第23話 床の方が安全
奥の部屋の寝台は、わたしがこれまで見たどんな寝台よりも大きかった。
四隅に細い柱が立っていて、その上から薄い布が天蓋のように垂れ下がっている。布は淡い水色で、窓からの月明かりを受けて、水の底みたいにゆらゆらと揺れていた。
敷布は真っ白だった。枕がいくつも重ねてあって、ふっくらと膨らんだ掛け布団が、まるで雲のように寝台いっぱいに広がっている。
わたしは、その寝台の前に立って、長いこと見下ろしていた。
ここに来て、二度目の夜だった。
昨日の夜は、居間の壁際で座ったまま眠った。寝台のある部屋には、入ることさえできなかった。
今夜は、ようやくここまで来た。
でも、それ以上は進めなかった。
そっと、手を伸ばしてみた。
指先が、掛け布団に触れる。
柔らかかった。
昨日の椅子よりも、ずっと柔らかかった。指を押しこむと、どこまでも沈んでいきそうだった。
わたしは慌てて手を引っこめた。
――この中に横になったら。
身体が沈む。布団に包まれる。周りを薄い布に囲まれる。
それはまるで、柔らかい檻の中に閉じこめられるみたいだった。
地下の牢は硬かった。冷たかった。でも、どこに何があるのか、全部分かっていた。壁の継ぎ目も、床の割れ目も、鉄扉の位置も。誰かが降りてくれば、足音で分かった。差し入れ口が開けば、すぐに目が覚めた。
この寝台の中では、何も分からない。
布の向こうに誰かが立っていても、気づけない。
柔らかさに沈んで、深く眠りこんでしまったら、目が覚めたときには、もう何かが終わっているかもしれない。
それに。
こんなに柔らかいものの中で眠ったら、その代わりに何を差し出せばいいのか。
わたしは、寝台から一歩、二歩と離れた。
部屋の隅に、扉がよく見える場所があった。
衣装棚と壁のあいだの、小さな隙間。そこに座れば、背中は壁に守られて、目の前には部屋の扉が見える。窓からも少し離れていて、外から覗きこまれる心配もない。
わたしは、その隙間にもぐりこむようにして座った。
床には絨毯が敷いてあったけれど、それでも寝台よりはずっと硬かった。
膝を抱える。
あの人の外套を、肩まで引き上げる。
胸元のボタンを、服の上から握りしめる。
それで、ようやく少しだけ、息がしやすくなった。
床の方が、安全だった。
硬いものは、わたしを捕まえない。
硬いものは、何も求めてこない。
わたしは壁に頭をもたせかけて、目を閉じた。
窓の外で、知らない鳥が鳴いていた。
◇ ◇ ◇
朝、扉を叩く音で目が覚めた。
わたしは跳ね起きた。心臓がどくどくと鳴っていた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
地下ではない。
格子窓ではなく、大きな硝子の窓から、まぶしい光が差しこんでいる。
「リシェル様。おはようございます。セレナでございます」
扉の向こうから、穏やかな声がした。
「……は、はい」
扉が開いて、セレナさんが入ってきた。
セレナさんの目が、まず寝台のほうへ向いた。
手つかずの寝台。皺ひとつない敷布。膨らんだままの掛け布団。
それから、部屋の隅へ。
衣装棚の陰で、外套にくるまって膝を抱えているわたしのほうへ。
セレナさんは、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
わたしは身体を硬くした。
叱られる、と思った。
せっかく用意された寝台を使わなかったのだ。昨日の食事も、ほとんど手をつけなかった。何もかも、断ってばかりいる。
けれどセレナさんは、何も言わなかった。
寝台のほうへ歩いていって、窓のカーテンを開けた。それから、少しだけ乱れた天蓋の布を、そっと直した。
それだけだった。
「朝のお支度をお持ちいたしました」
振り返ったセレナさんは、いつもと同じ穏やかな顔をしていた。
「お顔を洗うお湯と、焼きたてのパンでございます。料理長が、今朝はいちばん柔らかいものを焼いたと申しておりました」
卓の上に、小さな籠が置かれた。
白いパンが二つ。まだ湯気が立っていた。
わたしは、その湯気を見つめた。
焼きたての、パン。
わたしがパンだけしか食べていないことを、誰かが見ていたのだろうか。
セレナさんは、部屋を出ていく前に、もうひとつだけ何かを置いていった。
衣装棚の脇の、わたしが座っていた場所のすぐそば。
厚く折りたたまれた、柔らかそうな綿入れの敷物だった。
「こちらに置いておきます」
セレナさんはそれだけ言って、わたしのほうを見ずに一礼した。
使ってください、とは言わなかった。
どうぞ、とさえ言わなかった。
ただ、そこに置いていった。
扉が閉まったあと、わたしは長いこと、その敷物を見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
「――二晩とも、でございます」
皇帝の執務室で、セレナは淡々と報告した。
「最初の夜は居間の壁際で、座ったままお休みになっていました。昨夜は寝所までは入られましたが、寝台には触れられず、衣装棚と壁のあいだに。扉がよく見える場所でございます」
アルフレッドは、書類から顔を上げなかった。
けれどペンの先が、紙の上で止まっていた。
「扉が見える場所、か」
「はい。背中を壁につけて。陛下の外套にくるまって、膝を抱えて」
セレナは少しだけ間を置いた。
「おそらく、地下でもそうして眠っておられたのでしょう」
執務室に、沈黙が落ちた。
窓際に控えていた宰相クラウスが、小さく咳払いをした。
「陛下。差し出がましいようですが、侍医に診せて、少しずつ寝台に慣れていただくよう説得するというのは」
「説得はしない」
アルフレッドは、静かに言った。
「あの子にとって、説得は命令と同じだ。寝台で寝ろと言えば、あの子は寝台で寝るだろう。怖いのを我慢して、一睡もできずに、朝まで天井を見つめて」
クラウスは口をつぐんだ。
「セレナ。敷物は置いたか」
「はい。何も申し上げずに、お座りになっていた場所のそばに」
「それでいい」
アルフレッドはペンを置いた。
そして、しばらく何かを考えるように、執務机の上を見つめていた。
やがて、ぽつりと言った。
「クラウス」
「はい」
「この部屋に、絨毯を敷け」
「……は?」
クラウスは、思わず聞き返した。
皇帝の執務室には、すでに立派な絨毯が敷いてある。東方から献上された、帝国でも指折りの品だ。
「もう一枚、ということでございますか」
「厚いものを。あそこの窓際に。それと、低い文机をひとつ」
アルフレッドは窓際の、陽の当たる一角を指さした。
「今日から、書類はあそこで読む」
クラウスとセレナが、同時に動きを止めた。
「……陛下。それはつまり」
「床に座って読む」
アルフレッドは、何でもないことのように言った。
◇ ◇ ◇
その日の昼過ぎ、宰相クラウス・ベルンシュタインは、自分の目を疑う光景を見た。
皇帝の執務室の窓際。新しく敷かれた厚い絨毯の上に、帝国の主が胡坐をかいて座っていた。
目の前の低い文机には、書類が山と積まれている。皇帝はその一枚を手に取り、眉ひとつ動かさずに読み、署名し、脇へ置き、また次の一枚を手に取っていた。
椅子に座っているときと、何ひとつ変わらない手つきだった。
変わっているのは、座っている高さだけだった。
「陛下」
クラウスは、書類の束を抱えたまま入口で立ち尽くした。
「なんだ」
「……いえ。その、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「言え」
「なぜ、このような」
アルフレッドは、書類から目を上げなかった。
「侍女たちのあいだで、あの子の噂が立っているそうだな」
クラウスは、言葉に詰まった。
知っていたのか、とその顔に書いてあった。
「陛下が連れ帰られた娘は、寝台も使わずに床で寝る、と。食事にも手をつけない、どこか心を病んでいるのではないか、と」
「……左様でございます。侍女長が口止めをしておりますが、何分、人の口に戸は立てられず」
「だろうな」
アルフレッドは、署名を終えた書類を脇へ置いた。
「あの子に床で寝るなとは言わない。言えば、あの子は従う。従って、苦しむ」
次の書類を手に取る。
「だが、床で寝ることがおかしなことだと周りが思っている限り、あの子はこの宮殿で、ずっとおかしな娘として見られる」
「それで、陛下ご自身が」
「皇帝が床に座っているのに、床に座る娘を笑う者はいない」
アルフレッドは、そこで初めて顔を上げた。
「それに」
窓の外を見る。
東の客殿のほうへ。
「……床の方が落ち着く、というのも、分からなくはない」
クラウスは、主君の横顔を見つめた。
戦場で十年近くを過ごしてきた方だった。野営の夜には、地面に外套を敷いて眠ったと聞いている。帝都を追われた少年の頃には、雨風をしのぐ屋根さえない夜もあっただろう。
この方も、本当は。
柔らかい寝台で眠ることに、どこか慣れきれずにいるのかもしれない。
クラウスは、それ以上何も尋ねなかった。
ただ、抱えていた書類の束を、低い文机の脇にそっと置いた。
自分も膝を折って、絨毯の上に座りながら。
「――では、陛下。東部諸州の件でございますが」
アルフレッドが、わずかに眉を上げた。
「お前まで座る必要はない」
「陛下を見下ろしながらご報告申し上げるほうが、よほど落ち着きませんので」
クラウスは、何でもないような顔で書類を広げた。
皇帝は、ほんの一瞬だけ何かを言いかけて、やめた。
それから、黙って書類を受け取った。
◇ ◇ ◇
「――陛下が、床で?」
昼食の盆を下げに来たミーナさんの話を聞いて、わたしは思わず聞き返していた。
昼食も、パンしか食べなかった。ミーナさんはそれについては何も言わずに、手つかずの器を静かに盆へ戻しながら、ふと思い出したように話しはじめたのだった。
「はい。今朝から、執務室の窓際に新しい絨毯を敷かせて、そこにお座りになって書類をお読みになっているんです。宰相閣下まで床に座っていらしたって、侍従の方たちが大騒ぎで」
ミーナさんは、声をひそめて笑った。
一昨日の夜、血の気の引いた顔で口元を押さえていたのと同じ人とは思えないくらい、明るい笑い方だった。
「陛下は、床の方が落ち着くっておっしゃったそうですよ。戦場が長かったから、って」
わたしは、何も言えなかった。
床の方が、落ち着く。
あの人が。
皇帝が。
どうして、と思った。
あんなに立派な部屋があるのに。あんなに柔らかい椅子があるはずなのに。
どうしてあの人は、わざわざ床に座るのだろう。
――わたしの、せい?
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
でも、すぐに打ち消した。
皇帝が、わたしのために何かをするはずがない。わたしが床で寝ていることなんて、きっと知りもしない。知っていたとしても、それで自分まで床に座る理由なんてない。
きっと、本当に床の方が落ち着くのだろう。
戦場が長かったから。
そう思うことにした。
でも、ミーナさんが部屋を出ていったあとも、その話はずっと頭の隅に残っていた。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしはまた衣装棚と壁のあいだの隙間に座った。
すぐそばには、セレナさんが置いていった綿入れの敷物があった。
朝からずっと、そこにあった。一日じゅう、誰にも動かされずに。
わたしは、その敷物をしばらく見つめていた。
寝台ほど、柔らかくはなさそうだった。
でも、絨毯の上に直に座るよりは、ずっと柔らかそうだった。
使ってください、とは言われなかった。
どうぞ、とさえ。
ただ、置いてあるだけ。
使っても使わなくても、誰も何も言わない。
わたしは、そっと手を伸ばした。
敷物の端に、指先で触れてみる。
柔らかかった。けれど、あの椅子のように、どこまでも沈んでいく柔らかさではなかった。ちゃんと、下に床があるのが分かる柔らかさだった。
わたしは長いこと迷ってから、敷物を広げて、その上に座りなおした。
背中は壁に。目の前には扉。窓からは少し離れて。
場所は、昨日と何も変わらない。
変わったのは、お尻の下の、ほんの少しの厚みだけだった。
あの人の外套を、肩まで引き上げる。
胸元のボタンを、服の上から握りしめる。
――陛下は、床の方が落ち着くっておっしゃったそうですよ。
ミーナさんの声が、耳の奥でよみがえった。
あの人も今頃、どこかの床に座っているのだろうか。
この宮殿のどこかで、わたしと同じように、硬い床の上で。
そう思ったら、なぜだか、ほんの少しだけ、胸の奥が静かになった。
わたしは壁に頭をもたせかけて、目を閉じた。
その夜は、昨日よりも少しだけ、深く眠れた気がした。




