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第28話 皇帝陛下は怖いです

次の日の昼も、あの人は来た。

 低くて、重たくて、短い叩き方。

「入っていいか」

「……はい」

 扉が開いて、あの人が銀の盆を持って入ってきた。昨日と同じように、セレナさんを下がらせて、扉を少しだけ開けたままにして。

 盆を円い卓の上に置いて、あの人はまた、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろした。

 昨日と、同じ場所に。

 わたしのいる隅から、大人が五、六歩歩かなければ届かない距離。

 あの人は、何も言わなかった。

 わたしも、何も言わなかった。

 しばらくして、あの人は上着の内側から、あの曲がった銀の匙を取り出した。

「先に食べるか」

 わたしのほうを見ずに、あの人は言った。

 わたしは、少しだけ迷った。

 それから、小さく頷いた。

 あの人は立ち上がって、卓の上のスープをひと口すくった。

 口に運んで、ゆっくりと飲みこむ。

 それから、ほんのわずかに首をかしげた。

「……昨日より、塩がある」

「え?」

「ひとつまみ、増えた」

 あの人は、器を盆の上に戻した。

「料理長に、昨日のことが伝わったらしい」

 わたしは、思わず目をまたたいた。

 宰相さまの皿だけ、三日間塩辛かったという話を思い出した。

 あの人は、相変わらず何の表情も浮かべていなかった。

 けれど、その声が、ほんの少しだけ困っているように聞こえたのは、気のせいだっただろうか。


 あの人がほかの料理もひと口ずつ確かめて、元の場所に座りなおしたあと、わたしはそっと卓のそばまで歩いていった。

 あの人から、できるだけ遠い側を回って。

 宮殿の銀の匙を取って、スープをすくう。

 口に運ぶ。

 昨日よりも、ほんの少しだけ味がした。

 ほんの少しだけ、塩の味が。

 温かくて、苦くなかった。

 わたしは、三口飲んだ。

 昨日より、ひと口多く。

 それから、白いパンをひとつ取って、また隅の敷物の上に戻った。

 パンをちぎりながら、ちらりとあの人のほうを見た。

 あの人は、窓の外を見ていた。

 わたしがスープを飲んでいるあいだも、ずっと窓の外を見ていたのだと思う。

 見られていたら、きっと飲めなかった。

 そのことを、あの人は分かっていたのだろうか。


   ◇ ◇ ◇


 パンを半分ほど食べたところで、あの人が口を開いた。

「リシェル」

 わたしは、手を止めた。

 名前を呼ばれると、やっぱり身体が勝手に硬くなる。

「……はい」

「ひとつ、訊いていいか」

 訊いていいか。

 あの人は、いつもそう言う。

 鎖を外すときも。部屋に入るときも。

 わたしは、パンを膝の上に置いて、小さく頷いた。

「はい」

 あの人は、窓の外から目を離して、わたしのほうを見た。

 黒い瞳が、まっすぐにこちらを向いていた。

 いつもと同じ、何の表情も浮かんでいない顔。

 けれど、どこか、何かを覚悟しているような顔にも見えた。

「俺が怖いか」


 部屋の中が、しんと静まり返った。

 わたしは、息を止めた。

 俺が、怖いか。

 その問いが、頭の中で何度も響いた。

 ――怖い。

 すぐに、そう思った。

 怖い。この人が、怖い。

 あの人が少し身じろぎするたびに、わたしの身体は勝手に硬くなる。あの人の手が動くたびに、それがどこへ向かうのか目で追ってしまう。部屋の真ん中と隅に離れていても、あの人がそこにいるだけで、息が少し浅くなる。

 地下で剣を抜いたときの、あの人の背中。

 お父さまの喉元に突きつけられた、あの切っ先。

 ――血も涙もねえってのは、ああいうのを言うんだろうな。

 ドルフさんたちの噂話。何百人も、何千人も殺したという、帝都の若い皇帝。

 この人が、その人なのだ。

 怖くないはずがなかった。


 でも。

 それを、言っていいのだろうか。

 わたしは、膝の上のパンを見つめた。

 お母さまに何かを訊かれたとき、答えはいつもひとつしかなかった。

 ――お母さまのこと、好き?

 はい。

 ――わたくしの言うことを聞けるわね?

 はい。

 ――あなたは、わたくしたちを喜ばせたいわよね?

 はい。

 正しい答えは、いつも決まっていた。正しい答えを言えば、お母さまは微笑んだ。間違った答えを言えば、その日の食事はなくなった。

 だとしたら、今の問いの正しい答えは。

 ――いいえ。

 怖くありません、と言えばいい。

 それが、正しい答えのはずだった。

 皇帝に向かって、あなたが怖いと言う人なんて、きっといない。言えば、怒らせるに決まっている。

 いいえ、と言えばいい。

 それだけで、きっと全部うまくいく。


 わたしは、口を開いた。

 いいえ、と言おうとした。

 けれど、その言葉は、喉の奥でつかえて出てこなかった。

 ――理由があるなら、知りたい。

 昨日、あの人はそう言った。

 スープを飲まない理由を訊かれて、わたしは本当のことを言った。あの人の用意した食事を、毒が入っているかもしれないと疑っていると。

 怒鳴られると思った。

 でも、あの人は怒らなかった。

 黙って立ち上がって、わたしのスープを飲んだ。

 ――毒はない。……味は薄いが。

 あの人に本当のことを言ったら、あの人は、それをちゃんと受け取った。

 嘘をつけば、楽なのは分かっていた。

 でも、この人に嘘をついたら。

 この人が昨日わたしにしてくれたことまで、嘘にしてしまうような気がした。


 長い沈黙だった。

 窓の外で、鳥が鳴いた。廊下の向こうで、誰かの足音が通り過ぎていった。

 あの人は、ずっと待っていた。

 急かさなかった。

 目をそらしもしなかった。

 ただ、わたしの答えを、待っていた。

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

 爪が、手のひらに食いこんだ。

 それから、ほとんど聞こえないくらいの声で、言った。

「……はい」


 言ってしまった。

 言ってしまった瞬間、身体じゅうが冷たくなった。

 わたしは、ぎゅっと目をつぶった。

 来る、と思った。

 何が来るのかは分からなかった。怒鳴り声か。冷たい沈黙か。お母さまの、紙を切り抜いたような笑顔か。

 ――あなたみたいな子が、そんなことを言うのね。

 何でもいい。何かが来る。

 わたしは、身を縮めて、それを待った。


「そうか」


 それだけだった。

 低くて、静かな声。

 少しも、荒らいでいなかった。

 わたしは、おそるおそる目を開けた。

 あの人は、さっきと同じ場所に座っていた。

 片膝を立てて、絨毯の上に。

 その顔には、やっぱり何の表情も浮かんでいなかった。

 怒っているようには、見えなかった。

 悲しんでいるようにも、見えなかった。

 ただ、わたしの答えを、そのまま受け取ったような顔だった。

「正直に言ってくれて、助かる」

 あの人は、そう言った。

 わたしは、言われた意味が分からなかった。

 助かる。

 怖いと言われて、どうして助かるのだろう。

「怖いと思われているなら、それに合わせて動けばいい。怖くないふりをされたら、俺には分からない」

 あの人は、ゆっくりと立ち上がった。

 わたしの身体が、反射的にびくりと跳ねた。

 あの人は、それを見ていた。

 そして、わたしのほうへではなく、扉のほうへ一歩下がった。

 さっきまでよりも、さらに少しだけ、わたしから遠くへ。

「今日は、これで戻る」

「あ……」

「明日も、昼に来ていいか」

 わたしは、答えられなかった。

 怖いと言ったのに。

 この人のことが怖いと、たった今、言ったばかりなのに。

 それでも、この人は、また来ていいかと訊くのだ。

「……来るな、と言ったら」

 自分の口から出た言葉に、自分でびっくりした。

 あの人は、ほんの少しだけ間を置いてから答えた。

「来ない。毒見は、セレナにやらせる」

 迷いのない声だった。

 わたしは、あの人の顔を見上げた。

 あの人は、わたしの答えを待っていた。

 来るな、と言えば、本当に来ないのだろう。

 それが、なぜだか、はっきりと分かった。

 わたしは長いあいだ黙っていた。

 それから、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。

「……来ても、いいです」

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、ほんのわずかに、頷いたように見えた。

 それから、扉の外へ出ていった。


   ◇ ◇ ◇


 扉の外で、侍女長セレナは壁際に控えていた。

 出てきた皇帝の顔を見て、セレナは何も言わずに頭を下げた。

 皇帝は、廊下を少し歩いたところで、ふと足を止めた。

 窓の外を見る。

 昼下がりの庭に、薔薇が咲きはじめていた。

「セレナ」

「はい」

「怖いそうだ」

 セレナは、顔を上げた。

 皇帝は、窓の外を見たままだった。

「……左様でございますか」

「ああ」

 それきり、皇帝は何も言わなかった。

 セレナは、主君の横顔を見つめた。

 いつもと同じ、何の表情も浮かんでいない顔だった。

 けれどセレナには、その横顔が、ほんの少しだけ、いつもより疲れているように見えた。

「陛下」

 セレナは、静かに言った。

「怖いと、お口に出されたのでございますね」

「ああ」

「この宮殿に来られてから、リシェル様がどなたかに、ご自分の本当のお気持ちを口にされたのは、それが初めてかと存じます」

 皇帝が、ゆっくりとセレナのほうを振り返った。

「スープが苦かったことも、昨日、陛下にだけはお話しになりました」

 セレナは、深く一礼した。

「怖い方にこそ、本当のことを言える。それは、とても不思議なことでございます」

 皇帝は、しばらく黙っていた。

 それから、また窓の外に目を向けた。

「……そうか」

 さっき、娘の部屋で口にしたのと同じ言葉だった。

 けれどセレナには、その声が、さっきとはほんの少しだけ違って聞こえた。


   ◇ ◇ ◇


 ひとりになった部屋で、わたしは膝の上の食べかけのパンを見つめていた。

 ――俺が怖いか。

 ――はい。

 ――そうか。

 頭の中で、何度もそのやりとりを繰り返した。

 怒られなかった。

 何も、取り上げられなかった。

 正直に言ってくれて、助かる、と言われた。

 わたしは、正しい答えを言わなかった。

 お母さまなら、きっと夕食を下げていた。

 でも、あの人は。

 わたしが本当のことを言ったら、わたしから、一歩遠ざかった。

 近づくのではなく、遠ざかった。

 怖いなら、それに合わせて動けばいい、と。

 わたしは、胸元のボタンを服の上から握った。

 あの人は、やっぱり怖い。

 今でも、怖い。

 あの人が部屋にいるあいだ、ずっと身体が硬くなっていた。今も、心臓が少しだけ速く打っている。

 でも。

 明日も、昼に来ていいか。

 ――来ても、いいです。

 そう言ったのは、わたしだった。

 誰にも言わされたわけではなかった。

 わたしは、残りのパンをゆっくりとちぎった。

 明日のお昼、あの人が来たら。

 スープを、もうひと口だけ多く飲めるだろうか。

 そんなことを考えている自分が、少しだけ、不思議だった。

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