第29話 断ってもいい
宮廷医師エドガー・ローレンツが東の客殿を訪れたのは、その日の朝のことだった。
六十を少し過ぎた、小柄で痩せた老人だった。白い髭を短く整え、丸い眼鏡の奥で、いつも少し眠たそうな目をしている。先帝の代から三十年以上この宮殿に仕え、皇族の病も、騎士たちの戦傷も、侍女たちの風邪も、等しく診てきた男だった。
「リシェル様。宮廷医師のエドガー先生がお見えです。少しだけ、お身体を診ていただいてもよろしいでしょうか」
扉の前で、セレナが一度だけ尋ねた。
部屋の隅の娘は、少しのあいだ黙っていた。
それから、小さな声で答えた。
「……はい」
診察は、ごく短いものだった。
エドガーは娘から少し離れた場所に膝をつき、ゆっくりと、ひとつずつ尋ねていった。
「お腹は痛みませんか」
「……いいえ」
「夜は眠れていますか」
「……はい」
「頭が痛んだり、目の前が暗くなったりすることは」
「……いいえ」
どの問いにも、娘は短く答えた。
はい。いいえ。はい。いいえ。
エドガーは穏やかに頷きながら、娘の顔色を、唇の色を、爪の色を、ひとつずつ目で確かめていった。
最後に、こう言った。
「足首を、少しだけ拝見してもよろしいですかな」
娘の肩が、びくりと跳ねた。
ほんの一瞬、灰色がかった青い瞳が、怯えたように揺れた。
それでも、娘は答えた。
「……はい」
娘は、外套の裾から、そっと右の足首を差し出した。
エドガーは、息を呑むのを堪えた。
鉄の輪の形に、くっきりと跡が残っていた。古い傷と新しい傷が幾重にも重なり、擦り切れた肌は赤黒く変色している。癒えかけては破れ、また癒えかけては破れ、それを何年も繰り返してきた跡だった。
「少し、触れますぞ」
エドガーは、指先でそっと傷の縁に触れた。
娘の身体が、石のように固まった。
息を止めているのが分かった。膝を抱えた手が、白くなるほど握りしめられている。小刻みに、肩が震えている。
「痛みますか」
「……いいえ」
娘は、そう答えた。
震える声で。
傷の縁の、まだ赤く腫れている場所に指が触れたとき、娘の足がほんのわずかに引きつったのを、エドガーは見逃さなかった。
痛くないはずがなかった。
それでも娘は、いいえと答えた。
エドガーは、それ以上何も訊かなかった。
静かに指を離し、柔らかな布で薬を塗り、包帯を巻いた。
「ありがとうございました。今日はこれだけです」
老医師はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
娘は、ほっとしたように、けれどどこか不安そうに、エドガーを見上げていた。
――自分の答えが、正しかったのかどうか。
その目は、それを確かめようとしているように見えた。
◇ ◇ ◇
「――すべて、はい、か、いいえ、でございました」
皇帝の執務室で、エドガーは眼鏡を外して目頭を押さえた。
窓際の絨毯の上で、皇帝は書類を膝に置いたまま、黙って聞いていた。
「お腹は痛まないか、いいえ。夜は眠れるか、はい。どちらも嘘でございましょう。あれだけ痩せておられて胃が痛まぬはずがない。侍女長の話では、夜もろくにお休みになれていないとか」
「足首は」
「痛みますか、と尋ねましたら、いいえ、と」
エドガーは、静かに首を振った。
「痛くないはずがございません。まだ腫れている傷もある。それでも、いいえと。足が引きつっておられるのに」
執務室に、沈黙が落ちた。
エドガーは、眼鏡をかけ直した。
「陛下。あの方は、嘘をつこうとしておられるのではございません」
「分かっている」
「あの方にとって、医師の問いには正しい答えがあるのです。痛いと言えば、手間をかけさせる。眠れないと言えば、何かが足りないと責められる。だから、いいえと答える。はいと答える。そう答えるのが、あの方の知っている正しい作法なのでしょう」
老医師は、深く息を吐いた。
「三十年以上、医師をやってまいりましたが。痛みを訴えない患者ほど、診るのが難しいものはございません」
皇帝は、何も言わなかった。
ただ、膝の上の書類に置いた手が、ゆっくりと握りしめられた。
「……診察を勧めたのは、俺だ」
「陛下」
「医師を寄越すと決めて、セレナに伝えさせた。あの子は、はいと答えた。それで、通ったと思った」
皇帝は、窓の外を見た。
「はい、としか言えない子に、訊いたことにはならない」
◇ ◇ ◇
その日の昼、あの人はいつもと同じように来た。
低くて、重たくて、短い叩き方。
「入っていいか」
「……はい」
銀の盆を卓に置いて、あの人は曲がった匙でひと口ずつ料理を確かめた。
「今日も、塩がある」
それだけ言って、あの人はいつもの場所――部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろした。
わたしは、あの人が窓の外を見ているあいだに、卓のそばへ行ってスープを飲んだ。
四口。
昨日より、ひと口多く。
それから白いパンをひとつ取って、隅の敷物の上に戻った。
包帯を巻いた右の足首が、外套の裾の下で少しだけ痛んだ。
今朝、お医者さまに薬を塗ってもらったところだった。
「リシェル」
パンを半分ほど食べたところで、あの人が言った。
「……はい」
「今朝の診察は、嫌だったか」
わたしは、手を止めた。
嫌だったか。
すぐに、答えが浮かんだ。
――いいえ。
それが、正しい答えだった。
皇帝が呼んでくれたお医者さまだ。わたしのために、わざわざ。嫌だったなんて、言っていいはずがない。
「……いいえ」
わたしは、そう答えた。
あの人は、何も言わなかった。
しばらく、黙ってわたしを見ていた。
それから、静かに訊いた。
「本当か」
わたしは、答えられなかった。
本当か、と訊かれて、本当です、と言えばいい。
それだけのことだった。
でも、昨日、わたしはこの人に本当のことを言ったのだ。
怖いか、と訊かれて、はい、と。
それなのに今日、嘘をつくのか。
わたしは、膝の上のパンを見つめた。
足首に触れられたときのことを思い出した。
身体じゅうが固まって、息ができなかった。痛かった。でも、痛いと言ったら、お医者さまを困らせると思った。嫌だと言ったら、皇帝の厚意を踏みにじると思った。
だから、何も言わなかった。
ただ、終わるのを待っていた。
地下で、お兄さまに顎をつかまれたときと同じように。
――嫌だった。
本当は、嫌だった。
お医者さまは、やさしかった。少しも乱暴ではなかった。それでも、知らない人に触れられるのは、怖かった。
長い沈黙のあとで、わたしは、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「……少しだけ」
あの人の目が、わずかに動いた。
「少しだけ、怖かったです。足に、触られたとき」
言ってしまってから、また身体が冷たくなった。
けれど、あの人は怒らなかった。
「そうか」
昨日と同じ言葉だった。
それから、あの人はゆっくりと言った。
「すまなかった」
わたしは、顔を上げた。
すまなかった。
皇帝が。
わたしに。
「医師を寄越すと決めたのは、俺だ。お前がどう思うか、ちゃんと訊かなかった」
「で、でも、セレナさんが……訊いてくれて、わたしは、はいって」
「ああ」
あの人は、頷いた。
「お前は、はいと言った。だが、それはお前が本当にいいと思ったからか」
わたしは、答えられなかった。
あの人は、わたしの沈黙を、そのまま受け取ったようだった。
「リシェル」
あの人は、片膝を立てた姿勢のまま、まっすぐにわたしを見た。
「この宮殿で、お前に覚えてほしいことがひとつだけある」
わたしは、身体を硬くした。
決まりごと。
ここにも、決まりごとがあるのだ。
守らなければならないこと。守らなければ、罰を受けること。
わたしは、膝の上で手を握りしめて、その言葉を待った。
あの人は、ひとつずつ、区切るようにして言った。
「嫌なら、嫌と言え」
わたしは、息を止めた。
「分からなければ、分からないと言え。痛ければ、痛いと言え。怖ければ、怖いと言え」
あの人の声は、低くて、静かだった。
「それで、お前を罰する者は、この宮殿にはいない」
部屋の中が、しんと静まり返った。
「医師に触られるのが嫌なら、嫌だと言っていい。食べたくないものは、食べたくないと言っていい。俺が来るのが嫌なら、来るなと言っていい」
あの人は、そこで一度言葉を切った。
「断っていい」
短い言葉だった。
「何を断っても、お前から何かを取り上げる者はいない。俺が、そうさせない」
わたしは、何も言えなかった。
嫌なら、嫌と言え。
断っていい。
そんな決まりごとを、わたしは聞いたことがなかった。
お母さまの家では、決まりごとはいつも、わたしが何をしなければならないかだった。泣きなさい。黙りなさい。動かないで。言うことを聞きなさい。
してはいけないことは、いつも、嫌だと言うことだった。
それなのに、この人は。
嫌だと言え、と言う。
それが、この宮殿の決まりごとなのだと。
「……分かったか」
あの人が、静かに訊いた。
わたしは、口を開いた。
はい、と言おうとした。
いつものように。
でも――。
分からなかった。
本当は、少しも分からなかった。
嫌だと言っていい理由も。断っても何も取り上げられない理由も。この人が、どうしてそんなことをわたしに言うのかも。
何ひとつ、分からなかった。
分からないのに、はいと言ったら。
それは、さっきと同じ嘘になる。
わたしは、唇を噛んだ。
それから、震える声で、言った。
「……分かり、ません」
言ってしまった。
わたしは、ぎゅっと目をつぶった。
分かりません、なんて。
皇帝に向かって。
せっかく教えてもらったことを、分からないなんて。
来る、と思った。
でも、何も来なかった。
代わりに、低い声がした。
「それでいい」
わたしは、目を開けた。
あの人は、さっきと同じ場所に座っていた。
何の表情も浮かんでいない顔で。
けれど、その黒い瞳が、ほんの少しだけ、やわらいでいるように見えた。
「分からないなら、分からないと言えばいい。今、お前はそうした」
あの人は、ゆっくりと立ち上がった。
わたしの身体が、また反射的に跳ねた。
あの人は、それを見ても何も言わずに、扉のほうへ一歩下がった。
「すぐに分からなくていい。何度でも、言えばいい。分かるまで」
扉の取っ手に、手をかける。
「明日も、昼に来ていいか」
わたしは、あの人の背中を見つめた。
昨日は、来てもいいです、と言った。
今日は。
――断っていい。
あの人の言葉が、耳の奥で鳴っていた。
わたしは、長いあいだ黙っていた。
断ることも、できるのだ。
来ないでください、と言うことも。
それを、確かめるように、胸の中で一度だけ転がしてみた。
それから、小さく言った。
「……来ても、いいです」
あの人は、振り返らなかった。
ただ、ほんのわずかに頷いて、扉の外へ出ていった。
◇ ◇ ◇
ひとりになった部屋で、わたしは包帯の巻かれた足首を見下ろした。
まだ、少しだけ痛かった。
――痛ければ、痛いと言え。
あの人の声が、よみがえった。
痛い。
わたしは、誰もいない部屋の中で、声に出さずに口の形だけでそう言ってみた。
痛い。
嫌だ。
分からない。
どれも、ずっと胸の奥にしまいこんできた言葉だった。
口にしたら、何かを奪われる言葉だった。
それを、言っていいのだという。
本当だろうか。
本当に、言っても何も奪われないのだろうか。
分からなかった。
でも、さっき。
分かりません、と言ったとき。
あの人は、それでいい、と言った。
何も、奪われなかった。
わたしは、胸元のボタンを服の上から握りしめた。
――嫌なら、嫌と言え。
ほんの小さな声で、もう一度だけ、繰り返してみた。
まだ、自分の言葉にはならなかった。
でも、その言葉は、地下の冷たい石の床に落ちていった石とは違って、どこにも転がっていかずに、わたしの胸の奥に、そっと残っていた。




