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第36話 皇帝の怒り

「――お身体を、もう少しだけ拝見してもよろしいでしょうか」

 その日の午前、宮廷医師エドガー・ローレンツは、東の客殿の寝所の扉の外から、静かにそう尋ねた。

 中には入らなかった。

 敷居の向こうに膝をついて、娘の返事を待った。

「足首のほかに、腕と、背中を。わたくしは衝立の向こうにおります。侍女長に見ていただいて、わたくしは侍女長から話を聞くだけです。リシェル様に触れることはいたしません」

 寝所の奥から、しばらく返事はなかった。

 侍女長セレナが、エドガーの隣で黙って控えていた。

「お嫌でしたら、お断りくださいませ。今日でなくても構いません。いつでも、構いません」

 エドガーは、そう付け加えた。

 長い沈黙のあとで、小さな声が返ってきた。

「……セレナさんだけ、なら」

 エドガーとセレナは、顔を見合わせた。

「かしこまりました」

 セレナが静かに答えた。

「わたくしだけが、お側に参ります」


   ◇ ◇ ◇


 衝立の向こうで、セレナは長いあいだ黙っていた。

 エドガーは、衝立のこちら側で目を閉じて待っていた。

 やがて、セレナの声がした。

 いつもの侍女長の、落ち着いた声だった。

 けれど、その声の奥が、ほんのかすかに震えているのを、エドガーは聞き逃さなかった。

「……先生。申し上げます」

 セレナは、ひとつずつ、言葉を区切りながら話した。

 エドガーは、目を閉じたまま、それを聞いていた。

 ひとつ聞くたびに、膝の上に置いた手が、少しずつ強張っていった。


   ◇ ◇ ◇


 皇帝の執務室には、その日、宰相クラウスも同席していた。

 窓際の絨毯の上ではなく、皇帝は執務机の椅子に座っていた。

 昨夜は一睡もしていないと、クラウスは聞いていた。それでも皇帝は、朝からいつもどおりに執務を続けていた。目の下にうっすらと影ができている以外は、何ひとつ変わらない顔で。

 エドガーは、机の前に立ち、手元の覚え書きに目を落とした。

「侍女長の見立てと、わたくしがこれまでに拝見したものを合わせて、申し上げます」

「聞こう」

 皇帝は、短く言った。

 エドガーは、眼鏡を指先で押し上げた。

 それから、医師の声で、淡々と話しはじめた。

「まず、右足首。鉄の輪による擦過傷が、何年にもわたって繰り返されております。皮膚が癒えきる前に、また擦れて破れる。その繰り返しで、傷が深く残っております。左足首にも、より古い同様の跡がございます。おそらく、幼い頃に嵌められていたものかと」

 皇帝は、何も言わなかった。

「両腕。上腕の内側に、指の形の痣が古いものから新しいものまで、いくつも。強く掴まれた跡です。左の前腕には、一度折れて、手当てをされないまま癒えた骨がございます。わずかに曲がっております」

 クラウスが、小さく息を呑んだ。

「右手の小指も、同様に。曲がったまま固まっております。ご本人は、もう痛まないとおっしゃいました」

 エドガーは、覚え書きをめくった。

「背中」

 そこで、老医師は一度だけ言葉を切った。

「……細い線状の傷跡が、数えきれないほど。鞭か、細い枝のようなもので打たれた跡です。新しいものではございません。もっとも新しいものでも、二、三年は経っているかと。それ以前のものは、さらに古い。十歳前後から、と推察いたします」

 執務室の空気が、しんと冷えた。

「足の指先には、凍傷の跡。冬の牢で、繰り返し凍えたのでしょう。歯も、何本か欠けております。それから」

 エドガーは、覚え書きから目を上げた。

「お身体の大きさが、十七歳のお年に比べて、明らかに小さい。長く栄養が足りず、育つべき時期に育てなかったものと思われます。これは、今からどれだけ召し上がっても、元には戻りません」

 老医師は、覚え書きを閉じた。

「以上でございます」


 長い、長い沈黙が落ちた。

 クラウスは、主君の顔を見ることができなかった。

 皇帝は、椅子に座ったまま、身じろぎもしなかった。

 膝の上に置いた両手も、少しも動かなかった。

 顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

「……本人は」

 やがて、皇帝が口を開いた。

 低く、静かな声だった。

「何か、言っていたか」

 エドガーは、少しだけ目を伏せた。

「侍女長が背中の傷のことをお尋ねしたとき、リシェル様は、こうおっしゃったそうです」

 老医師は、静かに続けた。

「――お兄さまは、泣かないときだけ打ちました。泣いているときは、打ちませんでした。石が濁るからと」

 クラウスが、思わず目を閉じた。

「それから、こうも」

 エドガーの声が、ほんのかすかにかすれた。

「――だから、ちゃんと泣けば、痛くなかったんです、と」


 皇帝は、何も言わなかった。

 ただ、ゆっくりと、目を閉じた。

「……分かった」

 それだけだった。

「エドガー。手当てできるものは、全部やってくれ。あの子が許す範囲で」

「かしこまりました」

「クラウス。下がっていい」

「陛下、しかし――」

「下がれ」

 クラウスは、口をつぐんだ。

 主君の顔を見た。

 何の表情もない、凪いだ湖のような顔。

 クラウスは、その顔を知っていた。

 三年前の、あの夜と同じ顔だった。

「……かしこまりました」

 クラウスは深く一礼し、エドガーを促して執務室を出た。

 扉を閉める直前、クラウスはもう一度だけ振り返った。

 皇帝は、椅子に座ったまま、目を閉じていた。

 膝の上の両手が、白くなるほど握りしめられていた。


   ◇ ◇ ◇


 扉が閉まった。

 足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。

 アルフレッドは、目を開けた。

 誰もいない執務室だった。

 窓の外では、春の昼下がりの光が、穏やかに庭を照らしていた。

 ――お兄さまは、泣かないときだけ打ちました。

 アルフレッドは、ゆっくりと立ち上がった。

 ――だから、ちゃんと泣けば、痛くなかったんです。

 十歳の子どもが。

 十歳から、十七歳まで。

 泣けば打たれない、と学んだ子どもが。

 泣かなければ、打たれる。

 泣けば、石が生まれる。石が生まれれば、家が喜ぶ。

 そうやって、あの子は、自分の痛みを避ける方法を、自分の涙を差し出す方法と同じものとして覚えたのだ。

 骨が折れても、手当てもされずに。

 冬の牢で、指先が凍えても。

 アルフレッドは、執務机の前に立った。

 帝国の主が使う、厚い樫の一枚板の机。三代前の皇帝の代から、この執務室に据えられてきたものだった。

 ――あの子は、言った。

 昨夜、俺の手に包まれて、震えが止まって、眠った。

 その手の、小指が曲がっていたことに。

 前腕の骨が曲がっていたことに。

 俺は、気づかなかった。

 あの手を包みながら、ただ、温かいことだけを願っていた。

 あの手が、何をされてきたのかも知らずに。


 アルフレッドの右の拳が、振り下ろされた。

 鈍い音が、執務室に響いた。

 樫の板が、悲鳴のような音を立てて軋んだ。

 もう一度。

 積み上げられていた書類が、床に崩れ落ちた。インク壺が転がり、黒い液体が絨毯の上に広がった。

 もう一度。

 三代の皇帝が使ってきた机の天板に、深い亀裂が走った。

 もう一度。

 亀裂が裂けた。

 厚い樫の一枚板が、真ん中から、二つに割れた。

 机の脚が傾いて、片側が崩れ落ちた。

 轟音が、執務室を揺らした。

 アルフレッドは、崩れた机の残骸の前に立ち尽くしていた。

 肩で、大きく息をしていた。

 右手の拳から、血が滴っていた。皮膚が裂け、木の破片がいくつも刺さっていた。

 痛みは、感じなかった。

 何も、感じなかった。

 ただ、腹の底で、まだ冷たい炎が燃えていた。

 ヴァレンティアの屋敷を、今すぐ灰にしてしまいたかった。

 あの兄を。あの母を。あの父を。

 地下に降りて、あの子が受けたものを、ひとつ残らず返してやりたかった。

 骨を折り、鞭で打ち、冬の牢に繋いで。

 ――お前が嫌がることはしない。

 地下で、あの子に言った言葉がよみがえった。

 やめて、ください。

 わたしのせいで、誰かが死ぬのは、いやです。

 あの子は、そう言ったのだ。

 自分を地下に繋いだ父親の、命乞いを。

 アルフレッドは、血の滴る拳を、ゆっくりと開いた。

 目を閉じた。

 深く、息を吸った。

 吐いた。

 もう一度、吸った。


「――陛下っ!」

 扉が、乱暴に開け放たれた。

 騎士団長ガレスが、剣の柄に手をかけて飛びこんできた。

 ガレスは、執務室の中を見て、足を止めた。

 真っ二つに割れた机。床に散らばった書類。絨毯に広がるインク。

 そして、その真ん中に立つ皇帝と、その右手から滴る血。

「……陛下」

「何でもない」

 アルフレッドは、目を開けた。

 顔には、もう何の表情も浮かんでいなかった。

「机が古くなっていた。新しいものを用意させろ」

 ガレスは、しばらく黙って主君を見つめていた。

 割れた机を見た。血の滴る拳を見た。

 それから、何も訊かずに、深く頭を下げた。

「……かしこまりました。医師を呼びます」

「エドガーはいい。あいつには、あの子のほうを頼んである」

「では、別の者を」

「要らない」

 アルフレッドは、机の残骸から布を一枚拾い上げて、右手に巻きつけた。

「ガレス」

「はっ」

「今日のことは、誰にも言うな」

 アルフレッドは、窓の外を見た。

 東の客殿のほうを。

「特に、あの子には」


   ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、あの人が来た。

 お昼には来られないかもしれない、と朝に言っていた。本当に、お昼には来なかった。毒見は、セレナさんがしてくれた。

 夕方の、扉を叩く音。

 低くて、重たくて、短い。

「入っていいか」

「……はい」

 扉が開いて、あの人が入ってきた。

 盆は持っていなかった。

 あの人は、部屋の真ん中の、いつもの場所に座った。

 わたしは、隅の敷物の上から、あの人を見た。

 いつもと同じだった。

 何の表情も浮かんでいない顔。黒い瞳。

 目の下に、少しだけ影があった。昨夜、眠らなかったせいだと思った。

 それから――。

 わたしは、あの人の右手に目を留めた。

 白い布が、きつく巻かれていた。

 拳のところに、うっすらと赤いものが滲んでいた。

 わたしは、息を止めた。

 昨夜、わたしの手を包んでくれた手だった。

 あの人は、わたしの視線に気づいたようだった。

 右手を、膝の陰にそっと隠した。

「……机に、ぶつけた」

 あの人は、短くそう言った。

 それだけだった。

 わたしは、何も言えなかった。

 机に、ぶつけた。

 こんなふうに、血が滲むほど。

 訊きたいことがあった。

 どうして、とか。

 痛くないですか、とか。

 でも、言葉が喉の奥でつかえて、出てこなかった。

 皇帝に、そんなことを訊いていいのかどうか、分からなかった。


 あの人は、膝の陰に右手を隠したまま、窓の外を見ていた。

 何も言わなかった。

 何をしに来たのかも、言わなかった。

 ただ、そこに座っていた。

 わたしは、外套の端を握りしめた。

 今朝、エドガー先生が来た。

 セレナさんに、腕と背中を見てもらった。

 背中の傷のことを訊かれて、わたしは、本当のことを言った。

 お兄さまは、泣かないときだけ打った、と。

 セレナさんは、何も言わなかった。

 ただ、わたしの背中に、そっと上着をかけてくれた。

 その手が、少しだけ震えていた。

 ――あの人も、聞いたのだろうか。

 エドガー先生から。セレナさんから。

 わたしの背中の傷のこと。腕の骨のこと。

 聞いたのだとしたら、あの人は、どう思ったのだろう。

 わたしは、あの人の顔を見た。

 いつもと同じ、何の表情もない顔。

 怒っているようには、見えなかった。

 悲しんでいるようにも、見えなかった。

 でも。

 膝の陰に隠された、白い布の巻かれた右手。

 赤く滲んだ、拳のところ。

 ――机に、ぶつけた。

 どうしてだろう。

 あの手が、昨夜、わたしの手をあんなにやさしく包んでくれた手が、血を流している。

 それが、ひどく、胸に痛かった。


「……あの」

 気がつくと、声が出ていた。

 あの人が、こちらを見た。

「昨夜は」

 わたしは、外套の端を握りしめた。

 朝、誰もいない部屋で、一度だけ言ってみた言葉。

 次は、ちゃんと言えるだろうか、と思った言葉。

「……ありがとう、ございました」

 小さな声だった。

 でも、ちゃんと、あの人に向かって言えた。

 あの人は、しばらく黙っていた。

 黒い瞳が、少しだけ揺れたように見えた。

「……ああ」

 それだけだった。

 あの人は、立ち上がった。

 右手を、背中のほうへ回して。

 わたしから見えないように。

「明日は、昼に来る」

「……はい」

「来ていいか」

「……来ても、いいです」

 あの人は、小さく頷いて、扉の外へ出ていった。

 背中に回された右手の、白い布が、扉の向こうに消えていくのを、わたしはずっと見つめていた。

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