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第24話 何回泣けばいいですか?

侍女長セレナが皇宮に上がったのは、十四の春のことだった。

 帝都の外れの、小さな染物屋の三女だった。上の姉二人はとうに嫁ぎ、家には弟たちが四人もいて、父は口減らしのつもりで末娘を奉公に出した。

 最初に与えられた仕事は、洗い場の床磨きだった。

 朝から晩まで膝をついて石の床をこすり、手はひび割れ、指先からはいつも血が滲んでいた。それでも、食事は日に二度、きちんと出た。寝床もあった。仕事をすれば給金がもらえて、その一部を家に送ることもできた。

 つらかったけれど、理不尽ではなかった。

 働けば、報われる。

 怠ければ、叱られる。

 皇宮というところは、そういう場所だった。

 それから二十五年。床磨きの娘は、いつの間にか侍女長と呼ばれるようになっていた。何百人もの侍女たちをまとめ、王侯貴族の客人たちの世話を取り仕切り、先帝の崩御も、簒奪者の時代も、現帝の帰還も、すべてこの宮殿の中で見てきた。

 どんな客人が来ても、うろたえたことはなかった。

 気難しい老公爵も。我儘な異国の姫君も。泣き叫ぶ幼い王子も。

 どんな相手にも、侍女長として、すべきことをしてきた。

 その自分が。

 まさか、たった一言で、何も言えなくなる日が来るとは思っていなかった。


   ◇ ◇ ◇


 その朝、セレナは一着のドレスを腕に抱えて、東の客殿の扉の前に立っていた。

 淡い若草色の、簡素なドレスだった。

 飾りはほとんどない。襟元に小さなレースが少しだけついていて、袖口が柔らかく絞ってある。生地は上等な綿で、肌に触れても擦れないように、縫い目の裏まで丁寧に始末してあった。

 皇宮の仕立て部屋の女たちに頼んで、二晩かけて仕立てさせたものだった。

 あの娘の着ている服は、もう服とは呼べないものだった。

 いつのものなのかも分からない、すり切れて色の抜けた粗末な肌着と、その上に重ねた薄い上衣。どちらも裾がほつれ、肘には穴があいていた。地下の湿気と汚れが沁みこんで、もとの色が何色だったのかさえ分からない。

 あの娘は、それを着たまま、皇帝陛下の外套にくるまって、四日間の旅をしてきたのだ。

 皇宮に来てからも、三日間ずっと。

 湯浴みを勧めたのは、初日の一度きりだった。陛下のお言いつけどおり、二度は勧めていない。

 だから、せめて着替えだけでも、と思った。

 華やかなものではいけない。あの娘はきっと、高価なものほど恐れる。だから、できるだけ簡素に。できるだけ柔らかく。それでいて、粗末にはならないように。

 侍女たちが着ているお仕着せと、ほとんど変わらないくらいのものを。

 セレナは、腕の中のドレスを見下ろした。

 これなら、と思った。

 これなら、あの娘も受け取ってくれるかもしれない。

 セレナは、扉を叩いた。


   ◇ ◇ ◇


「リシェル様。おはようございます」

 セレナさんが入ってきたとき、わたしはいつものように衣装棚と壁のあいだにいた。

 セレナさんが置いていってくれた敷物の上に座って、あの人の外套にくるまって。

 セレナさんはいつものように、まず卓の上に朝の籠を置いた。焼きたての白いパンが二つ。今朝も、まだ湯気が立っていた。

 それから、セレナさんは腕に抱えていたものを、わたしのほうへ見せるようにした。

「今日は、これをお持ちいたしました」

 淡い緑色の布だった。

 セレナさんがそれを両手で広げると、それは一着のドレスの形になった。

 春の新しい葉っぱのような色。襟元に、ほんの少しだけ白いレース。

 わたしは、それを見つめた。

「リシェル様のお召し物です。仕立て部屋の者たちに、お身体に合うよう仕立てさせました」

 わたしの、お召し物。

 わたしのために、仕立てた。

 セレナさんは、ドレスをそっと腕にかけ直した。

「今お召しの服は、だいぶ傷んでおりますので。よろしければ、お着替えくださいませ」

 よろしければ。

 セレナさんは、いつものようにそれだけ言った。

 わたしは、自分の着ているものを見下ろした。

 すり切れた肌着。穴のあいた上衣。地下の匂いが、まだ沁みついている。

 セレナさんの持っているドレスと並べると、まるで別の世界のものみたいだった。

 きれいだった。

 柔らかそうだった。

 あれを着たら、この地下の匂いも、少しは消えるのだろうか。


 でも。

 わたしは、胸元に手を当てた。

 この肌着の、胸元の合わせ目。そこに、ほつれた糸でボタンをくくりつけてある。地下で紐が切れてから、ずっと。

 この服を脱いだら、ボタンも外さなければならない。

 それに。

 わたしは、セレナさんの腕の中のドレスを、もう一度見た。

 あれを仕立てるのに、どれくらいかかったのだろう。

 布を買って、仕立て部屋の人たちが縫って。二晩かけて、と言った。何人もの人が、わたしのために。

 お母さまのドレスは、仕立て屋が来るたびに、何粒もの石と引き換えになっていた。新しいドレスを作る前の月は、いつもいつもより多く泣かされた。

 ――品評会に着ていくドレスを仕立てるのよ。だからね、リシェル。今月はもう少し頑張ってちょうだい。

 お母さまの声が、耳の奥でよみがえった。

 ドレスというのは、そういうものだった。

 この部屋のお代はいただかない、とセレナさんは言った。食事も、何粒分でもない、と言った。

 でも、ドレスは。

 わたしのために、わざわざ新しく作ったドレスは。

 それはきっと、部屋や食事とは違う。

 わたしは、セレナさんの顔を見上げた。

 セレナさんはやさしい顔をしていた。お母さまのような、紙を切り抜いたみたいな笑顔ではなかった。本当に、わたしのことを気にかけてくれているような顔だった。

 だから、ちゃんと訊かなければ、と思った。

 受け取ってしまってから、足りないと言われるのは、いちばん怖いから。

「あの……セレナさん」

「はい」

「これを、いただくには」

 喉の奥が、少しだけ震えた。

「何回、泣けばいいですか?」


   ◇ ◇ ◇


 セレナは、何も言えなかった。

 腕の中のドレスが、急に重たくなった気がした。

 何回、泣けばいいですか。

 娘は、セレナの顔をまっすぐに見上げていた。

 怯えてはいなかった。

 少なくとも、そう見えなかった。

 ただ、本当に知りたいことを、礼儀正しく尋ねているだけの顔だった。部屋の値段を訊いたときと同じ顔。食事が何粒分かを訊いたときと同じ顔。

 この娘にとって、それは当たり前の質問なのだ。

 ものを受け取るときには、代価を払う。

 その代価が、この娘の場合は、涙なのだ。

 セレナは口を開いた。

 何か言わなければ、と思った。

 何回でもありません。一度も泣かなくていいのです。これはただの贈り物で、陛下のお心遣いで、わたくしどもの――。

 どの言葉も、喉の奥でほどけて、形にならなかった。

 食事のときには、言えた。何粒分でもございません、と。

 けれど、あのとき言った言葉は、この娘には届かなかったのだ。

 届かなかったから、この娘は今、同じことをもう一度訊いている。

 部屋が無料でも。食事が無料でも。

 それでもこの娘は、次のものには代価があると思っている。

 この三日間で、何ひとつ変わっていない。

 何を言っても、同じなのではないか。

 この娘の中に深く深く刻まれたものは、言葉ひとつで消せるようなものではないのではないか。

 二十五年、侍女長として、どんな相手にもかける言葉を持っていた。

 その言葉が、今、ひとつも見つからなかった。


「……セレナさん?」

 娘が、小さく首をかしげた。

 セレナが黙っていることに、不安を覚えたのだろう。その瞳に、かすかな怯えの色が差した。

「あの、ごめんなさい。いけないことを、訊きましたか」

「いいえ」

 ようやく、それだけが出た。

 自分の声が、ひどくかすれているのが分かった。

「いいえ。いけないことなど、何も」

 セレナは、ドレスを腕に抱えたまま、膝をついた。

 娘から少し離れた、いつもの場所に。

 娘と、同じ高さに。

 そして、娘の顔を見つめた。

 痩せた頬。陽の光を知らない白い肌。灰色がかった青い瞳。

 十七だと聞いた。

 セレナが洗い場の床を磨いていた頃と、ほとんど変わらない年だった。

 あの頃のセレナには、ひび割れた手があった。冷たい石の床があった。けれど、働けば報われると信じることができた。

 この娘には、それさえなかった。

 この娘が知っている世界では、報われるために差し出せるものが、自分の涙しかなかったのだ。

「リシェル様」

 セレナは、もう一度口を開いた。

 けれどやはり、その先の言葉が見つからなかった。

 何回でもありません、と言えば、この娘は「では、なぜ」と思うだろう。なぜ何も求められないのか。それが分からなければ、この娘はまた怯える。

 贈り物です、と言えば、この娘はきっと「贈り物には何を返せばいいのか」と考えるだろう。

 何を言っても、この娘はその言葉の裏側を探す。

 そうしなければ生きてこられなかったのだから。

 セレナは、しばらく黙っていた。

 そして結局、言葉の代わりに、腕の中のドレスを丁寧にたたんだ。

 娘の座っている敷物の、すぐそばに置く。

 昨日、敷物を置いたのと同じように。

「……こちらに、置いておきます」

 それだけ、言った。

「お召しになっても、お召しにならなくても、構いません」

 娘は、たたまれたドレスを見下ろしていた。

 答えを待っているのが分かった。

 何回泣けばいいのか、という問いへの答えを。

 セレナは、それに答えないまま立ち上がった。

 答えられないまま。

「失礼いたします」

 一礼して、扉へ向かう。

 背中に、娘の視線を感じた。

 セレナは振り返らなかった。

 振り返ったら、きっと侍女長の顔を保っていられないと思った。


   ◇ ◇ ◇


 扉を閉めた途端、セレナは廊下の壁に手をついた。

 膝が、少しだけ震えていた。

 侍女長になってから、人前で膝を震わせたことなど一度もなかった。

「侍女長?」

 廊下の向こうから、ミーナが洗濯物の籠を抱えて歩いてきた。

 セレナの顔を見て、そばかすの散った顔がさっと強張る。

「ど、どうなさったんですか。お顔の色が」

「なんでもありません」

 セレナは壁から手を離し、背筋を伸ばした。

「ミーナ。仕事に戻りなさい」

「でも」

「戻りなさい」

 ミーナはしばらくセレナの顔を見つめていたが、やがて小さく頷いて、廊下の向こうへ歩いていった。

 ひとりになって、セレナは目を閉じた。

 ――何回、泣けばいいですか。

 あの声が、耳から離れなかった。

 怯えてもいない、責めてもいない、ただ当たり前のことを尋ねるような、あの静かな声が。

 セレナは、目を開けた。

 侍女長として、すべきことをしなければならない。

 答えられなかったのなら、答えられる人に伝えなければならない。

 セレナは、皇帝の執務室へ向かって歩きだした。

 途中で一度だけ足を止め、目元を指先でそっと押さえた。

 それから、二度と立ち止まらなかった。


   ◇ ◇ ◇


 セレナさんが出ていったあと、わたしは長いこと、たたまれたドレスを見つめていた。

 答えは、もらえなかった。

 何回泣けばいいのか。

 セレナさんは、何も言わなかった。

 言えないくらい、多いのだろうか。

 それとも、言わなくても分かるだろう、ということなのだろうか。

 分からなかった。

 でも、ひとつだけ、気になることがあった。

 セレナさんの顔。

 わたしが訊いたとき、セレナさんは、まるでどこかが痛むような顔をしていた。

 お母さまは、わたしに泣けと言うとき、あんな顔はしなかった。いつも穏やかで、やさしくて、少しも痛そうではなかった。

 石を拾うとき、お母さまはいつも、とても嬉しそうだった。

 セレナさんは、嬉しそうではなかった。

 どうしてだろう。

 わたしが泣いて、それでドレスの代わりになるなら、セレナさんにとっても良いことのはずなのに。

 わたしは、そっと手を伸ばした。

 たたまれたドレスの端に、指先で触れる。

 柔らかかった。

 さらさらとしていて、ほんのりとお日さまの匂いがした。

 縫い目に指を這わせてみると、裏側まできれいに始末してあって、肌に当たっても少しも痛くなさそうだった。

 誰かが、丁寧に縫ってくれたのだ。

 わたしが着ることを考えて。

 わたしの肌に、痛くないように。

 わたしは、指を引っこめた。

 胸の奥が、なぜだか、きゅうっと苦しくなった。

 まだ、着ることはできなかった。

 この肌着には、ボタンがくくりつけてある。それに、何回泣けばいいのか、まだ分からない。

 でも、わたしはそのドレスを、敷物のすぐそばに置いたままにしておいた。

 手の届く場所に。

 目に入る場所に。

 夜になって、部屋が暗くなってからも、若草色のドレスは、月明かりの中でぼんやりと浮かんでいた。

 まるで、わたしが手を伸ばすのを、何も言わずに待っているみたいに。

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