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第30話 試してみる

その夜、わたしはほとんど眠らずに考えていた。

 ――嫌なら、嫌と言え。

 ――断っていい。

 あの人の言葉が、ずっと頭の中で鳴っていた。

 本当だろうか。

 本当に、断っても、何も取り上げられないのだろうか。

 昨日、わたしは「分かりません」と言った。あの人は「それでいい」と言った。何も、取り上げられなかった。

 でも、それはあの人だけかもしれない。

 あの人がそう言ったから、あの人の前でだけは、そうなのかもしれない。

 他の人は、どうなのだろう。

 セレナさんは。ミーナさんは。料理長は。

 あの人がいないところで、わたしが何かを断ったら。

 そのとき、本当に何も起きないのだろうか。

 わたしは、膝を抱えて暗い部屋の中を見つめた。

 確かめなければ、と思った。

 確かめなければ、信じられない。

 でも、確かめるのは怖かった。

 もしも、断って、何かを取り上げられたら。

 そうしたら、あの人の言葉も、全部嘘だったことになる。

 それを知るのが、何よりも怖かった。

 けれど、知らないままでいるのも、同じくらい怖かった。


 小さなことにしよう、と思った。

 いちばん小さなこと。

 断っても、何かを取り上げられても、困らないくらいの、小さなこと。

 お食事は、だめだ。断ったら、パンまで取り上げられるかもしれない。

 敷物も、だめだ。外套も、だめだ。

 何か、もっと小さなこと。

 わたしは暗闇の中で、長いこと考えていた。

 そして、ひとつだけ思いついた。

 ――お茶。

 三日前から、午後になるとミーナさんが紅茶を持ってきてくれるようになった。セレナさんが言いつけたのだと思う。銀の小さなお盆に、白い陶器の茶器と、小さな砂糖壺。

 わたしは、一度も飲んだことがなかった。

 ミーナさんは毎日、卓の上に置いて「どうぞ」と言って、しばらくして冷めたまま下げていく。

 お茶なら。

 飲まなくても、お腹は空かない。取り上げられても、困らない。

 それに、ミーナさんなら。

 セレナさんよりも、あの人よりも、少しだけ怖くない気がした。

 わたしは、胸元のボタンを服の上から握りしめた。

 明日、お茶を断ってみよう。

 そう決めたら、心臓がどくどくと鳴りはじめて、ますます眠れなくなった。


   ◇ ◇ ◇


 次の日の昼も、あの人は来た。

 いつものように盆を置いて、匙で確かめて、部屋の真ん中に座った。

 わたしは、スープを五口飲んだ。

 白いパンを、ひとつ食べた。

 あの人は、窓の外を見ていた。

 ――あの人の前で、試してみようか。

 ふと、そう思った。

 スープを、いりません、と言ってみたら。

 でも、口が動かなかった。

 あの人が、毎日わざわざ毒見をしてくれるスープを、いらないなんて。

 それに、もしもあの人が怒ったら。

 あの人まで、嘘だったら。

 そのときは、もう、何も信じられなくなる。

 わたしは、黙ってパンをちぎった。

 あの人は、何も言わずに窓の外を見ていた。

 帰り際、あの人は振り返らずに言った。

「明日も、来ていいか」

「……来ても、いいです」

 あの人は、小さく頷いて出ていった。

 今日は、言えなかった。

 でも、まだ午後がある。


   ◇ ◇ ◇


 午後の光が、少しだけ傾きはじめた頃だった。

 扉を叩く、軽い音がした。

「失礼いたします、リシェル様。ミーナです」

 わたしは、身体を硬くした。

 来た。

「……はい」

 扉が開いて、ミーナさんが入ってきた。

 両手に、銀の小さなお盆を持っている。白い陶器の茶器と、小さな砂糖壺。いつもと同じ。

 ミーナさんは、にこっと笑って卓のほうへ歩いていった。

「今日は、東方から届いた新しい茶葉なんですよ。ちょっと花みたいな香りがするんです。侍女長が、リシェル様にもお出ししてみなさいって」

 ミーナさんは、お盆を卓の上に置こうとした。

 今だ、と思った。

 置かれてしまったら、言えなくなる。

 置かれる前に。

「あ、あの」

 声が、裏返った。

 ミーナさんが、手を止めて振り返った。

「はい?」

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

 爪が、手のひらに食いこんだ。

 心臓の音が、耳の奥でうるさいくらいに鳴っていた。

 言わなければ。

 言わなければ、確かめられない。

 わたしは、唇を湿らせた。

 それから、ほとんど聞こえないくらいの声で、言った。


「……いりません」


 部屋の中が、静かになった。

 ミーナさんは、お盆を持ったまま、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

 わたしは、ぎゅっと目をつぶった。

 言ってしまった。

 断ってしまった。

 せっかく持ってきてくれたのに。新しい茶葉だと言っていたのに。セレナさんが、わたしにも出してみなさいと言ってくれたのに。

 来る、と思った。

 何が来るのかは分からなかった。

 ミーナさんの、困ったような顔か。冷たい声か。黙ってお盆を下げて、そのまま、もう二度とお茶を持ってこなくなるのか。

 それとも、お夕食が来なくなるのか。

 パンが、なくなるのか。

 何でもいい。

 何かが、来る。

 わたしは身体を縮めて、それを待った。


「かしこまりました!」


 明るい声だった。

 わたしは、おそるおそる目を開けた。

 ミーナさんが、お盆を持ったまま、にこっと笑っていた。

 いつもと同じ、そばかすの散った、明るい笑顔だった。

「では、お下げしますね」

 ミーナさんは、お盆をくるりと持ち直して、扉のほうへ歩いていった。

 扉の前で、一度だけ振り返る。

「また何かあったら、いつでも呼んでくださいね」

 それだけ言って、ミーナさんは出ていった。

 扉が、静かに閉まった。


 わたしは、閉まった扉を見つめていた。

 何も、来なかった。

 困った顔も。冷たい声も。

 ミーナさんは、ただ「かしこまりました」と言って、お茶を下げていった。

 それだけだった。

 わたしは、長いことそのまま動けなかった。

 ――本当に?

 本当に、これだけなのだろうか。

 あとから来るのかもしれない。

 お夕食のときに。明日の朝に。

 わたしは膝を抱えて、窓の外の光が変わっていくのを見つめていた。

 まだ、分からない。

 まだ、信じられない。

 お母さまだって、その場では何も言わないことがあった。言わずに微笑んで、次の日に、何も持ってこなかった。

 夕食が来るまで。

 夕食が来るまでは、まだ分からない。


   ◇ ◇ ◇


 扉を閉めた途端、ミーナはお盆を胸に抱えたまま、廊下の壁にもたれかかった。

 心臓が、どきどきしていた。

 ――いりません。

 あの方が、初めて断った。

 ミーナは、ぎゅっと唇を噛んで、こみ上げてくるものを必死に押しこめた。

 声を上げたかった。

 飛び上がって、廊下を走って、厨房の料理長に、侍女長に、誰かれ構わず言って回りたかった。

 あの方が、いりませんって言ったんです、と。

 でも、それはできなかった。

 三日前、侍女長に言われていたのだ。

 ――もしもリシェル様が何かを断られたら、決して驚いた顔をしてはいけません。喜んだ顔もいけません。ただ、いつもどおりに、かしこまりましたとだけ申し上げなさい。

 ――あの方にとって、断ることは、きっと命がけなのです。それを、特別なことにしてはいけない。当たり前のことにしてさしあげなければ。

 だからミーナは、笑った。

 いつもと同じように。何でもないことのように。

 それが、こんなに難しいことだとは思わなかった。

 喉の奥が熱くなって、目の奥がじんと痛んで、それでも口元だけは笑っていなければならなかった。

「……ミーナ?」

 廊下の向こうから、侍女長が歩いてきた。

 ミーナの顔を見て、侍女長の足が止まる。

 ミーナは、お盆を抱えたまま、侍女長を見上げた。

 何か言おうとして、言葉にならなかった。

 侍女長は、ミーナの腕の中のお盆を見た。

 口のつけられていない茶器。いつもなら卓の上に置いてくるはずの、お盆ごと。

 侍女長は、それだけで分かったようだった。

「……お断りに、なったのね」

 ミーナは、こくこくと何度も頷いた。

 侍女長は、しばらく黙っていた。

 それから、ほんの少しだけ目を細めて、ミーナの肩にそっと手を置いた。

「よくやりました」

 静かな声だった。

「ちゃんと、いつもどおりにできましたね」

 ミーナは、とうとう我慢できなくなって、お盆を抱えたまま、ぽろりと涙をこぼした。

 侍女長は何も言わずに、ミーナの肩に手を置いたまま、しばらくそこに立っていた。


   ◇ ◇ ◇


 夕食は、いつもどおりに来た。

 セレナさんが盆を運んできて、卓の上に並べて、「どうぞ、お召し上がりくださいませ」と言って出ていった。

 お茶のことは、何も言わなかった。

 わたしは、卓のそばへ行って、盆の上を見た。

 温かいスープ。柔らかい魚。白いパン。

 何ひとつ、減っていなかった。

 いつもと、同じだった。

 わたしはスープを五口飲んで、パンをひとつ食べた。

 それから、隅の敷物の上に戻った。

 ――何も、取り上げられなかった。

 お茶を断った。

 それでも、夕食は来た。パンは、ちゃんとあった。

 わたしは、膝を抱えた。

 まだ、信じられなかった。

 明日の朝になったら、分かるのかもしれない。

 明日の朝、パンが来なかったら。

 でも――。


 次の日の朝、扉を叩く音で目が覚めた。

「リシェル様。おはようございます。セレナでございます」

 セレナさんが、朝の籠を卓の上に置いた。

 白いパンが二つ。湯気が立っていた。

 いつもと同じだった。

 何も、変わっていなかった。

 セレナさんが出ていったあと、わたしは卓のそばへ行って、籠の中のパンを見下ろした。

 焼きたての、白いパン。

 お茶を断った次の日の朝の、パン。

 わたしは、パンをひとつ取った。

 まだ温かかった。

 ちぎって、口に入れる。

 柔らかくて、ほんのりと甘かった。

 ――何を断っても、お前から何かを取り上げる者はいない。

 あの人の声が、よみがえった。

 本当だった。

 少なくとも、お茶を一杯断ったくらいでは。

 わたしは、パンを握りしめたまま、しばらくそこに立っていた。

 胸の奥で、何かがかすかに震えていた。

 怖いのか、嬉しいのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からなかった。

 ただ、奇跡みたいだと思った。

 お茶を断っても、パンがある。

 そんな当たり前のことが、わたしには、どんな奇跡よりも信じ難かった。


   ◇ ◇ ◇


 その日の昼、あの人はいつものように来た。

 盆を置いて、匙で確かめて、部屋の真ん中に座った。

 わたしはスープを五口飲んで、パンをひとつ食べた。

 あの人は、窓の外を見ていた。

 何も、訊かなかった。

 昨日のお茶のことを、知っているのかどうかも分からなかった。

 帰り際、あの人はいつものように言った。

「明日も、来ていいか」

 わたしは、少しだけ黙った。

 それから、言った。

「……来ても、いいです」

 あの人は、小さく頷いた。

 扉の取っ手に手をかけたところで、ふと、動きを止めた。

「リシェル」

「……はい」

「昨日、茶を断ったそうだな」

 わたしの身体が、びくりと跳ねた。

 知っていたのだ。

 あの人は、振り返らなかった。

 背中を向けたまま、静かに言った。

「それでいい」

 それだけ言って、あの人は扉の外へ出ていった。

 扉が閉まった。

 わたしは、閉まった扉を見つめていた。

 ――それでいい。

 一昨日、分かりません、と言ったときと同じ言葉だった。

 わたしは、胸元のボタンを服の上から握りしめた。

 それから、誰もいない部屋の中で、ほんの小さな声で、もう一度だけ言ってみた。

「……いりません」

 誰も、何も取り上げなかった。

 部屋の中には、窓から差しこむ昼下がりの光と、まだ少しだけ温かいスープの匂いだけが、静かに満ちていた。

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