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第37話 セレナの櫛

わたしの髪は、ひどく絡まっていた。

 自分でも、分かっていた。

 地下にいたあいだ、一度も梳いたことがなかった。櫛なんて持っていなかったし、持っていたとしても、きっと使い方を忘れていたと思う。

 肩から背中へ、伸び放題に伸びた髪は、あちこちで固く絡まりあって、まるで乾いた藁の束のようになっていた。指を通そうとしても、途中でひっかかって、それ以上進まない。

 皇宮に来てから、毎朝、セレナさんがお湯を張った洗面器を持ってきてくれた。わたしはそれで顔を洗って、手を洗って、それから濡らした布で首や腕を拭いた。

 でも、髪だけは、どうしようもなかった。

 鏡を見るのが、少し怖かった。

 壁際の化粧台には、楕円の大きな鏡がついていた。一度だけ、そっと前に立って覗きこんでみたことがある。

 そこに映っていたのは、痩せこけて、青白くて、ぼさぼさの髪に埋もれた、知らない女の子の顔だった。

 わたしは、すぐに目をそらした。

 それきり、化粧台には近づいていなかった。


   ◇ ◇ ◇


「リシェル様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 その日の午後、セレナさんが言った。

 いつものように、わたしから少し離れたところに膝をついて。

「……はい」

「御髪を、梳かせていただけませんか」

 わたしは、思わず自分の髪に手をやった。

 ごわごわと固まった、絡まりの塊。

「だいぶ絡まっておりますので、少しずつほどいてまいります。時間はかかりますが、痛くないように、ゆっくりと」

 セレナさんは、エプロンのポケットから、何かを取り出した。

 櫛だった。

 飴色の、木でできた櫛。目が粗いのと、細かいのと、二本。持ち手のところが少しすり減っていて、長いあいだ大切に使われてきたもののように見えた。

「お嫌でしたら、お断りくださいませ」

 セレナさんは、いつものように付け加えた。

 わたしは、セレナさんの手の中の櫛を見つめた。

 ――ハンナ。

 ふいに、その名前が浮かんだ。

 ずっと昔、離れの部屋で、ハンナがわたしの髪を梳いてくれた。毎朝、窓辺の椅子に座らせて。櫛を動かしながら、ときどき、小さな声で歌を口ずさんでいた。

 わたしは、その時間が好きだった。

 あの頃は、髪がこんなふうに絡まったことなんて、一度もなかった。


「……あの」

 わたしは、膝の上で手を握りしめた。

「それは……お代は」

 言いかけて、口をつぐんだ。

 お代は、いりません。

 セレナさんは、きっとそう言う。部屋のときも、食事のときも、ドレスのときも、そうだった。

 勅令もある。わたしに涙を求めることは、皇帝に剣を向けるのと同じだと。

 分かっている。

 分かっているのに、どうしても訊かずにはいられなかった。

 誰かがわたしのために何かをしてくれるとき、その代わりに何を差し出せばいいのか。

 それが分からないと、どうしても落ち着かなかった。

 セレナさんは、少しだけ首をかしげた。

 それから、穏やかに微笑んだ。

「お代は、いただきません」

「……でも」

「これは、わたくしの仕事でございますから」

 わたしは、まばたきをした。

「仕事、ですか」

「はい」

 セレナさんは、手の中の櫛を軽く持ち上げた。

「お客様の御髪を整えるのは、侍女の仕事です。わたくしはこの宮殿で二十五年、侍女として仕えてまいりました。その仕事に対して、陛下から毎月お給金をいただいております」

 セレナさんは、静かに続けた。

「ですから、わたくしの仕事の対価は、もう陛下からいただいているのです。リシェル様から、改めて何かをいただく必要はございません」


 わたしは、セレナさんの言葉を、頭の中でゆっくりと転がした。

 仕事。

 お給金。

 陛下から、もういただいている。

 ――だから、わたしは払わなくていい。

 それは、今まで聞いたどんな説明とも違っていた。

 お代はいりません、と言われても、わたしにはその理由が分からなかった。理由が分からないから、どこかに隠れた代価があるのではないかと怖かった。

 でも、これは違う。

 セレナさんは、働いている。

 働いた分、お給金をもらっている。

 だから、わたしの髪を梳くのは、セレナさんにとって「仕事」で、その対価はもう別のところから払われている。

 ちゃんと、つり合いが取れている。

 どこにも、隠れた代価がない。

 ――それなら。

 それなら、分かる。

 わたしにも、分かる。

「……仕事、なら」

 わたしは、小さな声で言った。

「わたしは、泣かなくて、いいんですね」

 セレナさんの微笑みが、ほんの一瞬だけ、揺れたように見えた。

 けれどすぐに、また穏やかな顔に戻った。

「はい。泣かなくて、よろしいのです」

 わたしは、少しだけ息を吐いた。

 胸の奥の、どこかが、ほんの少しだけ、ほどけたような気がした。

「……お願い、します」


   ◇ ◇ ◇


「では、後ろに座らせていただいても、よろしいでしょうか」

 セレナさんがそう言ったとき、わたしの身体は勝手に強張った。

 後ろ。

 背中のほう。

 見えないところ。

 ――お兄さまは、泣かないときだけ打ちました。

 背中の傷は、いつも後ろから来た。振り返る前に、細い枝が空を切る音がして、それから焼けるような痛みが走った。

 わたしは、外套の前をぎゅっと握りしめた。

 セレナさんは、何も言わなかった。

 わたしの顔を、静かに見ていた。

 それから、ゆっくりと立ち上がって、化粧台のほうへ歩いていった。

 化粧台の前には、小さな腰掛けがひとつあった。セレナさんはその上に載っていた綿入れの座布団を取りのけて、脇に置いた。

 あとに残ったのは、飾り気のない、木の座面だけだった。

「こちらに、お掛けになってみませんか」

 セレナさんは、腰掛けの横に立って言った。

「柔らかいものは、外しました。ただの木の台です。沈みません」

 わたしは、腰掛けを見つめた。

 あの日の、淡い緑色の柔らかい椅子とは違った。

 硬そうな、木の台。

「鏡の前に座っていただければ、わたくしの手が鏡に映ります。何をしているか、いつでも見ていただけます。それから――」

 セレナさんは、腰掛けの右斜め後ろのあたりを指さした。

「真後ろではなく、こちらの、少し横に立たせていただきます。鏡の中に、わたくしの姿もずっと映っているはずです」

 わたしは、長いあいだ迷った。

 鏡を見るのは、怖かった。

 あの知らない女の子の顔を、また見なければならない。

 でも、背中の後ろで何が起きているのか分からないのは、もっと怖かった。

 セレナさんの手を見るためなら。

 わたしは、ゆっくりと敷物の上から立ち上がった。

 外套を肩にかけたまま、化粧台の前まで歩いていく。

 木の腰掛けに、そっと手を触れてみた。

 硬かった。ひんやりとしていた。

 押しても、少しも沈まなかった。

 わたしは、おそるおそる、その上に腰を下ろした。

 沈まなかった。

 身体が、ちゃんと、そこで止まった。

 この宮殿に来た日、柔らかい椅子に腰を下ろして、すぐに立ち上がってしまった。

 床のほかの場所に、ちゃんと座っていられたのは、それが初めてだった。

 顔を上げると、楕円の鏡の中に、ぼさぼさの髪に埋もれた、痩せた女の子の顔が映っていた。

 その肩の向こうに、セレナさんの姿が見えた。

「……はい」

 わたしは、鏡の中のセレナさんに向かって、小さく頷いた。

 セレナさんは、わたしの右斜め後ろに、静かに立った。


   ◇ ◇ ◇


 セレナさんは、櫛をすぐには使わなかった。

 まず、指で。

 絡まった髪の、いちばん下のほうを、ほんの一束だけ指先でつまんだ。

「毛先から、ほどいてまいります」

 鏡の中で、セレナさんの指が動くのが見えた。

 ゆっくりと。とても、ゆっくりと。

 絡まった髪を、一本一本、指先でほぐしていく。

 固く結ばれたところは、無理に引っ張らずに、少しずつ、少しずつ、隙間を広げていく。

 痛くなかった。

 引っ張られる感じも、ほとんどしなかった。

 ほどけた一束を、セレナさんは目の粗いほうの櫛で、そっと梳いた。

 毛先のほうから、少しだけ。

 それから、もう少し上から。

 さら、と。

 かすかな音がした。

 ――ハンナの、櫛の音だ。

 わたしは、思わず目を閉じそうになった。

 鏡の中のセレナさんの手を見ていなければいけないのに。

 でも、その音が、あまりにも懐かしくて。

「痛みますか」

 セレナさんが、静かに訊いた。

 わたしは、首を横に振った。

「……痛く、ないです」

 本当だった。

 嘘ではなかった。


 どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。

 窓から差しこむ光が、少しずつ傾いていった。

 セレナさんは、ひと束ずつ、ひと束ずつ、根気よく髪をほどいていった。

 ときどき、どうしてもほどけない固まりがあった。

 そのたびに、セレナさんは手を止めて、わたしに訊いた。

「ここは、もうほどけそうにございません。小さく、鋏で切らせていただいてもよろしいでしょうか。爪の先ほどだけです」

 わたしは、そのたびに、鏡の中の鋏を見た。

 小さな、銀の鋏。

 セレナさんの指が、固まりの根もとをそっと押さえている。

 わたしの身体には、触れないように。

「……はい」

 しゃき、と小さな音がした。

 絡まりの固まりが、ひとつ、床の上に落ちた。

 セレナさんは、それを拾って、エプロンのポケットにしまった。


「……ハンナも」

 気がつくと、声が出ていた。

「ハンナも、梳いてくれました。昔」

 鏡の中で、セレナさんの手が、ほんの一瞬止まった。

「ハンナ、と申しますと」

「乳母です。わたしが、小さかった頃の」

 わたしは、鏡の中の自分の顔を見つめた。

「毎朝、窓のそばに座らせて。歌を、歌いながら」

「左様でございましたか」

 セレナさんの手が、また動きはじめた。

 さら、さら、と櫛の音。

「どのような方でしたか」

「……あまり、お話をしない人でした」

 わたしは、少しだけ考えた。

「でも、やさしかったです。わたしが泣くと、いつも、布で顔を押さえてくれて」

 ――涙が、石になる前に。

 そのことは、言わなかった。

 言わなくても、いいような気がした。

「いつの間にか、いなくなってしまいました」

 セレナさんは、何も言わなかった。

 ただ、櫛を動かす手が、ほんの少しだけ、ゆっくりになった。


   ◇ ◇ ◇


 陽が傾いて、窓の外が茜色に染まりはじめた頃、セレナさんの手が止まった。

「――終わりました」

 わたしは、鏡を覗きこんだ。

 そこに、女の子がいた。

 痩せて、青白い顔をしていた。それは、さっきと同じだった。

 でも、髪が違った。

 肩から背中へ、まっすぐに流れていた。

 ところどころ、切った跡で少し短くなっているところがあった。毛先は傷んでいて、ぱさぱさしていた。けれど、もう固まりはひとつもなかった。指を通すと、するりと、最後まで抜けた。

 淡い、灰色がかった金色の髪だった。

 こんな色だったのだと、わたしは初めて知ったような気がした。

「……これが、わたし」

 小さな声が、こぼれた。

 鏡の中の女の子が、同じように唇を動かした。

「はい」

 セレナさんが、静かに言った。

「リシェル様でございます」

 わたしは、鏡の中の自分を、長いこと見つめていた。

 知らない女の子ではなかった。

 ぼさぼさの髪に埋もれた、怖い顔ではなかった。

 痩せてはいるけれど。青白いけれど。

 これは、わたしだった。


「明日も、梳かせていただけますか」

 セレナさんが、櫛をエプロンのポケットにしまいながら言った。

「一度ほどけば、毎日少し梳くだけで済みます。お嫌でなければ」

 わたしは、鏡の中のセレナさんを見上げた。

「……それも、仕事ですか」

「はい。仕事でございます」

 セレナさんは、穏やかに微笑んだ。

「わたくしの仕事は、リシェル様がこの宮殿で、少しでも心地よくお過ごしになれるようにすることです。それで、陛下からお給金をいただいております」

「……それなら」

 わたしは、セレナさんを見上げた。

「お願い、します」

 セレナさんは、深く一礼した。

 それから、立ち上がって、扉のほうへ歩いていった。

 扉の前で、ふと、振り返った。

「リシェル様」

「……はい」

「わたくしは、十四の春に、この宮殿へ奉公に上がりました」

 セレナさんは、静かに言った。

「最初は、洗い場の床磨きでございました。毎日、膝をついて石の床をこすって。手は、ひび割れて血が滲んで。それでも、働いた分は、ちゃんとお給金になりました」

 わたしは、黙ってセレナさんを見ていた。

「働けば、報われる。わたくしは、そういう世界で生きてまいりました」

 セレナさんは、少しだけ目を細めた。

「いつか、リシェル様にも、そういう世界があることを、知っていただけたら嬉しく存じます」

 それだけ言って、セレナさんは扉の外へ出ていった。


   ◇ ◇ ◇


 ひとりになった部屋で、わたしは自分の髪に指を通した。

 するり、と抜けた。

 何度やっても、最後まで、するりと抜けた。

 ――働けば、報われる。

 セレナさんの言葉が、耳の奥に残っていた。

 働く。

 わたしは、働いたことがなかった。

 泣くことのほかに、何かをして、何かをもらったことがなかった。

 泣けば、パンがもらえた。

 泣かなければ、何ももらえなかった。

 それが、わたしの知っている、たったひとつの「報われ方」だった。

 でも、セレナさんは。

 床を磨いて、お給金をもらった。

 髪を梳いて、お給金をもらっている。

 涙ではなく。

 自分の手で、何かをして。

 ――そういう世界が、あるのだろうか。

 わたしにも、いつか。

 涙ではないもので、何かを返せる日が来るのだろうか。

 わたしは、木の腰掛けに座ったまま、化粧台の鏡を見つめた。

 鏡の中の女の子が、まっすぐな髪の向こうから、こちらを見ていた。

 まだ、分からなかった。

 でも、その問いは、地下のどんな問いとも違って、少しも冷たくなかった。

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