌がることはしない、と言ってくれた。
でも、それは今だけのことかもしれない。
お父さまたちがいなくなった今、この人がわたしに何をしようと、止める人は誰もいない。
わたしは床についた手に力をこめた。
足首の鎖が、かすかに鳴った。
その人の視線が、わたしの足首に落ちた。
鉄の輪と、そこから伸びる鎖。輪の縁の、擦り切れて赤黒くなった肌。
その人の顔が、ほんのわずかに強張った。
けれどすぐに、また何もない顔に戻った。
「それを、外したい」
その人は言った。
わたしは、言われた意味がすぐには分からなかった。
「……外す?」
「その鎖だ。鍵は、外の壁に掛かっていた」
その人は立ち上がり、牢の外の小部屋へ出ていった。壁の鉤から鍵束を取る、じゃらりという音がした。
戻ってくると、その人はまた扉の手前で膝をついた。
牢の中には、入ってこなかった。
「鍵を開けるには、足首に手を近づけなければならない」
低い声だった。
「触れずにやる。できる限り。だが、どうしても指が当たるかもしれない」
その人は、鍵束を手のひらに載せたまま、わたしを見た。
「それでも、いいか」
わたしは、その人の顔を見つめた。
いいか、と訊かれた。
わたしに。
何かをする前に、わたしに訊いた人なんて、今までひとりもいなかった。お母さまも、お兄さまも、ドルフさんも。みんな、したいことをして、それからわたしに何かを言った。
どう答えればいいのか分からなかった。
いいえ、と言ったら、どうなるのだろう。
はい、と言わなければ、怒られるのだろうか。
わたしは長いあいだ黙っていた。
その人も、黙って待っていた。
急かさなかった。舌打ちもしなかった。ただ、膝をついたまま、じっとわたしの答えを待っていた。
やがて、わたしは小さく頷いた。
「……はい」
その人は、ゆっくりと牢の中に入ってきた。
わたしの足元まで来て、また膝をつく。大きな身体が、できる限り小さくなろうとしているように見えた。
鍵が、鉄の輪の鍵穴に差しこまれる。
その人の指は、本当にわたしの肌に触れなかった。鉄の輪だけを、まるで割れやすい硝子でも扱うみたいに、指先でそっと支えていた。
かちり、と小さな音がした。
鉄の輪が、外れた。
七年ぶりに、わたしの足首から、重さが消えた。
足首が、ひどく軽かった。
軽すぎて、自分の足ではないみたいだった。
わたしは自分の足首を見下ろした。輪の形に、くっきりと跡が残っていた。古い傷と、新しい傷と、擦り切れた肌の色。七年分の跡が。
「……痛むか」
その人が訊いた。
わたしは首を横に振った。
痛くなかった。痛かったのかもしれないけれど、何も感じなかった。ただ、軽いということだけが、不思議でたまらなかった。
その人は、外した鉄の輪と鎖を、牢の隅へ放った。
がしゃん、と重たい音がした。
その人は、もう二度とそれを見なかった。
◇ ◇ ◇
「陛下」
石段の上から、声がした。
さっきの大きな騎士の人だった。
「侯爵家の者たちは、全員それぞれの部屋に。近衛を立たせました。看守も別室に」
「分かった」
その人が答えた。
わたしは、その会話を聞いていた。
陛下。
その言葉が、ゆっくりと頭の中で意味を結んでいった。
陛下。
お父さまも、さっきこの人をそう呼んでいた。必死に、震えながら。わたしはそのときは、言葉の意味まで考える余裕がなかった。
でも、今は分かった。
陛下と呼ばれる人は、ひとりしかいない。
去年の秋、差し入れ口の向こうでドルフさんたちが話していた。
帝都の若い皇帝。貴族の首をはねた皇帝。
――血も涙もねえってのは、ああいうのを言うんだろうな。
わたしは、目の前の人を見上げた。
黒い髪。黒い瞳。何も浮かんでいない顔。
この人が。
この人が、皇帝。
血も涙もない、皇帝。
身体の芯が、すうっと冷えていった。
お母さまより、お兄さまより、ずっと怖い人なのかもしれない。何百人も、何千人も殺したと噂される人。その人が、わたしの石を拾った。わたしの鎖を外した。
何のために。
その人は、わたしの顔色が変わったことに気づいたのかもしれない。
何か言いかけて、やめた。
そして代わりに、別のことを言った。
「リシェル」
「……はい」
「この屋敷を出る」
わたしは、目をまたたいた。
「お前を、帝都へ連れていく」
帝都。
ドルフさんたちの噂話の中にしか出てこなかった場所。この地下から何日も何日も離れた、遠い遠い場所。
「お前は皇宮で暮らす。皇帝の客人として」
「きゃく、じん……」
「ああ」
客人。
わたしはその言葉を、口の中で転がしてみた。
お屋敷にお客さまが来ると、お母さまは一番いいドレスを着て、一番いい石を身につけた。お客さまには一番いいお部屋が用意されて、一番いいお料理が出された。
お客さまというのは、そういう人のことだった。
わたしが、それになる。
分からなかった。
どうしてわたしが、そんなふうに扱われるのか。
「……わたしは、何を、すればいいですか」
また、同じことを訊いてしまった。
さっき「やめろ」と言われたのに。
でも、他に何を訊けばいいのか分からなかった。
その人は、少しのあいだ黙っていた。
それから、静かに言った。
「何もしなくていい」
「……え?」
「何もしなくていい。泣かなくていい。何も差し出さなくていい」
その人の声は、低くて、静かだった。
「ただ、ついてきてくれればいい。それも、嫌なら言え」
わたしは、何も答えられなかった。
嫌なら言え。
そんなことを言われても、嫌だと言ったらどうなるのか、わたしには分からない。この人がさっき剣を収めてくれたのは本当だけれど、それがいつまで続くのかも分からない。
それに。
もしもここに残ったら、また、お母さまが降りてくるのだろうか。
お兄さまが、ドルフさんが。
わたしは、小さく首を横に振った。
「……嫌では、ありません」
嫌ではない、と言ったのか。
それとも、嫌だと言う勇気がなかっただけなのか。
自分でも、分からなかった。
◇ ◇ ◇
石段は、長かった。
自分の足で上るのは、七年ぶりだった。
十の冬にこの地下へ連れてこられたとき、わたしはドルフさんに抱えられるようにして、この石段を降りた。それから一度も、上ったことがなかった。
一段上るごとに、膝が震えた。
足首が、まだ鎖の重さを覚えていて、うまく持ち上がらなかった。
その人は、わたしより二段上を歩いていた。
手は、差し出さなかった。
けれど、わたしが一段上るたびに、その人も一段だけ上った。わたしが立ち止まると、その人も立ち止まった。振り返りはしなかったけれど、背中でずっと、わたしの足音を聞いているのが分かった。
わたしは壁に手をつきながら、一段ずつ上った。
途中で、何度も休んだ。
そのたびに、その人も黙って待っていた。
石段のいちばん上で、扉が開いていた。
その向こうから、乾いた空気が流れこんできた。
地下の湿った匂いとは違う、上の御屋敷の匂いだった。
磨かれた木の床の匂い。燭台の蝋の匂い。どこかの部屋で焚かれている暖炉の、かすかな煙の匂い。
七年前まで、わたしも知っていたはずの匂いだった。
わたしは扉の前で、立ちすくんだ。
この扉の向こうは、もう地下ではない。
この扉を越えたら、もう、戻れない気がした。
足がすくんで、動かなかった。
その人が、扉の向こうで振り返った。
何も言わなかった。
ただ、自分の黒い外套を肩から外して、わたしの足元の石段の上に、そっと置いた。
それから、また背を向けた。
わたしは、足元の外套を見下ろした。
黒くて、厚くて、温かそうな外套。
拾えとも、着ろとも言われなかった。
わたしは長いあいだそれを見つめてから、おそるおそる手を伸ばした。
拾い上げる。重かった。その人の体温が、まだ少しだけ残っていた。
肩にかけると、わたしの身体はすっぽりとその中に包まれた。
身体の芯にこびりついていた地下の冷たさが、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
わたしは外套の前を両手で握りしめて、最後の一段を上った。
◇ ◇ ◇
使用人たちの通る薄暗い通路を抜けて、長い回廊を歩いた。
壁には燭台の明かりが灯っていて、金の額縁に入った肖像画がいくつも並んでいた。お父さま、お母さま、お兄さま。知らないお祖父さまや、そのまたお祖父さまたち。
その中に、わたしの絵は一枚もなかった。
わたしはそれを横目に見ながら、その人の背中を追って歩いた。
回廊の先で、玄関の大扉が開け放たれていた。
そこから、冷たい風が吹きこんできた。
夜の匂いがした。
草の匂い。土の匂い。どこか遠くで燃えている薪の匂い。
お屋敷の中のどの匂いとも違う、外の匂いだった。
外套にくるまっていても、その風は頬に冷たかった。
わたしは、その風の中へ、一歩踏み出した。
お屋敷の玄関の前に、黒い馬車が止まっていた。
空は、東の端だけがかすかに白んでいた。
夜明けが近いのだ。
わたしは玄関の石段の上で、空を見上げた。
広かった。
格子窓から見えていた手のひらほどの四角とは、まるで違った。どこまでも、どこまでも、果てしなく広がっていた。灰色と紫と、ほんのわずかな薄紅が混ざりあった、見たこともない色をしていた。
息が、うまくできなかった。
怖いのか、苦しいのか、それとも別の何かなのか、分からなかった。
ただ、空が広すぎて、自分がひどく小さくなったような気がした。
「――待ちなさい!」
背後から、甲高い声が響いた。
振り返ると、玄関の大扉の向こうに、お母さまが立っていた。
近衛の騎士の人に腕を押さえられながら、それでも身を乗り出すようにして、こちらへ叫んでいた。結い上げていた髪がほつれて、藤色のドレスの裾が乱れている。
「その子をどこへ連れていくの! その子は、その子はヴァレンティアの――」
お母さまの目が、わたしを見ていた。
ううん。
わたしではなかった。
わたしの顔の、少し下。わたしの瞳の、ずっと奥。
そこからこぼれるはずのものを、お母さまは見ていた。
「その子がいなくなったら、どうやって――返して、返してちょうだい! あれは、あれはわたくしたちのものなのよ……!」
「連れていけ」
その人の声が、お母さまの叫びを断ち切った。
騎士の人たちが、お母さまを屋敷の奥へと引きずっていく。お母さまの声が、少しずつ遠ざかっていく。
わたしは、その声を最後まで聞いていた。
最後の最後まで、お母さまは、一度もわたしの名前を呼ばなかった。
◇ ◇ ◇
馬車の中は、思っていたよりもずっと広かった。
柔らかい座席に、厚い毛布が何枚も重ねてあった。
座席の脇には、籐の籠がひとつ置いてあった。
蓋つきの小さな陶器の壺には、まだ湯気の立つスープが入っていた。具のほとんどない、とろりと煮崩れた野菜のスープ。その隣に、手でちぎれるほど柔らかい白いパン。干した杏子がいくつか。それから、蜂蜜を塗った小さな焼き菓子がひとつ。
水の入った革袋と、温めた牛乳の入った小瓶もあった。
どれも、ほんの少しずつだった。
まるで、長いあいだ寝ついていた病人のために用意されたような食事だった。
夜明け前のこの時間に、誰がこれを用意したのだろう。
蜂蜜の焼き菓子から、甘い匂いがした。
――今度は焼き菓子もつけてあげましょうか。蜂蜜のたっぷり入ったものよ。
お母さまの声が、耳の奥でよみがえった。
あの日、お母さまはそう言って、わたしに泣けと言ったのだ。
その人は、馬車には乗らなかった。
扉の外に立ったまま、低い声で言った。
「俺は外を行く。中には誰も入らない。眠りたければ眠れ。食べたければ食べろ。何もしたくなければ、何もしなくていい」
返事を待つこともなく、その人は静かに扉を閉めた。
しばらくして、馬車がゆっくりと動きだした。
車輪が石を噛む音。馬の蹄の音。窓の外を、お屋敷の門が、塀が、林檎の木の影が、ゆっくりと流れていく。
わたしは座席の隅で、外套にくるまって膝を抱えた。
毛布には、触れなかった。
籠の中のものにも、触れなかった。
お腹は空いていた。スープの匂いを嗅いだだけで、胃がきゅうっと縮むほどに。
それでも、手を伸ばせなかった。
触れたら、きっと何かを返さなければならなくなる。
お母さまの林檎のように。
わたしは胸元に手を当てた。
ほどけかけた糸の先で、銀のボタンがまだそこにあった。
それを確かめて、少しだけ息をついた。
窓の外で、黒い馬に乗ったその人の背中が見えた。
さっき、地下の小部屋を出る前に、わたしは見ていた。
その人が、藁の中から拾ったあの小さな石を、自分の上着の内側に大切そうにしまうのを。
わたしの涙だった石を。
――やっぱり。
鎖を外してくれた。外套を貸してくれた。お父さまを殺さないでいてくれた。
何もしなくていい、と言った。泣かなくていい、と言った。
でも、あの石だけは、しまって持っていった。
わたしは、窓の外の背中を見つめた。
血も涙もない皇帝と呼ばれる人の、黒い背中を。
馬車は、どんどんお屋敷から遠ざかっていく。
七年間閉じこめられていた地下から。
十七年間暮らしてきた家から。
わたしの知っている、たったひとつの世界から。
でも、そこから連れ出してくれたこの人も、わたしにとっては、まだ知らない世界のひとつだった。
柔らかい座席。温かい外套。冷めていくスープ。
どれもが、優しすぎた。
優しすぎて、怖かった。
わたしは外套の前をぎゅっと握りしめて、たったひとつのことだけを考えていた。
――この人は、わたしから何を取るつもりなのだろう。




