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第22話 食べない少女

皇宮の厨房は、その日の午後から戦場のような騒ぎだった。

「火を弱めろ! 煮立たせるな、濁る!」

 料理長ハインツの怒鳴り声が、広い厨房の石壁に跳ね返った。

 五十を過ぎた大柄な男で、二十年以上この皇宮の厨房を預かってきた。先帝の代には外国の王族をもてなす宴を何十回と仕切り、現帝の即位の祝宴では三日三晩、千人分の料理を休まず作り続けた。

 その男が、今日はたった一人分の夕食のために、朝から一度も腰を下ろしていなかった。

「料理長、魚はこれでよろしいですか」

「見せろ。……駄目だ、身が締まりすぎてる。もう一度」

「は、はい!」

 若い料理人が慌てて鍋に戻っていく。

 ハインツは額の汗を拭いながら、作業台の上に広げた一枚の紙を見下ろした。

 陛下直々のお達しだった。

 ――長く飢えていた者の食事を用意しろ。胃に負担をかけるな。脂は少なく、量は控えめに。だが、粗末にはするな。

 最後の一行を、ハインツは何度も読み返していた。

 粗末にはするな。

 あの陛下が、食事のことで何かを言いつけてきたのは初めてだった。戦場帰りの陛下は、何を出しても黙って口に運び、黙って皿を空にする方だった。味の良し悪しを口にされたことなど、一度もない。

 その陛下が、わざわざ。

「料理長、客殿のお客様って、どんな方なんでしょうね」

 若い料理人の一人が、鍋をかき混ぜながら声をひそめた。

「陛下が地方から連れ帰られたって聞きましたけど。どこかの姫君だとか、いや隠し子だとか、侍女たちのあいだじゃもう好き勝手に噂が」

「口より手を動かせ」

 ハインツはぴしゃりと言った。

「どんな方だろうが関係ない。陛下が粗末にするなとおっしゃった。なら、俺たちの仕事は一つだ」


   ◇ ◇ ◇


 日が暮れかけた頃、扉を叩く音がした。

 わたしは、壁際にうずくまったまま顔を上げた。

「リシェル様。お夕食をお持ちいたしました」

 セレナさんの声だった。

 扉が開いて、セレナさんと、その後ろから若い侍女の人が二人、銀の盆を捧げ持って入ってきた。

 わたしは、思わず身体を硬くした。

 侍女の人たちは、壁際の床に座っているわたしを見て、一瞬だけ目を丸くした。けれどすぐに表情を戻して、黙って部屋の真ん中の円い卓のほうへ歩いていった。

 銀の盆が、ひとつ、またひとつと卓の上に並べられていく。

 白い陶器の器。銀の匙。硝子の杯。

 侍女の人たちが器の蓋を取るたびに、湯気がふわりと立ちのぼった。

 澄んだ金色のスープ。白身の魚を柔らかく蒸したもの。なめらかに裏ごしした芋。小さく切りそろえた柔らかい野菜。焼きたての白いパン。蜜で煮た果物。それから、小さな器に入った、ふるふると揺れる白いお菓子。

 どれも、少しずつだった。

 けれど、どれもが、まるで絵の中から抜け出してきたようにきれいだった。

 部屋いっぱいに、温かい匂いが広がった。

 わたしのお腹が、きゅうっと鳴った。

 その音が侍女の人たちに聞こえてしまったような気がして、わたしは膝を抱える腕に力をこめた。


「料理長のハインツが、腕によりをかけてお作りいたしました」

 セレナさんが言った。

「長旅でお疲れの胃にも優しいものをと、陛下からのお言いつけでございます。冷めないうちに、よろしければお召し上がりくださいませ」

 よろしければ。

 セレナさんは、そう言っただけだった。

 それ以上、勧めてはこなかった。卓の脇に静かに立って、わたしのほうを見ている。

 わたしは、卓の上の料理を見つめた。

 金色のスープ。白い魚。甘い匂いの果物。

 お腹は空いていた。

 馬車の中で白いパンを少しかじっただけで、この四日間、ほとんど何も食べていなかった。身体の真ん中に、あの冷たい穴がまたぽっかりとあいている。スープの匂いを嗅いだだけで、喉がごくりと鳴った。

 食べたかった。

 でも。

 ――食事は見せるだけにしろってな。お嬢様がお務めを果たすまで。

 ドルフさんの声がよみがえった。

 ――お腹、空いているでしょう。ほら、あなたのためにちゃんと用意してあるのよ。

 お母さまの声がよみがえった。

 食事というのは、いつもそういうものだった。

 目の前に置かれて、匂いを嗅がされて、それから取り上げられる。取り上げられたくなければ、泣かなければならない。

 林檎ひとつで、十一粒。

 パンとスープで、何粒。

 それなら、この卓の上の料理は。

 あのきらきらした器の、あの金色のスープの、あのお菓子の、全部は。

 わたしは、ゆっくりと口を開いた。

「あの……」

 セレナさんが、わずかに身をかがめた。

「はい」

「これは……何粒分、ですか」


 部屋の中が、しんと静まり返った。

 若い侍女の人たちが、顔を見合わせた。

「なんつぶ……?」

 片方の、まだ十五、六歳くらいの侍女の人が、小さく首をかしげた。そばかすの散った、栗色の髪の女の子だった。

「ええと、パンの数でございますか? パンでしたら、まだ厨房にたくさん――」

「ミーナ」

 セレナさんが、低い声でその子の言葉を遮った。

 その声が、さっきまでとはまるで違っていた。

 わたしは、セレナさんの顔を見た。

 セレナさんの顔から、色が抜けていた。穏やかな侍女長の顔が、まるで硝子にひびが入ったように、ほんの一瞬だけ強張っていた。

 ――この人は、知っているのだ。

 わたしは、そう思った。

 わたしの涙が、何になるのかを。

 だったら、隠しても仕方がない。正直に訊いたほうがいい。後で足りないと言われるより、先に分かっていたほうがいい。

「わたしの涙は、石になるんです」

 わたしは、ミーナさんのほうを見て言った。

 ミーナさんは、何を言われたのか分からないという顔で、ぽかんと口を開けていた。

「青くて黒い石です。ひと粒で、金貨百枚になるって……聞きました。だから、あの、このお食事をいただくには、何粒泣けばいいのか、先に教えていただけたらと思って」

 わたしは、卓の上の料理をもう一度見た。

「お母さまは、林檎ひとつで十一粒でした。パンとスープなら、たぶん、もう少し少なくても……でも、このお料理は、林檎よりずっと高そうなので……」

 わたしは、膝の上で手を握りしめた。

「今日は、まだ泣いていないので……少し時間をいただければ、お腹が空いているので、たぶん――」


 がしゃん、と音がした。

 もうひとりの侍女の人が、手にしていた銀の盆の蓋を、床に落としたのだった。

 絨毯の上で、蓋がころころと転がっていく。

 誰も、それを拾わなかった。

 ミーナさんは、両手で口元を押さえて立ち尽くしていた。そばかすの散った頬から、すうっと血の気が引いていくのが見えた。

 もうひとりの侍女の人も、蓋を落とした手の形のまま、凍りついたように動かなかった。

 セレナさんだけが、ゆっくりと、深く息を吸った。

 それから、わたしの前まで歩いてきた。

 さっきと同じように、わたしから少し離れたところで、絨毯の上に膝をついた。

 わたしと、同じ高さで。

「リシェル様」

 セレナさんの声は、静かだった。

 けれど、ほんのかすかに震えていた。

「このお食事は、何粒分でもございません」

「……え?」

「涙は、一粒もいただきません。今日も、明日も。どのお食事も、です」

 わたしは、セレナさんの顔を見つめた。

 セレナさんは、まっすぐにわたしを見返していた。

「これは、リシェル様が召し上がるためだけに作られたものです。ほかの何かと引き換えにするためのものではございません」

「でも……」

「召し上がりたくなければ、それで構いません。召し上がりたいものだけ、召し上がりたい分だけ。残されても、誰も叱りません」

 わたしは、何も答えられなかった。

 何粒分でもない。

 涙は、一粒もいらない。

 そんなことが、あるはずがなかった。

 お母さまだって、最初はやさしい声で話しかけてきた。最初は、林檎をくれた。

 ――あなたに意地悪がしたいわけじゃないの。

 そう言って、それから「泣いてちょうだい」と言ったのだ。

 わたしは、セレナさんから目をそらした。

「……ごめんなさい」

 小さな声が、こぼれた。

「今は……食べられません」

 セレナさんは、しばらく黙っていた。

 それから、静かに頷いた。

「かしこまりました」

 それ以上、何も言わなかった。


   ◇ ◇ ◇


 セレナさんたちが部屋を出ていったあとも、料理は卓の上に残されていた。

「お下げするのは、明日の朝にいたします」

 扉を閉める前に、セレナさんはそれだけ言った。

 わたしは、壁際から卓の上を見ていた。

 湯気が、少しずつ細くなっていく。金色のスープの表面が、窓から差しこむ夕暮れの光を受けて、静かに光っていた。

 窓の外が、だんだん暗くなっていった。

 お腹が、何度も鳴った。

 そのたびに、わたしは膝を強く抱えた。

 何粒分でもございません。

 セレナさんの声が、耳の奥に残っていた。

 あのときのセレナさんの顔。ミーナさんの、血の気の引いた顔。床に転がった銀の蓋。

 どうして、あんな顔をしたのだろう。

 わたしは、本当のことを言っただけなのに。

 わたしの知っている、たったひとつの決まりごとを。


 夜が更けた頃、わたしはそっと壁際から立ち上がった。

 足音を立てないように、卓のそばまで歩いていく。

 料理はすっかり冷めていた。スープの表面には薄い膜が張って、魚は少し乾いて、ふるふると揺れていた白いお菓子も、もう揺れなかった。

 わたしは、卓の上を見下ろした。

 それから、籠の中の白いパンに手を伸ばした。

 ひとつだけ。

 ちぎって、口に入れる。

 冷めていても、柔らかかった。ほんのりと甘くて、小麦の匂いがした。

 パンなら、と思った。

 パンなら、地下でも食べていた。地下で泣いた分の、ほんの少しの残りで、もしかしたら払えるかもしれない。

 わたしは、パンをひとつだけ食べ終えると、また壁際へ戻った。

 スープにも、魚にも、果物にも、白いお菓子にも、触れなかった。

 膝を抱えて、目を閉じる。

 口の中に、まだパンの甘さが残っていた。

 それがひどく申し訳なくて、わたしは胸元のボタンを服の上から握りしめた。


   ◇ ◇ ◇


 翌朝、厨房に下げられてきた盆を見て、料理長ハインツは長いあいだ黙っていた。

 手つかずのスープ。手つかずの魚。手つかずの果物と、手つかずの白いお菓子。

 なくなっていたのは、籠の中のパンがひとつだけだった。

「……口に合わなかったか」

 低い声で呟いたハインツに、盆を運んできたミーナが首を横に振った。

 ミーナの目は、赤く腫れていた。

「違うんです、料理長。そうじゃないんです」

「何が違う」

 ミーナは唇を噛んだ。

 侍女長から、昨夜のことは誰にも話すなと言われていた。けれど、この人にだけは、言わなければいけない気がした。

「あの方……お食事を、何粒分ですかって」

「粒?」

「涙の、です」

 ミーナの声が震えた。

「あの方の涙は、石になるんだそうです。それで……お家では、泣いた分だけ、ご飯をもらっていたって。林檎ひとつで、十一粒って」

 厨房の中が、静まり返った。

 鍋をかき混ぜていた若い料理人の手が、止まった。

 ハインツは、何も言わなかった。

 ただ、手つかずの盆の上を、じっと見下ろしていた。

 二十年以上、この厨房で料理を作ってきた。王族のために、貴族のために、兵士のために。

 自分の作った料理が、誰かにとって「代価」に見えたことなど、一度もなかった。

 ハインツは、ゆっくりと盆を作業台の上に置いた。

 それから、エプロンの紐を締め直した。

「……パンだけは、食べたんだな」

「はい」

「そうか」

 ハインツは、竈のほうへ歩いていった。

「なら、明日からパンは毎朝焼きたてを出す。いちばん柔らかいやつをだ」

 誰も、何も言わなかった。

 ハインツは、背を向けたまま粉袋の口を開けた。

「――今日の昼も、夜も、作るぞ。手つかずで戻ってきても、構わん」


   ◇ ◇ ◇


 その日の昼過ぎ、宰相クラウスは皇帝の執務室の扉の前で足を止めた。

 中から、何かが砕ける音がしたのだ。

 扉を叩くべきか、迷った。

 やがて、中から低い声がした。

「入れ」

 クラウスが扉を開けると、皇帝は窓辺に立っていた。

 執務机の上で、インク壺がひとつ、粉々に砕けていた。黒いインクが書類の上に広がり、机の縁から床へ、ぽたぽたと滴り落ちている。

 皇帝の右手の甲に、細い切り傷がいくつも走っていた。

「……陛下」

「セレナから聞いた」

 皇帝は、窓の外を見たまま言った。

「何粒分ですか、と訊いたそうだ」

 クラウスは、何も答えなかった。

「クラウス」

「はい」

「勅令の文案を作れ」

 皇帝が、振り返った。

 その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

 けれどクラウスには、その黒い瞳の奥で何が燃えているのか、はっきりと分かった。

「この皇宮で、あの子に涙を求める者がいれば――」

 皇帝は、そこで一度言葉を切った。

 割れたインク壺の破片を、静かに見下ろす。

「それが誰であれ、俺に剣を向けたのと同じに扱う」

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