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第35話 温度

温かかった。

 指先が触れた瞬間、わたしが最初に感じたのは、それだった。

 あの人の手のひらは、温かかった。

 かじかんで何も感じなくなっていた指先に、じんわりと熱が沁みてきた。

 わたしは、思わず指を引っこめそうになった。

 熱いものに触れたときのように。

 でも、引っこめなかった。

 あの人の手は、動かなかったから。

 床の上に置かれたまま、手のひらを上にして、じっとしていた。

 わたしの指先が触れても、握り返してこなかった。

 つかまなかった。

 引き寄せなかった。

 ただ、そこにあって、温かかった。


 わたしは、指先をそのままにしていた。

 人差し指と中指の先だけが、あの人の手のひらの真ん中に、ほんの少しだけ触れている。

 それだけだった。

 それだけなのに、そこから少しずつ、温かさが広がっていくような気がした。

 指先から、指の根もとへ。手の甲へ。手首へ。

 わたしは、そっと、もう少しだけ指を伸ばした。

 薬指の先も、あの人の手のひらに触れた。

 あの人の手は、やっぱり動かなかった。

 ――人の手って、こんなに温かいものだったっけ。

 わたしは、ぼんやりと思った。

 お母さまの手は、いつも白い手袋に包まれていた。夢の中で頬に触れた指も、冷たかった。

 お兄さまの手は、冷たくて、硬くて、わたしの顎をつかんで痛かった。

 ドルフさんの手は、大きくて、乱暴で、肩をつかんで藁の上から引きずり下ろした。

 わたしに触れる手は、いつも痛かった。

 何かを奪うために伸びてくる手だった。

 でも、この手は。

 何も奪わない。

 何もつかまない。

 ただ、温かいだけだった。


「……もう少し、温めてもいいか」

 低い声がした。

 すぐ近くから。

 わたしは、顔を上げた。

 あの人の顔が、思っていたよりもずっと近くにあった。

 燭台の明かりが、ほんの少しだけ届いている。黒い瞳が、わたしを見ていた。

「お前の手を、もう片方の手で包む」

 あの人は、ゆっくりと言った。

「上から、重ねるだけだ。嫌なら、指を離せばいい」

 わたしは、自分の手を見下ろした。

 あの人の手のひらの上に、わたしの指が三本、乗っている。

 細くて、白くて、骨ばかりの指。

 あの人の手は、わたしの手の倍くらい大きかった。

 わたしは、少しだけ迷った。

 それから、指を離さなかった。

 離さないまま、小さく頷いた。

 あの人の左手が、ゆっくりと動いた。

 わたしの手の甲の、少し上で止まる。

 ほんの一瞬だけ、待つように。

 それから、そっと、重ねられた。


   ◇ ◇ ◇


 冷たかった。

 アルフレッドの両手のあいだにある、小さな手は、驚くほど冷たかった。

 まるで、冬の川に浸けていた石のようだった。

 細かった。

 骨の形が、手のひらにはっきりと伝わってくる。指は小枝のように細く、手首はアルフレッドの親指と人差し指で軽く囲めてしまいそうだった。

 手のひらの皮膚は、ところどころ硬くなっていた。

 石の床に手をつき続けた跡なのだろう。七年間、冷たい牢の床に。

 アルフレッドは、その手を包んだまま、動かなかった。

 握りしめたかった。

 両手でしっかりと包みこんで、自分の熱を全部移してやりたかった。

 けれど、それはしなかった。

 ただ、重ねるだけ。

 あの子が、いつでも指を引き抜けるように。

 あの子の手の上に、自分の手を、そっと置いておくだけ。


 ――十年前。

 アルフレッドは、目を閉じた。

 林檎の木の下で、この子の手を取った。

 花冠の編み方を教えるために。二本の茎を十字に重ねて、こうやって巻きつけて、と。

 あのときの手は、小さくて、温かくて、少しだけ土の匂いがした。

 そして別れの日にも、この手を取った。

 待っていて、必ず迎えに来る、と言いながら。

 あの日の手は、震えていた。

 泣くまいとして、必死に唇を噛んでいた子の手だった。

 ――この手だ。

 同じ手だった。

 十年分、細くなって。十年分、冷たくなって。

 それでも、同じ手だった。

 死亡届を何度読み返しても。冷たい墓石に触れても。

 どうしても信じられなかったことが、今、両手のあいだにあった。

 この子は、生きている。

 ここにいる。

 俺の手の中に。

 アルフレッドは、奥歯を噛みしめた。

 喉の奥から、何かがせり上がってこようとしていた。

 熱いものが、目の奥に滲みかけていた。

 ――今は、だめだ。

 この子の前で、取り乱してはいけない。

 この子は今、ようやく、自分から手を差し出してくれたのだ。

 その手を、自分の感情で揺らしてはいけない。

 アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。

 それから、目を開けた。

 あの子の胸元で、銀のボタンが、燭台のかすかな明かりを受けて光っていた。


   ◇ ◇ ◇


 あの人の手は、大きかった。

 わたしの手は、あの人の両手のあいだに、すっぽりと隠れてしまっていた。

 手のひらには、硬いところがいくつもあった。

 剣を握り続けてきた手なのだと思った。

 地下で錠前を叩き壊した手。お父さまに、剣を向けた手。

 何百人も、何千人も殺したと噂される手。

 それなのに。

 その手は、わたしの手を、まるで割れやすい硝子みたいに包んでいた。

 ぎゅっと握ってはこなかった。

 ただ、そっと、上から重ねているだけ。

 わたしが指を引き抜こうとすれば、きっとすぐに抜ける。

 そのくらいの、やさしい重さだった。

 温かさが、少しずつ、少しずつ、わたしの指に沁みこんでいった。

 かじかんでいた指先が、じんじんと痛みはじめた。

 冷えきったものが、温まっていくときの痛み。

 でも、それは、嫌な痛みではなかった。


 ――人の手は、必ずしも痛みを与えるものではない。

 そんなこと、知らなかった。

 ううん。

 知っていたのかもしれない。

 ずっと昔に。

 ハンナの手は、温かかった。わたしの髪を梳いて、背中をそっと撫でてくれた。

 それから――。

 林檎の木の下で、花冠の編み方を教えてくれた、あの子の手。

 あの手も、温かかった。

 わたしの手を取って、二本の茎を十字に重ねて、こうやって、と教えてくれた。

 わたしは、そこで考えるのをやめた。

 あれは、夢だ。

 十回目の春に、そう決めたのだ。

 あの子の手が温かかったなんて、夢の中のことだ。

 でも――。

 今、わたしの手を包んでいるこの温かさは、夢ではなかった。

 夢では、こんなにじんじんと指先が痛んだりしない。

 夢では、こんなにはっきりと、硬い手のひらの感触が伝わってきたりしない。

 これは、本当だった。

 本当に、温かかった。


 震えが、少しずつ、少しずつ、おさまっていった。

 歯の鳴る音が、いつの間にか止まっていた。

 肩の力が、抜けていった。

 身体の芯が、ほんの少しだけ、温かくなった気がした。

 わたしは、あの人の手の中の自分の手を見下ろした。

 それから、ほんの少しだけ、指を動かした。

 あの人の手のひらを、指先でそっとなぞるように。

 あの人の手が、かすかに強張ったのが分かった。

 でも、動かなかった。

 握り返してこなかった。

 わたしは、そのまま目を閉じた。

 瞼が、ひどく重かった。

 怖い夢から目覚めてから、どれくらい経ったのだろう。

 眠ったら、また、あの夢を見るかもしれない。

 お母さまが、また、牢の中に入ってくるかもしれない。

 でも。

 この手が、ここにあるなら。

 ――ここにいる。

 あの人の声が、耳の奥でよみがえった。

 わたしは、外套の中で小さく丸まって、あの人の手に包まれたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。


   ◇ ◇ ◇


 夜明け前、侍女長セレナは控えの間から、そっと寝所の様子を窺った。

 居間の燭台は、すっかり燃え尽きていた。

 窓の外が、うっすらと白みはじめている。

 寝所の扉は、開いたままだった。

 その奥、衣装棚と壁のあいだの暗がりに、二つの影があった。

 ひとつは、外套にくるまって小さく丸まり、壁にもたれて眠っている娘。

 もうひとつは、その前で膝をつき、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、身じろぎもせずにいる皇帝だった。

 皇帝の両手のあいだに、娘の右手が包まれていた。

 セレナは、息を止めた。

 陛下は、一晩じゅう、あの姿勢のままだったのだろうか。

 膝をついて、両手で娘の手を包んで、眠りもせずに。

 皇帝が、ゆっくりとこちらを振り返った。

 目が合った。

 皇帝は、何も言わなかった。

 ただ、ほんのわずかに首を横に振った。

 来るな、と。

 起こすな、と。

 セレナは、深く一礼して、控えの間に戻った。

 扉を閉めてから、セレナは壁に背中を預けた。

 目元を、指先でそっと押さえた。

 ――陛下も、あの方も。

 どちらも、長い長い夜を越えてきたのだ。

 セレナは、窓の外の白んでいく空を見つめながら、あの二人のために、もう少しだけ夜が明けるのが遅ければいいと思った。


   ◇ ◇ ◇


 目を開けたとき、部屋の中は朝の光でいっぱいだった。

 わたしは、ぼんやりとまばたきをした。

 どこにいるのか、すぐには分からなかった。

 それから、右手が温かいことに気がついた。

 見下ろすと、わたしの手は、大きな二つの手のあいだにあった。

 夜のあいだ、ずっと。

 わたしは、ゆっくりと顔を上げた。

 あの人が、そこにいた。

 膝をついたまま。

 夜と、同じ姿勢で。

 黒い瞳が、わたしを見ていた。

「起きたか」

「……は、はい」

 声が、少しかすれていた。

 あの人の顔には、相変わらず何の表情も浮かんでいなかった。

 でも、その目の下に、うっすらと影ができていた。

 眠っていないのだと、すぐに分かった。

 一晩じゅう、ずっと、こうしていてくれたのだ。

「手を、離すか」

 あの人が、静かに訊いた。

 わたしは、自分の手を見下ろした。

 あの人の手の中で、すっかり温まっていた。

 指先まで、ちゃんと動く。

 わたしは、少しだけ迷った。

 それから、小さく頷いた。

「……はい」

 あの人の手が、ゆっくりと離れていった。

 上に重ねられていた左手が先に。それから、下から支えていた右手が。

 朝の冷たい空気が、手の甲に触れた。

 さっきまでの温かさが、ほんの少しだけ、名残惜しかった。

 そう思った自分に、少しだけ驚いた。

 あの人は、ゆっくりと立ち上がろうとして、ほんの一瞬だけ、よろめいた。

 一晩じゅう膝をついていたせいで、足が痺れていたのだろう。

 壁に手をついて、何事もなかったかのように体勢を立て直す。

 それから、わたしから三歩離れた。

「今日は、昼に来られないかもしれない」

「……はい」

「代わりに、セレナに毒見をさせる」

「……はい」

 あの人は、扉のほうへ歩いていった。

 敷居のところで、一度だけ立ち止まった。

「眠れたか」

 背中を向けたまま、あの人は訊いた。

 わたしは、少しだけ考えた。

 あの夢のあと。

 あの人の手に包まれてから。

 夢は、見なかった。

 一度も。

「……はい」

 嘘ではなかった。

 あの人は、何も言わずに頷いた。

 それから、扉の外へ出ていった。


 ひとりになった部屋の中で、わたしは自分の右手を見つめた。

 まだ、ほんの少しだけ、温かかった。

 わたしは、その手を、左手でそっと包んでみた。

 あの人がしてくれたように。

 上から、重ねるだけ。

 自分の手は、あの人の手ほど温かくはなかった。

 でも、右手に残っていた温かさが、左手にも、ほんの少しだけ移ったような気がした。

「……ありがとう、ございました」

 小さな声で、言ってみた。

 あの人は、もういなかった。

 言葉は、誰もいない部屋の中に、静かに溶けていった。

 次は、ちゃんと、あの人に言えるだろうか。

 わたしは、温かい右手を胸元に当てた。

 服の上から、小さな丸いボタンの形を確かめる。

 そこも、ほんの少しだけ、温かかった。

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