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第26話 泣けと言われない日

朝が来たことを教えてくれたのは、大きな硝子の窓だった。

 灰色の光が、少しずつ白くなっていく。地下の格子窓とは比べものにならないほどたくさんの光が、部屋の中に流れこんでくる。

 わたしは衣装棚と壁のあいだで、敷物の上に座ったまま、その光が変わっていくのを見ていた。

 ほとんど眠れなかった。

 ――一度も、でございます。

 セレナさんの声が、一晩じゅう耳の奥で鳴っていた。

 この宮殿で、わたしに泣けと言う人はいない。

 言えば、皇帝に剣を向けたのと同じ罪になる。

 本当だろうか。

 本当に、今日、誰も、わたしに泣けと言わないのだろうか。

 わたしは膝を抱えて、扉を見つめていた。

 最初に誰が入ってくるのか。その人が、何を言うのか。

 それを確かめるまでは、どうしても眠れなかった。


 扉を叩く音がしたのは、光がすっかり白くなった頃だった。

「リシェル様。おはようございます。セレナでございます」

「……はい」

 セレナさんが入ってきた。

 いつもと同じように、卓の上に朝の籠を置く。白いパンが二つ。今朝も、湯気が立っていた。

 それから、窓のカーテンを半分だけ開けて、部屋の中を見回した。

 衣装棚のそばに、たたまれたままの若草色のドレスがあった。

 セレナさんの目が、ほんの一瞬だけそこに留まった。

 わたしは、身体を硬くした。

 何か言われる、と思った。

 昨日あれだけ説明してもらったのに、まだ着ていない。まだ、パンしか食べていない。

 けれどセレナさんは、ドレスから目を離して、わたしのほうに向き直った。

「本日も、よいお天気になりそうでございます」

 それだけだった。

「何かございましたら、呼び鈴を鳴らしてくださいまし」

 一礼して、セレナさんは部屋を出ていった。

 扉が、静かに閉まった。

 わたしは、閉まった扉を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 ――泣いて、とは言われなかった。

 当たり前だ、と思った。

 朝はまだ、始まったばかりなのだから。


   ◇ ◇ ◇


 昼前に、ミーナさんが掃除に来た。

「失礼いたします、リシェル様。お部屋を少し整えさせていただきますね」

 ミーナさんは、わたしのほうをちらりと見て、にこっと笑った。

 それから、窓の硝子を拭いたり、花瓶の水を替えたり、卓の上を整えたりしはじめた。手を動かしながら、ときどき、独り言のように話しかけてくる。

「今日はお庭の薔薇が、いくつか咲きはじめたんですよ。庭師のおじいさんが朝から自慢してまわってて」

「……そう、なんですか」

「はい。今年は咲くのが少し遅かったんですけど、そのぶん色がきれいだって。あ、この花瓶のお花も、そのおじいさんが選んでくれたんです」

 ミーナさんは花瓶の白い花を少しだけ整えて、満足そうに頷いた。

 わたしは、ミーナさんの背中をじっと見ていた。

 いつ言われるのだろう、と思っていた。

 お掃除が終わったら。お花を整え終わったら。部屋を出る前に、振り返って。

 ――ところで、リシェル様。

 ――少しだけ、泣いていただけませんか。

 そう言われるのを、ずっと待っていた。

 けれどミーナさんは、お掃除を終えると、雑巾を籠にしまって、また、にこっと笑った。

「それでは、失礼いたします。何かあったら、いつでも呼んでくださいね」

 扉が閉まった。

 わたしは、そのままの姿勢で、しばらく扉を見つめていた。

 言われなかった。

 今度も。


   ◇ ◇ ◇


 昼食が運ばれてきた。

 卓の上に、昨日と同じように、少しずつの料理が並べられた。温かいスープ、柔らかい魚、裏ごしした野菜、白いパン。それから、蜜で煮た林檎がひと皿。

 セレナさんは料理を並べると、「どうぞ、お召し上がりくださいませ」とだけ言って、出ていった。

 わたしは、パンだけを食べた。

 林檎の甘い匂いが、部屋の中に漂っていた。

 お母さまの林檎とは違う、とろりと柔らかく煮崩れた林檎だった。

 それでも、手は伸ばせなかった。


 午後になった。

 窓から差しこむ光の角度が、少しずつ変わっていく。

 わたしは敷物の上に座って、ずっとその光を見ていた。

 誰も来なかった。

 誰も、何も言わなかった。

 時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。

 地下でも、時間はたくさんあった。でも地下の時間は、いつも何かを待つための時間だった。ドルフさんの足音を。差し入れ口が開く音を。お母さまの衣擦れの音を。

 次に何が来るのかを、ずっと待っていた。

 来れば、耐えればいい。

 泣けと言われたら、泣くか、泣かないか、決めればいい。

 それが、わたしの知っている一日の形だった。

 でも、今日は。

 何も来ない。

 待っても、待っても、何も来ない。

 それが、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。


 ――もしかして。

 ふと、ひとつの考えが浮かんだ。

 もしかして、みんな、わたしが自分から泣くのを待っているのではないだろうか。

 勅令があるから、誰も泣けとは言えない。

 でも、わたしが自分から泣いて、自分から石を差し出したら。

 それなら、誰も罪にはならない。

 ――そういうこと、なのだろうか。

 わたしは、卓の上に残された昼食の皿を見た。

 手つかずの、煮た林檎。

 わたしは、まだ何も払っていない。

 この部屋も、この食事も、あのドレスも、焼きたてのパンも。

 四日も、五日も、何も払わずに、ここにいる。

 お母さまなら、もうとっくに怒っている。

 払わなければ、と思った。

 誰も言わないなら、自分から。

 わたしは目を閉じた。

 膝を抱えて、額を膝に押しつける。

 泣くのは、難しくなかった。

 悲しいことを思い出せばいい。地下の寒さ。空腹の痛み。足首の鎖。お母さまの、石だけを見る目。お兄さまの「お前は人間じゃない」という声。

 ひとつずつ思い出していくと、目の奥がじわりと熱くなった。

 鼻の奥がつんと痛んで、喉がひくりと鳴った。

 もうすぐだ、と思った。

 もうすぐ、一粒こぼれる。

 それを卓の上に置いておけば、セレナさんが見つけてくれるだろう。それで、今日の分の支払いになる。


 ――そのとき、セレナさんの顔が浮かんだ。

 昨日の朝、わたしが「何回泣けばいいですか」と訊いたときの顔。

 どこかが痛むような、あの顔。

 わたしが泣いて石を差し出したら、セレナさんは、また、あんな顔をするのだろうか。

 お母さまは、石を拾うとき、いつも嬉しそうだった。

 でもセレナさんは、嬉しそうではなかった。

 わたしが泣くことを、セレナさんは、少しも喜んでいなかった。

 目の奥の熱さが、すうっと引いていった。

 わたしは、ゆっくりと顔を上げた。

 頬は、乾いていた。

 石は、ひとつもこぼれていなかった。

 わたしは、自分の手のひらを見下ろした。

 泣こうと思えば、泣けたはずだった。あと少しだった。

 なのに、どうして、やめてしまったのだろう。

 分からなかった。

 ただ、セレナさんのあの顔を、もう一度見たくないと思った。

 それだけだった。


   ◇ ◇ ◇


 夕暮れになった。

 窓の外が、赤く染まっていく。

 夕食が運ばれてきて、わたしはまたパンだけを食べた。

 セレナさんは、何も言わなかった。

 ミーナさんも、何も言わなかった。

 誰も、わたしに泣けと言わなかった。

 朝から、一度も。

 夜になって、部屋が暗くなった。

 わたしはまた衣装棚と壁のあいだで、敷物の上に座って、あの人の外套にくるまった。

 胸元のボタンを、服の上から握りしめる。

 一日が、終わった。

 何もない一日だった。

 泣けと言われなかった。叩かれなかった。食事を取り上げられなかった。

 お腹が空けば、パンがあった。寒くなれば、外套があった。眠くなれば、敷物があった。

 それなのに。

 わたしは、ちっとも眠くならなかった。


 ――今日は、何もされなかった。

 だとしたら、明日は。

 明日は、何をされるのだろう。

 何もない日が一日あれば、その次の日には、その分まで取り立てられる。

 お母さまは、いつもそうだった。三日食事をくれたら、四日目には何も来なかった。林檎をくれた次の日には、泣けと言いに来た。

 優しい日のあとには、必ず、そうではない日が来た。

 だとしたら、今日のこの何もない一日は。

 明日のための、何なのだろう。

 わたしは、扉を見つめた。

 暗い部屋の中で、扉の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。

 明日の朝、あの扉を開けて入ってくる人は、何を言うのだろう。

 セレナさんは、またパンを置いて、何も言わずに出ていくのだろうか。

 それとも、今日の分まで、何かを求めてくるのだろうか。

 分からなかった。

 分からないことが、何よりも怖かった。

 泣けと言われる日のほうが、まだましだったかもしれない。

 そう思ってしまう自分が、少しだけ嫌だった。

 わたしは、膝をきつく抱えた。

 窓の外で、鳥が一羽、夜の中で短く鳴いた。

 その声を聞きながら、わたしは一晩じゅう、閉じた扉を見つめていた。


   ◇ ◇ ◇


「――一度も、でございます」

 夜更けの執務室で、セレナは報告を終えた。

「朝から晩まで、誰ひとり、リシェル様に涙を求める者はおりませんでした。わたくしも、ミーナも、料理長も。勅令が出たことは、宮殿の隅々まで行き渡っております」

「そうか」

 窓際の絨毯の上で、アルフレッドは短く答えた。

「様子は」

 セレナは、少しだけ言いよどんだ。

「……落ち着かれないご様子でした」

「落ち着かない」

「はい。一日じゅう、扉ばかりを見ておられました。誰かが入るたびに、身体を硬くされて。わたくしたちが何も言わずに出ていくと、そのたびに、かえって不安そうなお顔をなさって」

 アルフレッドは、何も言わなかった。

 セレナは、もうひとつだけ付け加えた。

「午後に一度、お部屋の前を通りかかったとき、扉の隙間から……お泣きになろうとしているように見えました」

 アルフレッドの手が、止まった。

「誰も、何も申し上げておりません。リシェル様が、ご自分から。膝に顔を伏せて」

「……それで」

「おやめになりました」

 セレナは、静かに言った。

「途中で、お顔を上げられて。石は、ひとつも落ちておりませんでした」

 執務室に、長い沈黙が落ちた。

 やがてアルフレッドは、窓の外を見た。

 東の客殿の、灯りの消えた窓を。

「眠れているか」

「おそらく、今夜も」

 セレナは、首を横に振った。

 アルフレッドは、目を閉じた。

「……何もされない日を、怖がるのか」

 それは、誰に向けた言葉でもなかった。

 セレナは、何も答えなかった。

 答えなど、誰も持っていなかった。

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