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第27話 毒見

昼食の盆を運んできたのは、セレナさんではなかった。

 扉を叩く音がして、わたしはいつものように身体を硬くした。けれど、その音はいつもと少しだけ違っていた。セレナさんの叩き方よりも低くて、重たくて、短い。

「入っていいか」

 低い声がした。

 わたしは、息を止めた。

 あの人の声だった。

 この宮殿に着いた日に、扉の前で「ここがお前の住む場所だ」と言われてから、一度も聞いていなかった声。

「……は、はい」

 扉が開いた。

 黒い髪。黒い瞳。黒い上着。

 あの人が、銀の盆を両手に持って立っていた。

 その後ろで、セレナさんが困ったような、それでいて何かを堪えるような顔をして控えていた。

 あの人は、部屋の中を見回した。

 手つかずの寝台を。たたまれたままの若草色のドレスを。そして、衣装棚と壁のあいだの、敷物の上にうずくまっているわたしを。

 あの人の表情は、少しも変わらなかった。

 ただ、ほんの一瞬だけ、その黒い瞳がわたしの上で止まったような気がした。

「セレナ。下がっていい」

「……かしこまりました」

 セレナさんが一礼して、扉の外へ出ていった。

 扉は、閉められなかった。

 ほんの少しだけ、開いたままにされていた。


 あの人は、盆を部屋の真ん中の円い卓の上に置いた。

 それから、卓のそばの椅子には座らずに、そのまま絨毯の上に腰を下ろした。

 わたしから、ずっと離れた場所に。

 部屋のちょうど真ん中あたり。わたしのいる隅からは、大人が五、六歩歩かなければ届かないくらいの距離だった。

 あの人は、片膝を立てて座り、卓の上の盆を見上げた。

 わたしは、あの人を見ていた。

 何をしに来たのだろう。

 一昨日、勅令を出したと聞いた。昨日は、誰も来なかった。何もされなかった。

 だから、今日。

 何もされなかった日の、次の日。

 ――今日の分まで、取り立てに来たのだろうか。

 わたしは、膝を抱える腕に力をこめた。

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、盆の上を見ていた。


 盆の上には、いつもの昼食が並んでいた。

 澄んだ金色のスープ。柔らかい魚。裏ごしした野菜。白いパン。それから、今日は小さな器に、黄色いとろりとしたものが入っていた。

 あの人は、しばらく黙ってそれを眺めていた。

 それから、わたしのほうを見ずに言った。

「パンしか食べていないそうだな」

 わたしは、肩を跳ねさせた。

 叱られる、と思った。

「……申し訳、ございません」

「責めているわけではない」

 あの人の声は、低くて、静かだった。

「食べたくないなら、食べなくていい。それは、お前が決めることだ」

 あの人は、そこで一度言葉を切った。

「ただ、理由があるなら、知りたい」

 理由。

 わたしは、卓の上のスープを見た。

 湯気が、細く立ちのぼっている。

 金色の、きれいなスープ。

 ――理由なら、ある。

 でも、それを言っていいのかどうか、分からなかった。

 言えば、この人はどう思うのだろう。

 わたしが、この人を疑っていると思うのだろうか。

 皇帝を疑うなんて。

 怒られるかもしれない。

 わたしは、黙っていた。

 あの人も、黙っていた。

 急かさなかった。

 窓の外で、鳥が鳴いた。どこか遠くで、誰かが笑う声がした。

 長い、長い沈黙だった。

 あの人は、ずっと待っていた。

 地下で鎖を外してくれたときと同じように。答えが出るまで、いつまでも待つつもりのような顔で。


「……スープ、には」

 気がつくと、声が出ていた。

 あの人の目が、こちらを向いた。

「ときどき……何かが、入っていたので」

 喉の奥が、ひりついた。

「苦いものです。飲むと、身体が熱くなって……頭がぼうっとして、眠くなって」

 わたしは、膝の上で手を握りしめた。

「そうすると、眠っているあいだに……泣いてしまうので」

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、その黒い瞳が、少しも動かずにわたしを見ていた。

「熱が出た夜に、眠りながら泣いていたことがあって。そのときの石が、たくさんで、色も良くて。お母さまが、とても喜んで」

 ――その夢、また見てちょうだいね。毎晩でもいいのよ。

 お母さまの声が、耳の奥でよみがえった。

「それから、ときどき、スープが苦くなるようになりました」

 わたしは、目を伏せた。

「パンは、苦くなったことがなかったので……」

 それ以上は、言えなかった。

 言ってしまってから、怖くなった。

 この人に、こんなことを話してしまった。この人が用意してくれた食事を、毒が入っているかもしれないと疑っていると、言ってしまった。

 わたしは、ぎゅっと目をつぶった。

 怒鳴り声が来るのを、待った。


 怒鳴り声は、来なかった。

 代わりに、衣擦れの音がした。

 目を開けると、あの人が立ち上がっていた。

 卓のそばへ歩いていく。盆の上のスープの器を、片手で持ち上げる。

 それから、自分の上着の内側から、何かを取り出した。

 小さな、銀の匙だった。

 飾りのない、使いこまれた匙。柄のところが少しだけ曲がっている。

 あの人は、その匙をスープの中に沈めた。

 すくい上げて、口に運ぶ。

 ひと口。

 それから、もうひと口。

 わたしは、言葉もなくそれを見ていた。

 あの人は、器を傾けて、魚をほんのひと切れ、匙の先で崩して口に入れた。裏ごしした野菜も。黄色いとろりとしたものも。

 ひとつずつ、全部。

 まるで、そうすることが当たり前みたいに、何の迷いもなく。

 最後に、あの人は匙を口から離して、ゆっくりと飲みこんだ。

 それから、わたしのほうを向いた。

「毒はない」

 静かな声だった。

 あの人は、手の中の器に目を落とした。

 ほんの少しだけ、眉が動いた。

「……味は薄いが」


 わたしは、何も言えなかった。

 味は、薄いが。

 皇帝が。

 血も涙もない皇帝と呼ばれる人が。

 わたしの昼食のスープを、わたしの目の前で飲んで。

 それから、味が薄いと言った。

 どうしてだろう。

 胸の奥で、何かがおかしな形にひっくり返ったような気がした。

 笑いたいのか、泣きたいのか、自分でも分からなかった。

 どちらでもない気がした。

 ただ、喉の奥が、くすぐったいような、苦しいような、変な感じがした。

「料理長には黙っていろ」

 あの人は、器を盆の上に戻しながら言った。

「前に宰相が、あいつの料理に塩が足りないと言ったことがある。それから三日、宰相の皿だけ塩辛かったそうだ」

 わたしは、思わず目をまたたいた。

 あの人は、相変わらず何の表情も浮かべていなかった。

 冗談なのか、本気なのか、まるで分からなかった。


 あの人は、匙を布で拭って、また上着の内側にしまった。

 それから、扉のほうへ歩きかけて――ふと、足を止めた。

「この匙は、戦場で使っていたものだ」

 振り返らずに、あの人は言った。

「行軍中は、何が入っているか分からない食事も多かった。だから、毒見の役が要った。最初は部下がやっていた。だが、それで二人死んだ」

 わたしは、息を呑んだ。

「それからは、俺がやることにした。俺が先に食べて、何ともなければ、部下も食べる」

 あの人は、わたしのほうを見なかった。

「だから、慣れている」

 短く、それだけ言った。

 それ以上は、何も言わなかった。

「これからも、疑わしいものがあれば言え。俺が先に食べる」

 わたしは、何も答えられなかった。

 あの人は、扉の取っ手に手をかけた。


「……あの」

 声が出たのは、あの人が扉を半分ほど開けたときだった。

 あの人が、振り返った。

 わたしは、肩にかけていた黒い外套を、両手で握りしめた。

「これを……お返し、しないと」

 あの人の外套。

 地下の石段に置かれて、それからずっとくるまっていた外套。四日間の旅のあいだも。この部屋に来てからの、毎晩も。

 いつか返さなければと、ずっと思っていた。

 借りたものは、返さなければならない。返さなければ、いつか、それ以上のものを差し出さなければならなくなる。

 あの人は、わたしの手の中の外套を見た。

 それから、ほんの少しだけ間を置いて、言った。

「持っていろ」

「でも」

「お前が要らなくなるまで、持っていればいい」

 あの人は、扉の外へ出ていった。

 扉が、静かに閉められた。

 足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。


   ◇ ◇ ◇


 部屋の中に、わたしひとりが残された。

 卓の上には、昼食の盆があった。

 あの人が、ひと口ずつ食べた料理。

 スープの器の縁には、匙が触れた跡が、ほんのかすかに残っていた。

 わたしは長いこと、それを見つめていた。

 毒はない。

 あの人は、そう言った。

 わたしの目の前で、わたしのスープを飲んで。

 ――味は薄いが。

 その声を思い出したら、また喉の奥が、くすぐったいような変な感じになった。

 わたしは、そっと敷物の上から立ち上がった。

 卓のそばまで、歩いていく。

 スープは、まだかすかに温かかった。

 金色の表面に、窓からの光が揺れていた。

 わたしは、器の横に置かれていた匙を手に取った。

 これは、あの人の匙ではない。最初から盆の上に添えられていた、宮殿の銀の匙だ。

 それを、スープの中に沈める。

 すくい上げる。

 手が、少しだけ震えた。

 苦かったら、どうしよう。

 でも、あの人が飲んだのだ。

 ひと口、もうひと口。何の迷いもなく。

 わたしは、目を閉じて、匙を口に運んだ。


 温かかった。

 苦くなかった。

 ほんのりと塩の味がして、野菜の甘い匂いがして、それから、喉を通ってお腹の底に落ちていくとき、身体の真ん中の冷たい穴に、ふわりと温かいものが広がっていった。

 ――味は薄いが。

 本当に、薄かった。

 ドルフさんが持ってきた玉ねぎのスープのほうが、ずっと塩辛かった。

 でも。

 薄くて、温かくて、苦くなかった。

 わたしは、もうひと口だけ飲んだ。

 それから、匙を置いた。

 それ以上は、まだ怖くて飲めなかった。

 でも、ふた口。

 この宮殿に来てから、パン以外のものを口にしたのは、それが初めてだった。


   ◇ ◇ ◇


「――味が、薄い?」

 その日の夕方、厨房に戻ってきた盆を見て、料理長ハインツは眉間に深い皺を刻んだ。

 盆を運んできたミーナが、気まずそうに目をそらした。

「あ、あの、それは陛下がおっしゃったそうで……リシェル様がおっしゃったわけでは……」

「陛下が」

 ハインツの眉間の皺が、ふと緩んだ。

 二十年以上、この厨房で料理を作ってきた。戦場から戻られた陛下は、何を出しても黙って口に運び、黙って皿を空にする方だった。味の良し悪しを口にされたことなど、一度もなかった。

 その陛下が、初めて味のことを口にされた。

 それも、薄い、と。

「……陛下が、あの方の昼食を召し上がったのか」

「は、はい。毒見だとかで……侍女長が扉の外で聞いていて」

 ハインツは、盆の上を見下ろした。

 スープの器が、少しだけ減っていた。

 陛下がひと口、ふた口。そして、それとは別に、もうふた口分ほど。

 皿の上の魚も、裏ごしの野菜も、匙の先でほんの少しずつ崩した跡がある。陛下が毒見をされた跡だろう。

 けれどスープだけは、それよりも明らかに多く減っていた。

「……飲んだのか」

「え?」

「あの方が。スープを」

 ミーナは、少しだけ考えるように首をかしげてから、ぱっと顔を明るくした。

「はい、たぶん! 侍女長が、お部屋を出られたあと、リシェル様がご自分で匙を取られたって」

 厨房の中が、一瞬だけ静まり返った。

 それから、若い料理人のひとりが、思わず小さな声で「よしっ」と拳を握った。

 ハインツは、何も言わなかった。

 ただ、盆の上の器を、しばらく黙って見つめていた。

 それから、竈のほうへ向き直った。

「……明日のスープは、塩をひとつまみ増やす」

「料理長、陛下は薄いとおっしゃっただけで、あの方は」

「ひとつまみだけだ」

 ハインツは、背を向けたまま言った。

「あの方の胃が驚かない程度に。それ以上は、増やさん」

 鍋をかき混ぜる料理長の肩が、ほんの少しだけ、いつもより上がっているように見えた。

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