第32話 近づかない皇帝
あの人は、決してわたしに近づかなかった。
毎日、お昼になると来る。銀の盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。それから、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろす。
いつも、同じ場所に。
わたしのいる隅から、大人が五、六歩歩かなければ届かない場所に。
あの人がお昼に来るようになってから、ずっとそうだった。
一歩も、近づいてこなかった。
わたしがスープを飲みに卓のそばへ行くときも、あの人は動かなかった。わたしがあの人から遠い側を回って卓に近づくのを、窓の外を見たまま待っていた。
盆を置くときも、わたしのそばには置かなかった。いつも卓の上に置いて、わたしが自分で取りに行くのを待った。
何かを手渡されたことは、一度もなかった。
あの人の手が、わたしのほうへ伸びてきたことも。
最初は、それが不思議だった。
お母さまは、わたしに近づくときにためらったことなど一度もなかった。お兄さまは、いきなり顎をつかんだ。ドルフさんは、肩をつかんで藁の上から引きずり下ろした。
近づいてくる人は、いつも、何かをするために近づいてきた。
だからわたしは、誰かが一歩近づくたびに、身体を硬くしてきた。
あの人は、近づいてこない。
だから、あの人が部屋にいても、わたしは少しずつ、身体を硬くしなくてもよくなってきていた。
少しずつ。
ほんの、少しずつ。
◇ ◇ ◇
その日のお昼も、わたしは卓のそばに立ってスープを飲んだ。
エドガー先生の木の板に、今朝、わたしはまたふたつ目の丸に印をつけた。昨日よりも、ほんの少しだけはっきりした点で。
十口。
ゆっくりと、ひと口ずつ数えながら飲んだ。
七口目を過ぎたあたりで、また胸の奥がざわざわしはじめた。
八口。九口。
十口目を飲み終えたとき、お腹の真ん中が、ふわりと温かかった。
怖かった。
でも、選んだのは、わたしだった。
昨日、十口飲んで、今朝もパンはちゃんと来た。
わたしは匙を置いて、白いパンをひとつ取った。
隅の敷物に戻ろうとしたとき、あの人が言った。
「リシェル」
「……はい」
「庭の薔薇が咲いたそうだ」
あの人は、窓の外を見たまま言った。
「この部屋からは見えないが、廊下の突き当たりの窓からなら見える。侍女が、そう言っていた」
わたしは、パンを持ったまま立ち止まった。
薔薇。
ミーナさんが、前に話していた。庭師のおじいさんが朝から自慢してまわっているって。
「見に行くか」
あの人は、一度だけ言った。
それから、黙った。
わたしの答えを、待っていた。
――断っていい。
あの人の言葉を思い出した。
嫌なら、嫌と言えばいい。
わたしは、扉のほうを見た。
この部屋に来てから、わたしは一度も扉の外へ出ていなかった。
十日以上。
部屋の中だけで、過ごしてきた。
外には、知らない人たちがいる。知らない廊下がある。どこに何があるのか分からない場所。
怖かった。
でも。
わたしは、手の中のパンを見下ろした。
ミーナさんが、薔薇の話をしたとき、とても楽しそうだった。
庭の薔薇。
離れの庭にも、花は咲いていた。白い小さな花だけだったけれど。
薔薇という花を、わたしはまだ、ちゃんと見たことがなかった。
「……少しだけ、なら」
わたしは、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
あの人は、窓の外から目を離して、わたしのほうを見た。
それから、静かに頷いた。
「分かった」
◇ ◇ ◇
扉の外の廊下は、思っていたよりも静かだった。
赤い絨毯が、どこまでも長く続いていた。壁には絵がいくつも飾られていて、窓から差しこむ光が、絨毯の上に四角い模様を作っていた。
人は、誰もいなかった。
あとで知ったことだけれど、あの人は前もって、この廊下から人を遠ざけておいてくれたらしい。
わたしは、あの人の外套を肩にかけたまま、扉の前で立ち止まっていた。
あの人は、わたしよりも三歩ほど先に立っていた。
振り返らなかった。
ただ、わたしが歩きだすのを、背中で待っていた。
わたしは、一歩踏み出した。
絨毯が、足の裏でふわりと沈んだ。
もう一歩。
あの人も、一歩だけ前に進んだ。
わたしが歩けば、あの人も歩く。わたしが止まれば、あの人も止まる。
地下を出るとき、石段を上ったときと同じだった。
あの人は、いつも少しだけ先にいて、決して手を差し出さず、決して振り返らず、ただわたしの足音に合わせて歩いた。
廊下は、長かった。
部屋の中では気にならなかったけれど、こうして歩いてみると、自分の足がどれだけ弱っているのかがよく分かった。
七年間、牢の中で、鎖の届く範囲しか歩いてこなかった足。
十歩も歩くと、膝がかすかに震えだした。
二十歩で、息が少し上がった。
わたしは壁に手をついて、少しだけ休んだ。
あの人も、止まった。
何も言わずに。
しばらくして、わたしはまた歩きだした。
突き当たりの窓が、少しずつ近づいてくる。
光が、たくさん差しこんでいた。
あと、もう少し。
そう思った、そのときだった。
絨毯の端が、少しだけめくれていた。
わたしの足が、それに引っかかった。
身体が、前に傾いた。
膝に、力が入らなかった。
あっと思う間もなく、わたしは絨毯の上に倒れこんでいた。
手のひらと膝を、強く打った。
外套が、肩から滑り落ちた。
痛かった。
でも、それよりも、怖かった。
転んでしまった。
あの人の前で。
わたしは、反射的に身体を丸めた。
頭を両腕で抱えて、膝を胸に引き寄せて。
地下で、ドルフさんに突き飛ばされたときのように。お兄さまの手が伸びてきたときのように。
次に来るものを待つ、いつもの形。
足音が、近づいてきた。
速い足音だった。
あの人が、わたしのほうへ駆け寄ってくる音。
わたしは、ぎゅっと目をつぶった。
来る。
手が、伸びてくる。
つかまれる。引き起こされる。
――そう思った。
けれど。
足音は、わたしのすぐそばで、ぴたりと止まった。
手は、伸びてこなかった。
わたしは、腕の隙間から、おそるおそる目を開けた。
あの人が、わたしのすぐそばに膝をついていた。
この部屋に来てから、いちばん近い距離だった。
手を伸ばせば、届く距離。
あの人の右手が、わたしのほうへ半分ほど伸びたところで、宙に止まっていた。
指先が、かすかに震えていた。
まるで、見えない壁にぶつかったかのように。
あの人は、その手をそれ以上動かさなかった。
代わりに、低い声で訊いた。
「手を貸してもいいか」
わたしは、息を止めた。
手を貸してもいいか。
転んだわたしに。
地面にうずくまって、震えているわたしに。
あの人は、訊いたのだ。
引き起こすのでもなく。大丈夫かと肩を揺さぶるのでもなく。
触れてもいいか、と。
わたしは、宙で止まったままの手を見つめた。
大きな手だった。剣を握る手。地下で錠前を叩き壊した手。お父さまの喉元に、刃を突きつけた手。
その手が、わたしの答えを待って、止まっていた。
――断っていい。
わたしは、唇を噛んだ。
まだ、怖かった。
あの手に触れられるのは、まだ怖かった。
わたしは、小さく首を横に振った。
「……じ、自分で」
声が、震えた。
「自分で、立てます」
あの人の手が、ゆっくりと引かれた。
「分かった」
それだけだった。
あの人は、手を自分の膝の上に戻した。
それでも、立ち上がりはしなかった。
膝をついたまま、そこにいた。
わたしが立ち上がるのを、待っていた。
わたしは、絨毯に手をついた。
手のひらが、じんと痛んだ。膝も、痛かった。
ゆっくりと、身体を起こす。
膝が震えて、一度、また崩れそうになった。
あの人の手が、ほんの一瞬だけ動いた。
けれど、伸びてはこなかった。
わたしは壁に手をついて、もう一度、ゆっくりと立ち上がった。
今度は、ちゃんと立てた。
足元に落ちていた外套を、拾い上げる。
肩にかける。
それから、ようやく、あの人のほうを見た。
あの人は、まだ膝をついていた。
わたしが立ち上がったのを見て、ようやく、ゆっくりと立ち上がった。
そして、また三歩ほど、わたしから離れた。
「痛むか」
「……少し」
「歩けるか」
わたしは、廊下の突き当たりを見た。
光がたくさん差しこむ窓まで、あと十歩ほどだった。
「……歩けます」
「そうか」
あの人は、また背を向けた。
三歩先で、わたしが歩きだすのを待っていた。
◇ ◇ ◇
突き当たりの窓から、庭が見えた。
緑の芝生の向こうに、赤い花が咲いていた。
白い花も、薄紅色の花も、黄色い花もあった。
幾重にも重なった花びらが、昼下がりの光を受けて、やわらかく光っていた。
「……あれが、薔薇」
「ああ」
あの人は、わたしから三歩離れた場所で、同じ窓の外を見ていた。
「庭師の爺が、今年はいちばん出来がいいと言っていた」
「……きれい、です」
声に出してから、自分でも少し驚いた。
きれい。
そんな言葉を口にしたのは、いつ以来だっただろう。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
わたしも、薔薇を見ていた。
手のひらと膝が、まだじんじんと痛かった。
でも、窓の外の薔薇は、本当にきれいだった。
わたしは、ちらりとあの人の右手を見た。
さっき、宙で止まった手。
指先が、かすかに震えていた手。
――手を貸してもいいか。
あの人は、転んだわたしに駆け寄ってきた。
速い足音だった。きっと、すぐにでも手を伸ばしたかったのだと思う。
それなのに、止めた。
わたしに、触れる前に。
わたしの答えを、訊くために。
そして、わたしが「自分で」と言ったら、本当に触れなかった。
わたしがもう一度崩れそうになったときも。
あの人の手は、ほんの一瞬だけ動いて、それでも、伸びてはこなかった。
――この人は、本当に、わたしが嫌がることはしないんだ。
地下で、あの人は言った。
お前が嫌がることはしない、と。
あのときは、その言葉の意味が分からなかった。
でも、今、少しだけ分かった気がした。
それがどれほど難しいことなのかも。
目の前で誰かが転んで、手を伸ばさずにいるのが、どれほど難しいことなのかも。
◇ ◇ ◇
皇帝の執務室に戻ったアルフレッドは、扉を閉めるなり、壁に背中を預けた。
右手を、目の前にかざす。
まだ、かすかに震えていた。
――手を貸してもいいか。
あの一瞬。
あの子が絨毯の上に倒れこんだ瞬間、身体が勝手に動いていた。駆け寄って、手を伸ばして、抱き起こそうとしていた。
止められたのは、あの子が頭を抱えて身体を丸めたのを見たからだった。
次に来るものを、待つ形。
殴られる前の子どもが、身を守る形。
あの子の目には、駆け寄ってくる自分の足音が、そう聞こえたのだ。
アルフレッドは、震える右手を握りしめた。
あの瞬間に手を伸ばしていたら。
あの子の肩をつかんで、引き起こしていたら。
それはきっと、あの子の兄が顎をつかんだのと、看守が肩をつかんで引きずったのと、何も変わらなかっただろう。
善意かどうかなど、関係ない。
あの子にとっては、突然伸びてくる手は、すべて同じなのだ。
「……自分で、立てます、か」
アルフレッドは、低く呟いた。
あの子は、自分で立った。
膝を震わせて、一度崩れかけて、それでも壁に手をついて、自分の足で。
手を貸せなかったことが、ひどく苦しかった。
けれど同時に、胸のどこかで、何かが小さく灯っていた。
自分で、立てます。
数日前、あの子はエドガーに「お話だけなら」と条件をつけたと聞いた。
けれどあれは、セレナが前もって尋ねて、考える時間のある中での返事だった。
今日は違う。
倒れて、怯えて、身体を丸めたまま。手を伸ばしかけた男を目の前にして。
それでもあの子は、自分の口で、いいえと言った。
いちばん怖いはずのその瞬間に、自分の身体のことを、自分で決めたのだ。
アルフレッドは、握りしめた右手をゆっくりと開いた。
震えは、もう止まっていた。




