第25話 皇帝勅令第一七号
侍女長セレナが執務室の扉を叩いたとき、皇帝は窓際の絨毯の上で書類を読んでいた。
その傍らで、宰相クラウスもまた床に腰を下ろし、別の書類の束をめくっていた。
昨日から、この執務室ではそれが当たり前の光景になりつつあった。
「入れ」
セレナは扉を開け、一礼した。
顔を上げたとき、皇帝の黒い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
セレナが何かを言う前に、皇帝は書類を置いた。
「……何があった」
侍女長の顔を一目見ただけで、分かったのだろう。
セレナは、もう一度深く頭を下げた。
「リシェル様に、お召し物をお持ちいたしました」
「ああ」
「そのとき、お尋ねになりました」
セレナは、そこで一度言葉を切った。
喉の奥が、まだかすかに震えていた。
「――これをいただくには、何回泣けばいいですか、と」
執務室の中が、静まり返った。
クラウスが、手にしていた書類を膝の上に下ろした。
皇帝は、何も言わなかった。
ただ、膝の上に置いた手が、ゆっくりと握りしめられていくのが見えた。
「わたくしは」
セレナは顔を伏せたまま言った。
「お答えすることが、できませんでした」
「……そうか」
「二十五年、この宮殿にお仕えしてまいりました。どのようなお客様にも、申し上げるべき言葉は心得ているつもりでおりました。けれど、あの方には」
セレナの声が、かすれた。
「何を申し上げても、あの方はその裏をお探しになるでしょう。何回泣かなくてもよいと申し上げれば、ではなぜ、とお思いになる。贈り物ですと申し上げれば、贈り物には何を返せばよいのか、とお考えになる」
セレナは、顔を上げた。
「わたくしの言葉では、届きません」
皇帝は、長いあいだ黙っていた。
窓の外を、雲がひとつ流れていった。
やがて皇帝は、クラウスのほうへ顔を向けた。
「クラウス。一昨日命じた文案は」
「……こちらに」
クラウスは、書類の束の中から一枚の紙を抜き出した。
一昨日、皇帝の手がインク壺を砕いた日に命じられたものだった。宰相はその夜、何度も書き直していた。
皇帝はそれを受け取り、目を走らせた。
そして、眉をひそめた。
「回りくどい」
「は」
「『客人に対し、その意に反する行為を強いることを禁ずる』。これでは何も言っていないのと同じだ」
「陛下、恐れながら申し上げます」
クラウスは、居住まいを正した。
「あの方の異能のことは、まだごく限られた者しか知りません。勅令の文言に『涙』と記せば、宮廷中の者が、なぜ涙なのかと首をかしげましょう。いずれ、あの方の涙が何になるのかを嗅ぎつける者も出てまいります」
「いずれ出てくる」
皇帝は、紙から目を上げずに言った。
「あの晩の侍女も、厨房の者たちも、もう知っている。口止めはしてある。だが、人の口に戸は立てられない。お前が言ったことだ」
「……は」
「隠しておけば、いつか誰かが、こっそりあの子に近づくだろう。善意か、悪意か、ただの好奇心か。一粒だけ見せてくれないか、とな」
皇帝は、紙を床の上に置いた。
「そのとき、あの子はどうすると思う」
クラウスは答えなかった。
答えは、分かっていた。
あの娘は、きっと泣くのだ。
求められたのだから。
断る方法を、知らないのだから。
「曖昧な言葉では、あの子を守れない」
皇帝は言った。
「誰が読んでも、一字も読み違えようのない言葉で書け」
◇ ◇ ◇
クラウスは、新しい紙を取り出した。
羽根ペンをインクに浸し、皇帝の言葉を待つ。
皇帝は、窓の外を見ていた。
東の客殿のほうを。
「リシェルに対し、涙を求めること」
低い声だった。
「言葉によるか、行いによるか、その手段を問わず。命令であれ、懇願であれ、取引であれ。泣かせようと企てること、泣くことを期待して何かを与えること、泣かなかったことを理由に何かを奪うこと。そのすべてを」
クラウスのペンが、紙の上を走る。
「皇帝への反逆と、同義とする」
ペンが、止まった。
クラウスは、顔を上げた。
「……陛下」
「書け」
「反逆、でございますか」
クラウスの声に、隠しきれない動揺が滲んでいた。
「帝国の法において、反逆罪は最も重い罪でございます。死罪、あるいはそれに準ずる刑。一族郎党にまで累が及ぶこともある。それを、娘ひとりに涙を求めた程度のことに」
「程度」
皇帝が、ゆっくりとクラウスのほうを振り向いた。
クラウスは、口をつぐんだ。
皇帝の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
けれどその黒い瞳の奥で、何かが静かに燃えていた。
「お前は、地下を見ていない」
「……は」
「あの子が十の年から七年間、何に繋がれていたか。何を食わされ、何を食わされなかったか。泣くたびに、誰がその涙を拾っていったか」
皇帝の声は、少しも荒らいでいなかった。
「あの子にとって、泣けと言われることは、剣を突きつけられることと同じだった。泣かなければ食事を奪われた。泣かなければ寒い牢に放っておかれた。泣かなければ、生きていられなかった」
皇帝は、床に置いた紙を見下ろした。
「だから、反逆と同じに扱う。あの子に剣を向けることは、俺に剣を向けることだ」
執務室に、長い沈黙が落ちた。
セレナは、扉のそばに立ったまま、身じろぎもできずにいた。
やがてクラウスは、深く、深く息を吐いた。
「……宮廷の者たちが、何と噂するか。お分かりでございましょうな」
「分かっている」
「血も涙もない皇帝が、連れ帰った娘ひとりのために、反逆罪の勅令を出した。陛下はあの娘に心を奪われたのだ、と。あるいは――あの娘には、陛下が独り占めしたいほどの何かがあるのだ、と」
「好きに言わせておけ」
皇帝は、もう一度窓の外を見た。
「俺が何と言われようと構わない。あの子が、この宮殿で一度でも泣けと言われるよりは、ずっといい」
クラウスは、しばらく主君の横顔を見つめていた。
それから、黙ってペンをインクに浸した。
紙の上に、最後の一行を書き加える。
――皇帝への反逆と同義とする。
インクが乾くのを待って、クラウスは紙を皇帝に差し出した。
皇帝はそれを受け取り、末尾に署名をした。
そして、指輪の印章を、ためらいなく押しつけた。
「本日をもって、勅令第一七号とする。宮廷のすべての者に布告しろ。侍従、侍女、近衛、料理人、庭師、一人残らずだ」
「……かしこまりました」
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、皇宮の大広間に、宮殿に仕える者たちが集められた。
侍従も、侍女も、近衛の騎士も、厨房の料理人も、庭師も、厩番も。
何百人もの人間が広間を埋め尽くし、ざわざわと落ち着かない声が天井に反響していた。
「何事だ? こんな時刻に全員集めるなんて」
「また粛清じゃないだろうな」
「しっ、聞こえるぞ」
ひそひそと交わされる声の中に、ミーナもいた。
侍女たちの列の後ろのほうで、そばかすの散った顔を緊張に強張らせながら、前のほうを見つめていた。その隣には、厨房から呼び出された料理長のハインツが、前掛けをつけたまま腕を組んで立っていた。
やがて、広間の奥の壇上に、宰相クラウスが姿を現した。
ざわめきが、すうっと引いていく。
クラウスは、手にした羊皮紙を広げた。
「皇帝陛下の勅命を伝える」
よく通る声が、広間の隅々まで響いた。
「勅令第一七号」
広間が、しんと静まり返った。
「東の客殿に滞在される客人、リシェル殿に対し、涙を求めることを禁ずる」
誰かが、小さく息を呑む音がした。
涙。
その言葉に、広間のあちこちで、戸惑ったような視線が交わされた。
クラウスは、構わずに続けた。
「言葉によるか、行いによるかを問わず。命令であれ、懇願であれ、取引であれ。泣かせようと企てること。泣くことを期待して何かを与えること。泣かなかったことを理由に何かを奪うこと。そのすべてを禁ずる」
クラウスは、一度だけ言葉を切った。
広間を、ゆっくりと見渡す。
「これに背く者は、その身分を問わず――皇帝陛下への反逆と同義とする」
広間が、凍りついた。
反逆。
その言葉の重さを、ここにいる誰もが知っていた。
三年前、簒奪者に与した貴族たちがどうなったか。ついこのあいだ、西で兵を挙げた者たちがどうなったか。この宮殿に仕える者で、それを知らない者はいなかった。
誰も、何も言わなかった。
咳ひとつ、聞こえなかった。
クラウスは羊皮紙を丁寧に巻き取り、もう一度だけ広間を見渡した。
「以上である」
宰相が壇上から姿を消しても、しばらくのあいだ、誰も動けなかった。
やがて、少しずつ、ざわめきが戻ってきた。
けれどそれは、さっきまでのざわめきとはまるで違っていた。
「涙を求めたら、反逆……?」
「どういう意味だ。泣かせたら死罪ってことか」
「陛下が連れ帰った娘だろう? いったい何者なんだ」
「やっぱり、どこかの姫君なんじゃないか。陛下があそこまで」
「いや、それにしたって、涙ってのは妙だ」
ひそひそと交わされる声の中で、ミーナは唇を噛んでいた。
――あの方の涙は、石になるんだそうです。
厨房で料理長に打ち明けたとき、自分の声はひどく震えていた。
その意味を、ここにいるほとんどの者は知らない。
知らないまま、ただ「涙」という言葉の妙さに首をかしげている。
「……料理長」
ミーナは、隣のハインツを見上げた。
ハインツは、腕を組んだまま壇上を見つめていた。
その厳つい顔に、何の表情も浮かんでいなかった。
けれどミーナには分かった。この人は今、怒っているのではない。
「陛下は」
ハインツが、ぽつりと言った。
「本気で、あの子を守る気だ」
それだけ言って、ハインツは厨房のほうへ歩きだした。
前掛けの紐を、ぎゅっと締め直しながら。
◇ ◇ ◇
その夜、セレナはもう一度、東の客殿の扉を叩いた。
「リシェル様。セレナでございます」
「……はい」
扉を開けると、娘はいつもの場所にいた。
衣装棚と壁のあいだ。敷物の上で、皇帝の外套にくるまって。
そのすぐそばに、今朝置いていった若草色のドレスが、たたまれたままになっていた。
セレナは、娘から少し離れた場所に膝をついた。
「今朝のお尋ねに、お答えしに参りました」
娘の肩が、かすかに強張った。
――何回、泣けばいいですか。
その問いの答えを、娘はずっと待っていたのだろう。
セレナは、まっすぐに娘の目を見た。
「一度も、でございます」
娘は、まばたきをした。
「……いち、ども?」
「はい。そのお召し物にも、このお部屋にも、お食事にも。リシェル様が涙を流される必要は、一度もございません」
「でも……」
「今日、陛下が勅令をお出しになりました」
セレナは、静かに言った。
「この宮殿で、リシェル様に涙を求めることを禁ずる、と。言葉でも、行いでも。命令でも、お願いでも、取引でも。リシェル様を泣かせようとする者は、陛下に剣を向けたのと同じ罪になる、と」
娘は、何も言わなかった。
ただ、その灰色がかった青い瞳が、大きく見開かれていた。
「宮殿に仕える者すべてが、それを聞きました。侍女も、料理人も、騎士も。わたくしも、です」
セレナは、娘の手元のドレスに目を落とした。
「ですから、それは贈り物でございます。何かと引き換えにするものではございません。わたくしがそう申し上げても、信じていただけないかもしれません。けれど、陛下のお言葉なら」
セレナは、そこで言葉を切った。
娘が、ゆっくりと首を振ったからだった。
「……どうして」
かすれた声だった。
「どうして、皇帝陛下が、そんな」
「それは」
セレナは、答えようとして、やめた。
それは、自分が答えていいことではない気がした。
「いつか、陛下ご自身にお尋ねくださいませ」
セレナは立ち上がり、一礼した。
「おやすみなさいませ、リシェル様」
◇ ◇ ◇
セレナさんが出ていったあと、わたしは長いこと、暗い部屋の中で膝を抱えていた。
一度も。
セレナさんは、そう言った。
一度も、泣かなくていい。
この宮殿で、わたしに泣けと言う人は、皇帝に剣を向けたのと同じ罪になる。
分からなかった。
どうしてあの人は、そんなことをするのだろう。
わたしの涙は、金貨百枚になる。あの人は、それを知っているはずだ。地下で、あの人はわたしの石を拾って、大切そうにしまっていった。
それなのに、どうして。
泣かせないための決まりを、わざわざ作るのだろう。
わたしは、胸元のボタンを服の上から握りしめた。
ひとつだけ、思いついたことがあった。
――他の誰にも、泣かせないため。
この宮殿の誰も、わたしに泣けと言えなくなったら。
わたしの涙を手に入れられるのは、あの人ひとりだけになる。
お母さまも、わたしの石を誰のものにもさせなかった。
ドルフさんが牢の床から拾うことはあっても、それは必ずお母さまのところへ運ばれていった。ドルフさんが一粒でもくすねたら、その日のうちに首が飛ぶ。いつだったか、差し入れ口の向こうでドルフさんがそうこぼしていたのを覚えている。
大切なものは、誰にも渡さない。
自分だけのものにする。
それなら、分かる。
それなら、ちゃんと理屈が通る。
わたしは、そう思おうとした。
でも。
――泣かなかったことを理由に、何かを奪うこと。
セレナさんが言った言葉の、その一節が、なぜだか胸の奥に引っかかって離れなかった。
泣かなかったことを理由に、何かを奪うこと。
それは、お母さまがわたしにしてきたことだった。
ドルフさんが、差し入れ口から盆を引っこめたことだった。
あの人は、それを禁じたのだ。
自分だけのものにしたいなら、どうしてそんなことまで禁じる必要があるのだろう。
わたしが泣かなくても、何も奪わないなんて。
それでは、あの人はどうやって、わたしを泣かせるつもりなのだろう。
分からなかった。
どれだけ考えても、分からなかった。
わたしは、そばに置いたままの若草色のドレスに目を向けた。
月明かりの中で、ぼんやりと浮かんでいる。
まだ、手は伸ばせなかった。
けれどその夜、わたしは初めて、明日のことを少しだけ考えた。
明日、誰もわたしに泣けと言わなかったら。
明日も、その次の日も、誰も。
そのとき、わたしは何をすればいいのだろう。




