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第33話 悪夢

足首が、重かった。

 わたしは、冷たい石の床の上にいた。

 湿った藁の匂い。黴の匂い。格子窓から差しこむ、手のひらほどの細い光。

 ――ああ、そうか。

 わたしは、ぼんやりと思った。

 ここが、本当の場所だったのだ。

 柔らかい絨毯も。大きな硝子の窓も。焼きたての白いパンも。金色のスープも。

 全部、夢だったのだ。

 薔薇も。

 ――手を貸してもいいか。

 あの声も。

 全部、地下の暗がりで見た、都合のいい夢だった。

 十回目の春に、あの子のことを夢だと決めたように。

 わたしは、足首を見下ろした。

 鉄の輪が、そこにあった。

 擦り切れた肌に食いこんで、冷たく、重たく。

 外したはずだった。あの人が、鍵を差しこんで、かちりと外してくれたはずだった。

 でも、ちゃんとそこにあった。

 最初から、一度も外れてなどいなかったのだ。


 鉄扉の向こうで、足音がした。

 絹の衣擦れの音。甘い花の香り。

 扉が開く。

「おはよう、リシェル」

 お母さまが、立っていた。

 藤色のドレス。白い手袋。胸元の、青黒い石の首飾り。

 お母さまは、やさしく微笑んでいた。

「ずいぶん長いこと、いい夢を見ていたのね」

 わたしは、声が出なかった。

「皇帝陛下がお迎えに来てくださる夢? 柔らかい寝台で眠る夢? あたたかいスープを飲む夢?」

 お母さまは、くすくすと笑った。

「かわいそうな子。あなたみたいな子に、そんなことが起きるはずがないでしょう」

 お母さまは、牢の中に一歩入ってきた。

 わたしは後ずさった。けれど背中は、すぐに冷たい壁にぶつかった。

 鎖が、鳴った。

「でもね、いい夢を見たあとの涙は、とてもきれいな色になるのよ」

 お母さまは、わたしの前にしゃがみこんだ。

 白い手袋の指先が、わたしの頬に触れた。

 冷たかった。

「だから、泣いてちょうだい。リシェル」

 ――いや。

「あなたの見た夢を、全部、石にしてちょうだい」

 ――いや、いや。

「薔薇の夢も。スープの夢も。あの皇帝の夢も」

 お母さまの瞳が、すぐ目の前にあった。

 石と同じ、青黒い色をしていた。

「全部、泣いて、わたくしにちょうだい」

 ――いやだ。

 声を出そうとした。

 嫌だ、と言おうとした。

 嫌なら嫌と言え、とあの人は言った。

 でも、声が出なかった。

 喉が締めつけられて、息ができなかった。

 お母さまの指が、頬を伝って、目の下に触れた。

 涙を、待っている指だった。

 わたしは――。


   ◇ ◇ ◇


 自分の声で、目が覚めた。

 悲鳴だったのかもしれない。何かを叫んでいたのかもしれない。分からなかった。

 暗かった。

 何も見えなかった。

 息が、できなかった。

 胸の奥がぎゅうっと締めつけられて、空気がうまく入ってこない。吸っても、吸っても、肺の奥まで届かない。浅く、速く、ひゅうひゅうと喉が鳴るだけだった。

 ここは、どこ。

 地下。

 地下だ。

 足首に、手を伸ばした。

 震える指で、何度も何度も確かめた。

 何もなかった。

 鉄の輪は、なかった。

 包帯が巻いてあるだけだった。エドガー先生が、薬を塗って巻いてくれた包帯。

 でも、それすら、夢なのかもしれなかった。

 お母さまが言った。全部、夢だと。

 わたしは、両腕で自分の身体を抱きしめた。

 手に触れたのは、厚い布の感触だった。

 外套。

 あの人の、黒い外套。

 夢ではない、と思おうとした。

 でも、震えが止まらなかった。

 歯が、かちかちと鳴った。

 息が、できなかった。


 扉が、開く音がした。

 わたしは、凍りついた。

 ――来た。

 お母さまが。

 夢の続きが。

 わたしは衣装棚と壁のあいだに、身体をぎゅうっと押しこんだ。

 膝を抱えて、頭を伏せて。

 来ないで。

 来ないで、来ないで、来ないで。


「リシェル」


 低い声がした。

 お母さまの声ではなかった。

 わたしは、震えながら顔を上げた。

 寝所の扉が、開いていた。

 その向こう、居間の暗がりに、誰かが立っていた。

 月明かりが、窓から斜めに差しこんでいる。その光が、扉の枠のところで途切れて、そこに立つ人の輪郭だけを浮かび上がらせていた。

 背の高い、黒い影。

 あの人だった。


   ◇ ◇ ◇


 アルフレッドが東の客殿の廊下にいたのは、偶然ではなかった。

 この十日あまり、毎晩のことだった。

 夜更けに執務を終えると、彼は寝所へは戻らずに、遠回りをして東の客殿の前を通った。扉の前で足を止めることはしなかった。ただ、通り過ぎる。それだけだった。

 中から物音がしなければ、それでいい。

 あの子が、少しでも眠れているのなら、それでいい。

 誰にも言っていなかった。ガレスにも、クラウスにも。

 知っているのは、扉の隣の控えの間で夜番をしているセレナだけだった。初めて廊下で鉢合わせした夜、侍女長は何も言わずに一礼し、それきり何も尋ねなかった。

 今夜も、そうして通り過ぎるつもりだった。

 その声を、聞くまでは。

 悲鳴だった。

 喉が裂けるような、細く、鋭い声。

 気がついたときには、扉を開けていた。

 居間を横切って、寝所の扉の前まで来ていた。

 寝所の中は暗かった。

 月明かりが、窓から斜めに差しこんでいる。

 その光の届かない、衣装棚と壁のあいだの暗がりに、あの子がいた。

 身体を丸めて、頭を伏せて、震えていた。

 ひゅう、ひゅう、と、浅く速い呼吸の音が聞こえた。

 息が、うまくできていないのだ。

 アルフレッドは、寝所に踏みこもうとした。

 あの子のそばへ。抱き起こして、背中をさすって、大丈夫だと言ってやりたかった。

 ――足が、止まった。

 昼間、廊下で転んだあの子が、頭を抱えて身体を丸めたのを思い出した。

 今、あの子は同じ形をしていた。

 次に来るものを、待つ形。

 夜中に、寝所の扉が開いて、男が入ってくる。

 あの子にとって、それがどういう意味を持つのか。

 アルフレッドは、寝所の扉の枠を握りしめた。

 一歩も、中に入らなかった。


「リシェル」

 できる限り、低く、静かな声で呼んだ。

 あの子の肩が、びくりと跳ねた。

 それから、ゆっくりと、震えながら顔を上げた。

 月明かりの届かない暗がりの中で、灰色がかった青い瞳が、こちらを見ていた。

 怯えきった目だった。

 自分が今どこにいるのか、分かっていない目だった。

「……おかあ、さま……?」

 かすれた声だった。

 アルフレッドの胸の奥が、きしむように痛んだ。

「違う」

 静かに言った。

「俺だ」

 あの子は、まばたきをした。

 何度も、何度も。

 まるで、目の前のものが本物かどうかを確かめるように。

「……へい、か」

「ああ」

「ゆめ、じゃ……ない……?」

「夢じゃない」

 アルフレッドは、扉の枠のところに立ったまま、動かなかった。

「ここは皇宮だ。地下じゃない。お前の足には、もう鎖はない」

 あの子の手が、震えながら足首に伸びた。

 包帯の上から、何度も何度も確かめている。

 アルフレッドは、それを黙って見ていた。

 近づかずに。

 手も、伸ばさずに。


 あの子の呼吸は、まだ浅く速かった。

 ひゅう、ひゅう、と喉が鳴っている。肩が大きく上下している。両腕で自分の身体を抱きしめて、外套の布を握りしめて、それでも震えが止まらない。

 アルフレッドは、その場に膝をついた。

 寝所の扉の、すぐ外側で。

 敷居の、こちら側で。

「リシェル。俺は、ここから入らない」

 あの子が、こちらを見た。

「入らない。近づかない。お前に触れない」

 ひとつずつ、区切るように言った。

「ここにいる」

 あの子の唇が、かすかに動いた。

 何か言おうとしているのか。言葉にならないまま、また閉じた。

「何もしなくていい。何も言わなくていい」

 アルフレッドは、扉の枠に背中を預けた。

 あの子のほうを向いたまま、けれど、ほんの少しだけ身体を斜めにして。真正面から見つめないように。

「ただ、ここにいる」


   ◇ ◇ ◇


 ここにいる。

 あの人は、そう言った。

 寝所の扉の外で、膝をついて。

 入ってこなかった。

 近づいてこなかった。

 わたしは、震えながら、あの人を見ていた。

 月明かりの中に浮かぶ、黒い影。

 扉の枠に背中を預けて、少しだけ身体を斜めにして、そこに座っている。

 夢の中のお母さまは、牢の中に入ってきた。

 わたしの前にしゃがみこんで、頬に触れた。

 でも、あの人は。

 入ってこない。

 敷居の向こうで、止まっている。

 ――入らない。近づかない。お前に触れない。

 わたしは、外套の布をぎゅっと握りしめた。

 息が、まだうまくできなかった。

 胸が苦しくて、喉がひりひりして、身体じゅうが冷たかった。

 でも。

 あの人がそこにいる、と思うと。

 あの暗い扉の外に、誰かがいる、と思うと。

 お母さまは、もう入ってこられないような気がした。


「……まだ」

 かすれた声が、こぼれた。

「まだ、いますか」

「いる」

 すぐに、答えが返ってきた。

 わたしは、膝を抱えた腕に額を押しつけた。

 しばらくして、もう一度訊いた。

「……まだ、いますか」

「いる」

 同じ声だった。

 低くて、静かで、少しも揺れていなかった。

 わたしは、目を閉じた。

 また少しして、顔を上げた。

 あの人は、そこにいた。

 扉の外で、さっきと同じ姿勢で。

 息を、吸ってみた。

 さっきよりも、ほんの少しだけ、深く入った。

 吐いてみた。

 また、吸ってみた。

 ひゅう、という音が、少しだけ小さくなった。


 居間のほうで、小さな灯りが揺れた。

 セレナさんが、燭台を持って控えの間から出てきたのだと思う。

 灯りが近づいてきて、寝所の扉の少し手前で止まった。

 あの人が、振り返らずに片手を上げたのが見えた。

 灯りは、それ以上近づいてこなかった。

 しばらくして、セレナさんの気配が、静かに遠ざかっていった。

 居間のどこかに、燭台をそっと置いていったらしい。寝所の扉の向こうが、ほんのりと明るくなった。

 その明かりの中で、あの人の横顔が少しだけ見えた。

 目を、閉じていた。

 眠っているのではなかった。

 ただ、こちらを見ないようにしているのだと思った。

 わたしが、見られていると落ち着かないことを、知っているから。


 震えは、まだ止まらなかった。

 手も、膝も、肩も、ずっと小さく震えていた。

 夢の中のお母さまの指が、まだ頬に残っているような気がした。

 ――全部、泣いて、わたくしにちょうだい。

 あの声が、耳の奥でまだ鳴っていた。

 わたしは、外套の布に顔をうずめた。

 あの人の匂いが、少しだけした。

 鉄と、革と、遠い草原のような匂い。

「……まだ、いますか」

 三度目だった。

「いる」

 三度目も、同じ声だった。

 わたしは、外套の布の中で、ゆっくりと息を吐いた。

 夜は、まだ長かった。

 震えも、まだ止まらなかった。

 それでも、扉の向こうの、たったひとつの影が、そこから動かないでいてくれることだけは、なぜだか、信じられるような気がした。

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