第21話 柔らかすぎる椅子
帝都までは、四日かかった。
そのあいだのことを、わたしはあまりよく覚えていない。
馬車はずっと揺れていた。窓の外を、知らない景色が流れていった。森、畑、川、小さな村。どれもわたしがハンナの昔話の中でしか知らなかったもので、けれど見ているうちに、どれも同じように見えてきた。
夜になると、馬車はどこかの宿や、どこかの貴族のお屋敷の前に止まった。
扉の外から、あの人の声がした。
「部屋を用意させた。使いたければ使え。使いたくなければ、ここにいていい」
わたしは、一度も馬車を降りなかった。
知らない部屋に入るのが怖かった。知らない人に会うのが怖かった。毛布にも触れずに、あの人の外套にくるまって、座席の隅で膝を抱えて眠った。
籠の中の食べ物は、毎朝新しいものに替えられていた。
湯気の立つスープ。柔らかいパン。干した果物。蜂蜜の焼き菓子。
二日目の夜に、とうとうお腹の痛みに耐えられなくなって、わたしは白いパンを少しだけちぎって食べた。
それ以外には、手をつけなかった。
パンなら、地下でも食べていた。ドルフさんが差し入れ口から押しこんできたパンと、同じものだと思えば――ほんの少しなら、許されるような気がした。
スープには触れなかった。焼き菓子には、目を向けることさえしなかった。
あの人は毎朝、籠の中身を確かめているようだった。けれど一度も、何も言わなかった。
食べろとも。
どうして食べないのか、とも。
◇ ◇ ◇
四日目の昼過ぎに、馬車が止まった。
扉が開いた。
眩しい光が流れこんできて、わたしは思わず目を細めた。
「着いた」
あの人の声がした。
わたしはおそるおそる馬車の外を覗いた。
そして、息が止まった。
白い石でできた、見上げるほど大きな建物が、目の前にそびえていた。
いくつもの塔。数えきれないほどの窓。屋根の上で翻る、黒い旗。広い石畳の前庭には、黒い軍装の騎士たちがずらりと並んで、こちらへ頭を下げていた。
ヴァレンティアのお屋敷が、まるで小さな物置に見えるほどだった。
「皇宮だ」
あの人は、短くそれだけ言った。
皇宮。
皇帝の住むところ。
わたしは外套の前をぎゅっと握りしめた。
こんなところに、わたしが入っていいはずがない。
地下牢の藁の上で七年間眠ってきた女の子が。
けれど、あの人はもう歩きだしていた。わたしが馬車を降りるのを待つように、少し先で足を止めて。
わたしは震える足で、石畳の上に降りた。
「陛下、お帰りなさいませ」
大きな扉の前で、白髪まじりの痩せた男の人が深々と頭を下げた。
あの人が「クラウス」と呼んだその人は、顔を上げてあの人を見て、それからわたしを見た。
わたしは、その目を見た瞬間に身体を硬くした。
値踏みされる、と思った。
けれどその人の目は、驚いたように見開かれただけだった。わたしの汚れた髪を、痩せた手首を、引きずるような足取りを、ひとつずつ確かめるように見て――それから、ほんのわずかに眉を寄せた。
何かを堪えるような顔だった。
その人はすぐに表情を戻して、あの人のほうへ向き直った。
「……陛下。お話は、早馬の知らせで伺っております」
「部屋は」
「東の客殿に。陛下のご指示どおり、いちばん日当たりのよいお部屋を整えさせました」
「分かった」
あの人は、わたしのほうを振り返った。
「リシェル。今日から、ここがお前の住む場所だ」
わたしは、何も答えられなかった。
「部屋まではセレナが案内する。俺は、少し片づけなければならないことがある」
あの人がそう言うと、扉の内側から、ひとりの女の人が進み出てきた。
四十歳くらいの、背筋のまっすぐな人だった。紺色の簡素なドレスに白い前掛けをつけて、髪をきっちりと結い上げている。
「侍女長のセレナと申します」
女の人は、わたしの前で丁寧に頭を下げた。
「リシェル様のお世話をさせていただきます。何でもお申しつけくださいませ」
リシェル様。
わたしは、その呼び方に身をすくめた。
様、なんて。
ヴァレンティアのお屋敷で、わたしをそう呼んだ人はひとりもいなかった。ハンナでさえ「お嬢さま」と呼んだだけだった。
わたしは何と答えればいいのか分からずに、ただ小さく頭を下げ返した。
セレナさんは少しだけ目を細めて、それから「こちらへ」と歩きだした。
◇ ◇ ◇
回廊は、果てしなく長かった。
床には赤い絨毯が敷かれていて、足音がほとんどしなかった。壁には大きな絵が何枚も飾られていて、天井からは硝子の飾りがいくつも下がっていた。窓から差しこむ光が、そのひとつひとつに当たって、きらきらと虹色に光っていた。
すれ違う人たちが、みんなわたしを見た。
侍女の人たちも、騎士の人たちも、書類を抱えた役人のような人たちも。
見て、すぐに目をそらした。
けれどわたしには分かった。わたしが通り過ぎたあと、背中のほうでひそひそと声がしているのが。
当たり前だった。
汚れた髪で、汚れた服で、皇帝の外套にくるまって、裸足のような粗末な靴で歩いている女の子。
わたしは外套の端を握りしめて、できるだけ小さくなって歩いた。
「こちらでございます」
セレナさんが、大きな白い扉の前で足を止めた。
金色の取っ手を引くと、扉が音もなく開いた。
わたしは、扉の前で立ちすくんだ。
光が、溢れていた。
部屋の奥の壁が、ほとんど全部、窓だった。大きな硝子の窓が何枚も並んで、その向こうに緑の庭が広がっている。午後の陽射しが窓からいっぱいに流れこんで、部屋の隅々まで照らしていた。
床には、毛足の長い淡い色の絨毯。
窓辺には、白い薄布のカーテンがふわりと揺れていた。
部屋の真ん中には、小さな円い卓と、そのまわりに柔らかそうな布張りの椅子がいくつか。壁際には、花の彫刻がほどこされた大きな衣装棚と、鏡のついた化粧台。卓の上には、硝子の花瓶に白い花が活けてあった。
奥の扉の向こうには、もうひとつ部屋があるようだった。開いた扉の隙間から、天蓋のついた大きな寝台が見えた。
「リシェル様のお部屋でございます」
セレナさんが言った。
「どうぞ、お入りくださいませ」
わたしは、動けなかった。
足が、床に縫いつけられたように動かなかった。
――これは、いくらなのだろう。
頭の中に浮かんだのは、それだけだった。
この絨毯は。このカーテンは。あの椅子は。あの寝台は。この部屋の、全部は。
ドルフさんは言っていた。わたしの石は、一粒で金貨百枚だと。
お母さまの首飾りの石は、どれくらいだったのだろう。お母さまがいちばん大事にしていたあの首飾りよりも、この部屋はずっと高そうに見えた。
だとしたら。
この部屋を使うには、何粒泣けばいいのだろう。
十粒だろうか。百粒だろうか。
それとも、もっと――。
お母さまは、林檎ひとつで十一粒を求めた。
焼き菓子ひとつで、もっとたくさんを求めようとした。
この部屋に、わたしが毎日寝起きしたら。
わたしは毎日、どれだけ泣かなければならないのだろう。
背中を、冷たい汗が伝っていった。
「リシェル様?」
セレナさんの声で、わたしは我に返った。
セレナさんは、少しだけ首をかしげてわたしを見ていた。
「お部屋がお気に召しませんでしたか。何か足りないものがございましたら――」
「い、いえ」
わたしは慌てて首を振った。
「足りないものなんて……」
足りないものなんて、ひとつもない。
多すぎるのだ。
わたしには、何もかもが多すぎる。
セレナさんは少し考えるように黙ってから、もう一度、静かに言った。
「どうぞ、お入りください。四日も馬車に揺られて、お疲れでしょう。お掛けになって、お休みくださいませ」
お掛けになって。
わたしは、部屋の真ん中の椅子を見た。
断ってはいけない、と思った。
あの人は「嫌なら言え」と言った。でも、それはあの人が言ったことで、この人は違うかもしれない。断ったら、この人はお母さまのように、冷たい顔をするかもしれない。
わたしは、ゆっくりと部屋の中へ入った。
絨毯が、足の裏でふわりと沈んだ。
まるで地面が柔らかくなったみたいで、わたしは思わずよろめきそうになった。
一歩、また一歩と、椅子に近づく。
布張りの、淡い緑色の椅子。肘掛けには、蔓草の模様が彫られていた。
わたしはその前に立って、しばらく見下ろしていた。
それから、おそるおそる、座面の端に腰を下ろした。
沈んだ。
身体が、ずぶずぶと沈んでいった。
座面がわたしの重さを受け止めて、柔らかく形を変えて、わたしを包みこもうとする。背中が背もたれに吸いこまれて、腰が深く深く沈んで、足が床から浮きそうになる。
わたしは、反射的に立ち上がっていた。
心臓が、どくどくと鳴っていた。
怖かった。
何が怖いのか、自分でもよく分からなかった。ただ、あの柔らかさに包まれた瞬間、どこにも逃げられなくなるような気がしたのだ。
地下の石の床は、硬かった。藁は湿っていて、冷たかった。
でも、硬いものは、わたしを捕まえなかった。
この椅子は、わたしを捕まえようとした。
一度包みこまれたら、もう二度と立ち上がれなくなるような。
この柔らかさの代わりに、何か大切なものを差し出さなければならなくなるような。
「リシェル様……?」
セレナさんが、驚いたようにこちらを見ていた。
わたしは椅子から一歩、二歩と後ずさった。
「す、すみません……」
声が震えた。
「わたしには、柔らかすぎて……」
言ってから、それがどんなに妙な言い訳に聞こえるか気づいた。
でも、他に言いようがなかった。
わたしは部屋の隅の、窓から少し離れた壁際まで下がって、そこにしゃがみこんだ。
背中を、壁に押しつける。
硬かった。
冷たかった。
ほんの少しだけ、息がしやすくなった。
セレナさんは、しばらく何も言わなかった。
部屋の真ん中に立ったまま、壁際にうずくまったわたしを、じっと見つめていた。
叱られる、と思った。
せっかく用意したお部屋なのに。せっかく勧めた椅子なのに。
お母さまなら、きっと冷たい声で何か言っただろう。
けれどセレナさんは、叱らなかった。
ただ、静かに歩いてきて、わたしから少し離れたところで足を止めた。
それから、ゆっくりと膝を折った。
侍女長だという人が、絨毯の上に、わたしと同じ高さまで身をかがめた。
「……床のほうが、落ち着かれますか」
わたしは、答えられなかった。
ただ、小さく頷いた。
「左様でございますか」
セレナさんは、それ以上何も訊かなかった。
「でしたら、どうぞそちらでお休みくださいませ。わたくしは隣の控えの間におります。何かございましたら、そこの呼び鈴を鳴らしてくださいまし」
セレナさんは卓の上の小さな銀の鈴を指さした。
それから立ち上がり、窓辺のカーテンを半分ほど引いた。眩しすぎた陽射しが、少しだけ柔らかくなった。
「湯浴みの支度も、お着替えも、いつでもご用意できます。お望みのときに、お申しつけくださいませ」
「あの……」
わたしは、思わず声を出していた。
セレナさんが振り返る。
「はい」
「このお部屋は……」
喉の奥で、言葉がつかえた。
訊いてはいけないことかもしれない。でも、訊かずにはいられなかった。
「このお部屋は、一晩……いくら、なのですか」
セレナさんの顔から、一瞬だけ表情が消えた。
それはほんの一瞬で、すぐに穏やかな顔に戻った。
「お代は、いただきません」
「……でも」
「リシェル様は、陛下のお客様でございますから」
セレナさんは、静かに一礼した。
「それでは、失礼いたします」
扉が、音もなく閉まった。
◇ ◇ ◇
ひとりになった部屋の中で、わたしは壁際にうずくまったまま、ぼんやりと部屋を眺めていた。
お代は、いただきません。
陛下のお客様ですから。
その言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
お代をいただかない、というのは、どういうことなのだろう。
お金を払わなくていい、ということだろうか。
でも、わたしはお金なんて持っていない。最初から払えるはずがない。
だとしたら。
お金ではないもので払う、ということなのだろうか。
わたしが持っている、たったひとつのもので。
わたしは、窓から差しこむ光を見つめた。
明るい光。暖かい光。地下の格子窓から見ていた光の、何十倍、何百倍もの光。
こんなにたくさんの光を浴びるのは、いつ以来だろう。
離れの小さな庭で、林檎の木の下に座っていた頃。あの頃は、お日さまの光なんて当たり前にそこにあるものだった。
七年のあいだに、わたしはそのことさえ忘れかけていた。
――お客様というのは、一番いいお部屋が用意されて、一番いいお料理が出される人。
ヴァレンティアのお屋敷で、お母さまがお客様をもてなしていたとき、それはいつも何かのためだった。
お父さまの商売のため。お兄さまの縁談のため。わたしの石を、もっと高く買ってもらうため。
もてなしには、いつも理由があった。
だとしたら、この部屋にも理由がある。
この光にも。この椅子にも。この柔らかい絨毯にも。
わたしにはまだ、その理由が分からないだけだ。
わたしは、外套の前をぎゅっと握りしめた。
あの人の外套。四日間、ずっとくるまっていた外套。
これも、まだ返していなかった。
返さなければ、と思った。
何もかも、返さなければ。
借りたものが増えれば増えるほど、いつか差し出さなければならないものも増えていくのだから。
胸元で、銀のボタンがかすかに揺れた。
わたしはそれを手のひらで包みこんで、壁に背中を押しつけたまま、柔らかすぎる部屋の中で、じっと夕暮れを待っていた。
◇ ◇ ◇
「――床に、でございます」
執務室の扉の前で、セレナは報告を終えた。
アルフレッドは、書類から顔を上げなかった。
けれどその手の中で、羽根ペンがぴたりと止まっていた。
「椅子には、腰を下ろされた途端に立ち上がられて。柔らかすぎる、とおっしゃいました。それからずっと、窓から離れた壁際に。それと……」
セレナは、少しだけ言いよどんだ。
「お部屋が一晩いくらなのかと、お尋ねになりました」
執務室の空気が、しんと冷えた。
セレナは、主君の顔を見なかった。見なくても、分かっていた。
「……そうか」
長い沈黙のあとで、アルフレッドはそれだけ言った。
「陛下。いかがいたしましょう。もう少し簡素なお部屋に移っていただくことも――」
「いや」
アルフレッドは、羽根ペンを置いた。
「好きにさせろ。床に座りたいなら座らせればいい。椅子を使いたくなったら使えばいい。どちらでもいい」
「かしこまりました」
「それから、セレナ」
「はい」
「あの子に、何かを勧めるときは、一度だけにしろ。断られたら、二度は勧めるな」
セレナは、顔を上げた。
主君は、窓の外を見ていた。東の客殿のほうを。
「二度勧められたら、あの子はそれを命令だと思う」
セレナはしばらく黙って、その横顔を見つめていた。
それから、深く頭を下げた。
「……心得ました」




