第31話 空腹を選ぶ癖
スープを飲めるようになって、五日が経っていた。
最初はふた口だった。それが三口になり、四口になり、五口になった。
そして、五口のまま止まっていた。
その日の昼も、あの人が匙で確かめてくれたあとで、わたしは卓のそばに立ってスープを飲んだ。
ひと口。ふた口。三口。
温かいものが喉を通って、お腹の底に落ちていく。
四口。
お腹の真ん中の冷たい穴が、少しずつ埋まっていく。
五口。
そこで、わたしは匙を置いた。
まだ、スープは器の半分以上残っていた。
お腹は、まだ空いていた。
もっと飲みたい、と身体のどこかが言っていた。
けれど、それ以上飲もうとすると、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなるのだ。
わたしは白いパンをひとつ取って、隅の敷物の上に戻った。
部屋の真ん中で、あの人は窓の外を見ていた。
◇ ◇ ◇
宮廷医師のエドガー先生が二度目に来たのは、その日の午後だった。
セレナさんが扉の前で、一度だけ尋ねた。
「エドガー先生が、少しお話をなさりたいそうです。お会いになりますか。お断りになっても構いません」
お断りになっても、構いません。
セレナさんは、そう付け加えた。
わたしは、少しだけ迷った。
前に足首を診てもらったとき、怖かった。でも、お医者さまは乱暴なことは何もしなかった。薬を塗ってもらった足首は、少しずつ痛みが引いてきている。
「……お話、だけなら」
わたしは、そう答えた。
自分で、条件をつけた。
セレナさんは、ほんの少しだけ目を細めて、「かしこまりました」と言った。
エドガー先生は、前と同じように、わたしから少し離れた場所に膝をついた。
白い髭。丸い眼鏡。少し眠たそうな目。
「お話だけ、と伺いましたので、今日はどこにも触れません」
エドガー先生は、両手を膝の上に置いて言った。
「よろしいですかな」
「……はい」
「ありがとうございます」
エドガー先生は、穏やかに頷いた。
それから、少しだけ首をかしげた。
「リシェル様。お食事のことを、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
わたしは、身体を硬くした。
お食事のこと。
スープを五口しか飲んでいないこと。パンをひとつしか食べていないこと。きっと、それを言われるのだ。
もっと食べなさい、と。
わたしは、膝の上で手を握りしめた。
「……はい」
「この数日、スープを召し上がるようになったと聞きました。毎回、五口ほど」
「……はい」
「それは、五口で、お腹がいっぱいになるからですか」
わたしは、答えられなかった。
お腹は、いっぱいではなかった。
まだ、空いていた。
でも、それを言ったら。
――嫌なら嫌と言え。分からなければ分からないと言え。
あの人の声が、よみがえった。
わたしは、唇を噛んだ。
それから、小さく首を横に振った。
「……いいえ」
「まだ、お腹が空いておられる」
「……はい」
「それでも、五口でお止めになる」
「……はい」
エドガー先生は、しばらく黙っていた。
それから、とても静かな声で尋ねた。
「どうして、お止めになるのか。もしよろしければ、お聞かせ願えませんか。言いたくなければ、それで構いません」
わたしは、長いこと黙っていた。
どうして。
自分でも、うまく言葉にできなかった。
ただ、五口を過ぎると、胸の奥がざわざわするのだ。
もっと飲めば、お腹が満ちていく。温かくなって、身体が重たくなって、少しだけ眠たくなる。
その感じが、怖かった。
「……お腹が、いっぱいになると」
わたしは、ゆっくりと口を開いた。
「次の日が、来ないので」
エドガー先生の眉が、ほんのわずかに動いた。
「次の日、と申しますと」
「お母さまは」
わたしは、膝の上の手を見つめた。
「三日、食べさせてくれると、四日目には、何も来なかったんです。林檎をもらった日の次は、泣けと言われて。お腹がいっぱいになった次の日は、いつも、いちばんつらい日でした」
言葉にしてみると、それはひどく当たり前のことのように聞こえた。
「だから、お腹がいっぱいになると……明日、何か、来るような気がして」
わたしは、目を伏せた。
「それに、空いているほうが、慣れているので」
空いているほうが、慣れている。
お腹の真ん中に、冷たい穴があいている感じ。
七年間、ずっとそこにあったもの。
それがある限り、わたしは何が来ても耐えられた。これ以上ひどくはならないと、知っていたから。
でも、穴が埋まってしまったら。
満たされてしまったら。
そこから、また取り上げられるのが怖い。
最初から空っぽのままでいれば、何も失わずに済む。
「空いているほうが、安心なんです」
わたしは、ほとんど聞こえないくらいの声でそう言った。
エドガー先生は、何も言わなかった。
丸い眼鏡の奥の目を、少しだけ伏せていた。
長い沈黙のあとで、先生は眼鏡を外して、指先で目頭を押さえた。
それから、また眼鏡をかけ直した。
「話してくださって、ありがとうございます」
穏やかな声だった。
「よく分かりました」
わたしは、身構えた。
分かった、と言われた。
だから、もっと食べなさいと言われるのだろうか。満腹は怖くないから、と。
でも、エドガー先生はそうは言わなかった。
「リシェル様。わたくしは医師です。本来なら、こう申し上げるべきなのでしょう。もっと召し上がりなさい。今のままでは、お身体が持ちません、と」
わたしは、肩をすくめた。
「ですが、申し上げません」
エドガー先生は、上着の内側から、小さな板のようなものを取り出した。
手のひらに載るくらいの、薄い木の板だった。そこに、細い線で枠がいくつも描かれていた。
「これを、お預けしてもよろしいですかな」
先生は、それを床の上に置いて、わたしのほうへそっと滑らせた。
わたしは、おそるおそる手を伸ばした。
板の上には、文字が並んでいた。
スープ。パン。魚。野菜。果物。甘いもの。
それぞれの横に、小さな丸がいくつも描かれている。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
「毎朝、この板をセレナに渡していただきたいのです」
エドガー先生は言った。
「その日のお昼と夜に、どれくらい召し上がりたいか。リシェル様ご自身で決めて、丸に印をつけてください。スープを五口なら、丸をひとつ。パンをひとつなら、丸をひとつ。何もいらなければ、印をつけなくていい」
「……わたしが、決めるんですか」
「はい。リシェル様が決めるのです」
エドガー先生は、穏やかに頷いた。
「厨房は、印のついた分だけを用意します。多くもなく、少なくもなく。リシェル様が選んだ分だけを」
わたしは、手の中の板を見つめた。
「……もし、たくさん選んだら」
声が、震えた。
「次の日に、減らされたりは」
「いたしません」
エドガー先生は、きっぱりと言った。
「多く選ばれても、次の日に減らすことはありません。少なく選ばれても、叱ることはありません。昨日たくさん召し上がったから今日はなし、ということも、決していたしません」
先生は、わたしの目をまっすぐに見た。
「その日のお食事は、その日のリシェル様が決める。それだけです。昨日のことも、明日のことも関係ありません」
わたしは、何も言えなかった。
その日のお食事は、その日のわたしが決める。
昨日のことも、明日のことも、関係ない。
そんなことが、あるのだろうか。
お母さまの家では、今日の食事はいつも昨日の涙の数で決まった。明日の食事は、今日の涙の数で決まった。
わたしが決められることなんて、ひとつもなかった。
泣くか、泣かないか。
それだけだった。
「……どうして」
気がつくと、口からこぼれていた。
「どうして、食べなさいって、言わないんですか」
エドガー先生は、少しだけ目を細めた。
「わたくしがそう申し上げれば、リシェル様は、お食べになるでしょう」
「……」
「怖いのを我慢して、満腹の苦しさを我慢して、次の日に何か来るのではないかと怯えながら、それでもお食べになる。わたくしが言ったから」
先生は、静かに首を振った。
「それでは、地下のお食事と何も変わりません。誰かに言われたから口に入れる食事は、お身体は満たしても、心は満たしません」
エドガー先生は、ゆっくりと立ち上がった。
「お身体を治すのは、わたくしの仕事です。けれど、今のリシェル様に必要なのは、薬でも治療でもないのでしょう」
先生は、わたしの手の中の板を見下ろした。
「選ぶことです」
◇ ◇ ◇
エドガー先生が出ていったあと、わたしは長いこと、木の板を見つめていた。
スープ。パン。魚。野菜。果物。甘いもの。
小さな丸が、いくつも並んでいる。
空っぽの丸。
まだ何も選ばれていない丸。
わたしは、そっと指先でそのひとつに触れた。
選ぶ。
わたしが。
――何も、いりません。
そう選ぶこともできるのだ。全部の丸を空っぽのまま、セレナさんに渡すことも。
それでも、誰にも叱られない。
でも、それなら。
わたしは、スープの横の丸を見た。
ひとつ目の丸。
五口分。
それは、今のわたしが、安心して飲める量だった。
ふたつ目の丸。
十口分。
お腹が、もう少しだけ満ちる量。
――選んだ分だけ。次の日に、減らされることはない。
エドガー先生の声が、耳の奥に残っていた。
わたしは、セレナさんが置いていってくれた小さな炭筆を取った。
長いこと迷った。
ひとつ目の丸に、印をつける。
スープ、五口。
それから、パンの横の丸に、ひとつ。
それで、筆を置こうとした。
でも――。
指が、止まった。
わたしは、もう一度スープの横を見た。
ふたつ目の、空っぽの丸。
まだ、怖かった。
お腹がいっぱいになったら、明日、何かが来るかもしれない。
でも、先生は言った。
次の日に減らすことはない、と。
昨日のことも、明日のことも、関係ない、と。
わたしは、目を閉じた。
それから、震える指で、ふたつ目の丸に、ほんの小さな印をつけた。
ほとんど見えないくらいの、点のような印。
それが、わたしの選んだ、明日のスープだった。
◇ ◇ ◇
「――選ぶ、か」
皇帝の執務室で、アルフレッドは老医師の報告を聞き終えて、短く呟いた。
「はい」
エドガーは、窓際の絨毯の上に座る主君の前で、穏やかに頷いた。
「満腹になることを恐れておられる。次の日に取り上げられることを。長く飢えた者には珍しくない症状でございますが、あの方の場合は、それが飢えそのものではなく、満たされたあとに奪われることへの恐れなのでしょう」
「空腹のほうが安心、と言ったそうだな」
「はい」
アルフレッドは、何も言わなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
「わたくしにできるのは、あの方が選んだ分を、選んだとおりに出すことだけでございます。多く選べば多く、少なく選べば少なく。昨日がどうであれ、明日がどうであれ、変わらずに」
エドガーは、眼鏡を指先で押し上げた。
「それを何十日、何百日と繰り返せば、いつか、あの方の中で、満たされることと奪われることが切り離されるかもしれません」
「何百日、か」
「はい。気の長い治療でございます」
アルフレッドは、ゆっくりとエドガーのほうを見た。
「構わない」
短い答えだった。
「十年待った。何百日くらい、どうということはない」
エドガーは、主君の言葉の意味を測りかねて、わずかに首をかしげた。
けれど、それ以上は尋ねなかった。
ただ、深く一礼した。
◇ ◇ ◇
翌朝、セレナは東の客殿から戻ると、まっすぐ厨房へ向かった。
手には、小さな木の板が握られていた。
料理長ハインツは、竈の前でパンの焼き加減を見ていた。セレナが差し出した板を受け取り、眉間に皺を寄せて覗きこむ。
スープの横に、印がひとつ。
パンの横に、印がひとつ。
それから――。
ハインツは、板を目に近づけた。
スープの横の、ふたつ目の丸。
そこに、ほとんど見えないくらいの、小さな点がついていた。
「……侍女長」
「はい」
「これは、印か」
「わたくしにも、そう見えます」
ハインツは、しばらく黙って板を見つめていた。
それから、板をセレナに返して、竈のほうへ向き直った。
「十口分だな」
「ええ」
「分かった」
料理長は、それだけ言って、スープ鍋の蓋を開けた。
大きな背中が、ほんの少しだけ丸くなっているように見えた。
セレナは、その背中を見て、何も言わずに厨房を出ていった。
廊下に出てから、セレナは手の中の板を、もう一度だけ見下ろした。
ほとんど見えないくらいの、小さな点。
それが、どれほどの勇気でつけられたものなのか。
セレナは、板を胸に抱いて、静かに目を閉じた。




