第34話 触れてもいいか?
夜は、少しも明けてくれなかった。
居間に置かれた燭台の火が、寝所の扉の向こうでほんのりと揺れていた。
その明かりの縁に、あの人の横顔があった。
扉の枠に背中を預けて、目を閉じて、片膝を立てて座っている。
さっきから、少しも動いていなかった。
わたしは衣装棚と壁のあいだで、膝を抱えていた。
息は、少しだけ楽になっていた。
ひゅう、という音は、もうほとんど聞こえなかった。
でも、震えは止まらなかった。
手も、膝も、肩も、ずっと小さく震えていた。
夢は終わったはずなのに、身体だけがまだ夢の中に取り残されているみたいだった。
お母さまの指が触れた頬が、まだ冷たかった。
――全部、泣いて、わたくしにちょうだい。
あの声が、何度も何度も耳の奥でよみがえった。
そのたびに、身体がびくりと跳ねた。
止めようとしても、止められなかった。
寒かった。
夜が更けて、部屋の空気がすっかり冷えていた。
外套にくるまっているのに、身体の芯がちっとも温まらなかった。
指先が、冷たくて、うまく動かなかった。
外套の布を握りしめようとしても、指に力が入らない。
かじかんで、自分の指ではないみたいだった。
地下の冬の夜も、こうだった。
藁にくるまっても、膝を抱えても、指先から少しずつ冷たくなっていって、最後には何も感じなくなる。
そうなったら、もう、眠るしかなかった。
眠って、朝が来るのを待つしかなかった。
わたしは、かじかんだ指を口元に寄せて、息を吹きかけた。
温かい息が、ほんの一瞬だけ指先に触れて、すぐに消えた。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、目を閉じたまま、あの子の呼吸の音を聞いていた。
浅く速かった呼吸は、少しずつ深くなってきていた。
けれど、それと入れ替わるように、別の音が聞こえはじめていた。
かちかち、かちかち。
歯の鳴る音だった。
アルフレッドは、そっと薄目を開けた。
燭台の明かりが、寝所の奥の暗がりまでは届かない。それでも、衣装棚の陰で小さく丸まっている影が、絶えず小刻みに揺れているのは分かった。
あの子は、両手を口元に寄せていた。
息を吹きかけているのだ。
指先を、温めようとして。
アルフレッドは、静かに息を吐いた。
夜明けまでは、まだ何刻もあった。春とはいえ、夜更けの石造りの宮殿はひどく冷える。あの痩せた身体で、震えたまま朝を待てば、どうなるか。
戦場で、何度も見てきた。
焼け出された村の子どもたちが、冬の夜に身を寄せあって震えていた。指先から冷えて、唇が紫になって、そのうち震えることさえやめてしまう。
震えが止まったときが、いちばん危ない。
アルフレッドは、そのたびに子どもを外套にくるんで、自分の身体で温めてきた。
何も考えずに。
ただ、そうするのが当たり前だったから。
けれど、今は。
あの子に、何も考えずに触れることはできない。
突然伸びてくる手が、あの子にとって何を意味するのか、知ってしまったから。
アルフレッドは、目を開けた。
寝所の奥の、暗がりのほうを見た。
あの子の影が、また小さく跳ねた。
――訊くしかない。
断られるかもしれない。
怯えさせるかもしれない。
この数刻、ようやく少しだけ落ち着いてきた呼吸を、また乱してしまうかもしれない。
それでも、訊くしかなかった。
何も訊かずに触れることも、何も訊かずに見ていることも、どちらもできなかった。
「リシェル」
できる限り、低く、静かな声で呼んだ。
影が、びくりと跳ねた。
それから、ゆっくりと顔を上げる気配がした。
「寒いか」
しばらく、沈黙があった。
それから、ほとんど聞こえないくらいの声が返ってきた。
「……はい」
「指が、冷たいか」
「……はい」
アルフレッドは、自分の右手を見下ろした。
昼間、宙で止めた手だった。
あの子が「自分で立てます」と言って、引っこめた手。
アルフレッドは、もう一度、暗がりのほうを見た。
「触れてもいいか」
静かな声だった。
部屋の中が、しんと静まり返った。
「手だけでいい」
アルフレッドは、ゆっくりと言葉を続けた。
「お前の手に、俺の手を重ねる。それだけだ。温めるだけだ」
影は、動かなかった。
「嫌なら、首を振ればいい。声を出さなくていい」
アルフレッドは、扉の枠に背中を預けたまま、動かなかった。
「途中で嫌になったら、そう言えばいい。すぐにやめる」
それから、もう一度だけ言った。
「――触れてもいいか」
◇ ◇ ◇
触れてもいいか。
あの人は、そう訊いた。
わたしは、暗がりの中で、あの人の影を見つめていた。
扉の外。燭台の明かりの縁。
さっきから、一歩も動いていない。
手だけでいい、とあの人は言った。
温めるだけだ、と。
わたしは、自分の手を見下ろした。
暗くて、よく見えなかった。でも、震えているのは分かった。かじかんで、冷たくて、自分のものではないみたいな指。
触れられるのは、怖かった。
昼間、廊下で転んだとき、あの人の手が宙で止まったのを見た。
あのときも、怖かった。
自分で立てます、と言った。
あの人は、本当に触れなかった。
――嫌なら、首を振ればいい。
首を振れば、あの人はきっと、そのまま扉の外に座っている。朝まで、ずっと。
それは、分かっていた。
この人は、わたしが嫌だと言ったら、本当にやめる人だ。
地下で、剣を収めたときも。
昼間、廊下で手を引っこめたときも。
今夜、寝所の敷居の手前で止まったときも。
わたしが嫌だと言えば、この人は、止まる。
――だったら。
わたしは、震える唇を噛んだ。
だったら、もしも、いいと言って。
それで、やっぱり怖くなったら。
そのときは、やめてくださいと言えばいい。
この人は、きっと、やめてくれる。
――途中で嫌になったら、そう言えばいい。すぐにやめる。
あの人は、そう言った。
途中でやめてもいい。
今いいと言っても、あとで嫌だと言っていい。
そんなことを言ってくれた人は、今まで、ひとりもいなかった。
お母さまは、一度「はい」と言ったことを、決して取り消させてくれなかった。お兄さまは、わたしが「いや」と言っても、手を離さなかった。
でも、この人は。
――途中で嫌になったら、そう言えばいい。
わたしは、かじかんだ指を、そっと握りしめた。
冷たかった。
ひどく、冷たかった。
わたしは、長いあいだ、暗がりの中で迷っていた。
あの人は、ずっと待っていた。
急かさなかった。
何も言わなかった。
ただ、扉の外で、わたしの答えを待っていた。
それから。
わたしは、ほんの小さく。
自分でも分からないくらい、ほんの小さく。
頷いた。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、暗がりの中のその動きを見た。
見間違いかと思った。
あまりにも小さくて、あまりにもかすかで、震えの続きのようにも見えた。
けれど、違った。
あの子は、こちらを見ていた。
そして、もう一度、ほんのわずかに、顎を引いた。
頷いたのだ。
自分から。
誰にも言わされずに。
アルフレッドは、しばらく動けなかった。
胸の奥で、何かが大きく揺れていた。
それを、静かに押しこめた。
今は、あの子を怖がらせてはいけない。
「……ありがとう」
低く、それだけ言った。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
あの子の影が、かすかに強張った。
「一歩、入る」
アルフレッドは、声に出して言った。
「ゆっくり行く。お前のところまで、行くだけだ。途中で嫌になったら、止まれと言え」
寝所の敷居を、一歩だけまたいだ。
あの子は、何も言わなかった。
「もう一歩」
また一歩。
あの子の呼吸が、少しだけ速くなった。
アルフレッドは、足を止めた。
「……止まるか」
しばらく、沈黙があった。
それから、小さな声がした。
「……だいじょうぶ、です」
アルフレッドは、また一歩、進んだ。
一歩ごとに、声をかけた。
一歩ごとに、待った。
部屋の真ん中まで来た。
いつも、昼間に座っている場所。
あの子まで、あと三歩。
アルフレッドは、そこで一度、膝をついた。
それから、膝をついたまま、ゆっくりと進んだ。
立ったまま近づけば、あの子を見下ろすことになる。それだけは、したくなかった。
あと二歩。
あと一歩。
衣装棚の陰の暗がりの中に、あの子がいた。
外套にくるまって、膝を抱えて、震えていた。
灰色がかった青い瞳が、すぐ近くにあった。
十年前、塀の上から見下ろした庭で、まんまるに見開かれていた瞳。
あの頃よりもずっと痩せて、ずっと怯えて、それでも、確かに同じ瞳だった。
アルフレッドは、自分の右手を、ゆっくりと差し出した。
あの子の手には、触れなかった。
あの子の膝の前の、床の上に。
手のひらを上にして、そっと置いた。
「ここにある」
アルフレッドは、静かに言った。
「お前が、乗せたければ、乗せればいい」
あの子は、床の上の手を見下ろしていた。
長いあいだ、見下ろしていた。
それから、外套の端を握りしめていた右手を、ほんの少しだけ、ゆるめた。
震える指が、外套の布から離れた。
かじかんで、うまく動かない指。
それが、ゆっくりと、ゆっくりと、床の上の手のひらへ近づいてきた。
途中で、一度止まった。
アルフレッドは、何も言わずに待った。
息を、止めていた。
あの子の指が、また動いた。
ほんの少しだけ。
それから、もう少しだけ。
そして――。
冷たい、小さな指先が。
アルフレッドの手のひらに、そっと、触れた。




