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第38話 初めてのおかわり

その朝のパンは、いつもと少しだけ違っていた。

 セレナさんが卓の上に置いた籠の中で、白いパンがひとつ、湯気を立てていた。

 エドガー先生の木の板に、わたしは毎朝、パンの横の丸にひとつだけ印をつけていた。だから、籠の中のパンも、いつもひとつだけだった。

 でも、今朝のパンは、形が違った。

 いつもの丸いパンよりも、少しだけ小さくて、ふっくらと丸く膨らんでいて、表面がつやつやと薄い金色に光っていた。

「料理長が、今朝は新しいパンを焼いてみたと申しておりました」

 セレナさんが言った。

「牛乳と、少しのバターと、ほんの少しの蜂蜜を練りこんだものだそうです。柔らかく、胃にもやさしいようにと」

 わたしは、籠の中のパンを見つめた。

 蜂蜜。

 その言葉を聞いて、ほんの少しだけ身体が強張った。

 ――今度は焼き菓子もつけてあげましょうか。蜂蜜のたっぷり入ったものよ。

 お母さまの声が、遠くでよみがえった。

 でも、それは本当に遠くだった。

 前よりも、ずっと遠く。

 セレナさんは、いつものように「どうぞ、お召し上がりくださいませ」とだけ言って、少し離れたところに控えた。


 わたしは、化粧台の木の腰掛けに座っていた。

 セレナさんに髪を梳いてもらうようになってから、朝はこの腰掛けに座るようになっていた。硬くて、沈まなくて、背中の後ろの壁が鏡に映る場所。

 卓の上の籠から、パンを取った。

 温かかった。

 指先に触れた表面が、驚くほどしっとりと柔らかかった。

 ちぎってみる。

 ふわり、と白い湯気が立った。

 中は、雲みたいに白くて、柔らかかった。

 甘い匂いがした。

 牛乳の匂い。バターの匂い。それから、ほんのかすかな、蜂蜜の匂い。

 わたしは、ちぎったひとかけらを、口に入れた。


 ――あ。

 口の中で、パンがほどけた。

 噛む前に、とろけるみたいに。

 ほんのりと甘かった。しょっぱくなくて、苦くなくて、ただ、やさしく甘かった。

 バターの香りが、鼻の奥に抜けていった。

 飲みこむと、温かいものがお腹の底に落ちていって、そこから身体じゅうにふわりと広がっていくような気がした。

 わたしは、もうひとかけら、ちぎった。

 口に入れる。

 また、ほどける。

 また、甘い。

 気がつくと、わたしは夢中でパンをちぎっていた。

 ひとかけら。またひとかけら。

 急いで食べてはいけないことは、知っていた。地下で、何日も食べられなかったあとに急いで食べると、お腹が痛くなった。だから、ゆっくり。ゆっくり。

 でも、手が止まらなかった。

 ひとかけら。またひとかけら。

 そして――。

 手の中に、何もなくなった。

 わたしは、空っぽになった手のひらを見下ろした。

 パンは、なくなっていた。

 ひとつだけの、パン。


 籠の中は、空っぽだった。

 わたしは、それをじっと見つめていた。

 お腹は、いっぱいではなかった。

 ふわりと温かくはなっていたけれど、まだ、もう少しだけ、入りそうな気がした。

 ――もう少し、食べたい。

 その気持ちが、胸の奥にぽつんと浮かんだ。

 わたしは、慌ててそれを押しこめようとした。

 だめだ。

 板には、ひとつと印をつけた。ひとつと決めたのは、わたしだった。

 決めた分だけ、厨房は用意する。エドガー先生は、そう言った。

 それなのに、もっと欲しいなんて。

 決めたことを、自分で破るなんて。

 それに、たくさん食べたら。

 お腹がいっぱいになったら。

 明日、何かが来るかもしれない。

 わたしは、膝の上で手を握りしめた。


 ――嫌なら、嫌と言え。分からなければ、分からないと言え。

 あの人の声が、よみがえった。

 あの人は、そう言った。

 嫌なことを、嫌と言っていい。

 でも。

 欲しいものを、欲しいと言っていいとは、言わなかった。

 ――言わなかった、だろうか。

 わたしは、目を閉じた。

 あの人が言ったのは、断っていい、ということだった。嫌だと言っていい、ということだった。

 欲しいと言うのは、それとは違う。

 嫌だと言うのは、何かを手放すこと。

 欲しいと言うのは、何かを求めること。

 求めたら、その代わりに何かを差し出さなければならない。

 地下では、そうだった。

 ――お腹、空いているでしょう。ほら、あなたのためにちゃんと用意してあるのよ。

 食べたいと思った瞬間に、お母さまはいつも、泣いてちょうだいと言った。

 欲しがることは、差し出すことの始まりだった。


 でも。

 わたしは、目を開けた。

 セレナさんが、少し離れたところに控えていた。

 わたしのほうを見ないように、窓の外を見ていた。

 あの人と、同じように。

 わたしが何かをするとき、見られていると落ち着かないことを、知っているから。

 ――お茶を断っても、パンはあった。

 あの日、そう思った。

 断っても、何も取り上げられなかった。

 だったら。

 欲しいと言っても、何も取り上げられないのだろうか。

 分からなかった。

 確かめたことがなかった。

 ――確かめなければ、信じられない。

 お茶を断る前の夜、わたしはそう思った。

 今も、同じだった。

 わたしは、空っぽの籠を見つめた。

 口の中に、まだほんのりと、甘い味が残っていた。

 バターの香り。牛乳の匂い。ほどけるような、柔らかさ。

 もう一度、あれを食べたかった。

 もうひとかけらだけでも。

 わたしは、唇を湿らせた。

 心臓が、どくどくと鳴っていた。

 お茶を断ったときよりも、ずっとうるさかった。


「……あ、あの」

 声が、震えた。

 セレナさんが、窓の外からこちらへ顔を向けた。

「はい」

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

 爪が、手のひらに食いこんだ。

 言わなければ。

 言わなければ、確かめられない。

「……もう、一つ」

 ほとんど聞こえないくらいの声だった。

 自分でも、聞き取れないくらいの。

「もう一つ……もらえますか」


 部屋の中が、静かになった。

 わたしは、ぎゅっと目をつぶった。

 言ってしまった。

 欲しいと、言ってしまった。

 決めた分よりも、たくさん。

 来る、と思った。

 何が来るのかは分からなかった。

 セレナさんの困った顔か。決めた分だけと申し上げましたでしょう、という声か。

 それとも――。

「かしこまりました」

 穏やかな声だった。

 わたしは、おそるおそる目を開けた。

 セレナさんが、いつもと同じ顔で、静かに一礼していた。

 驚いた顔も、喜んだ顔もしていなかった。

 ただ、いつもどおりに。

「すぐにお持ちいたします。少々お待ちくださいませ」

 セレナさんは、空の籠を手に取って、扉の外へ出ていった。

 扉が、静かに閉まった。


 わたしは、閉まった扉を見つめていた。

 かしこまりました。

 それだけだった。

 何も、言われなかった。

 決めた分だけと、言われなかった。

 代わりに何を差し出せとも、言われなかった。

 わたしは、胸元に手を当てた。

 心臓が、まだどくどくと鳴っていた。

 怖かった。

 まだ、怖かった。

 セレナさんが戻ってくるまでのあいだ、何か別のものを持ってくるのではないかと、ずっと怖かった。

 でも、その怖さの奥に。

 ほんの少しだけ、何か別のものがあった。

 あのパンを、もう一度食べられるかもしれない。

 そう思うと、胸の奥が、ほんのかすかに、くすぐったかった。


   ◇ ◇ ◇


 厨房の扉を開けた侍女長セレナを見て、料理長ハインツは手を止めた。

 セレナの手には、空の籠があった。

 朝の籠。

 いつもなら、もう少し遅い時間に、盆と一緒に下げられてくるはずの籠。

「……侍女長」

 ハインツは、竈の前から振り返った。

「口に合わなかったか」

 新しいパンだった。

 昨夜、遅くまでかかって配合を考えた。牛乳の量、バターの量、蜂蜜の量。甘すぎず、重すぎず、それでいて、ひと口で「おいしい」と思えるように。

 あの方が、蜂蜜という言葉にどう反応するかも分からなかった。だから、ほんの少しだけ。香りがするかしないか、くらいに。

 侍女長が、こんなに早く籠を持って戻ってきたということは。

 セレナは、静かに首を横に振った。

「いいえ」

 それから、厨房の中を見回した。

 若い料理人たちが、それぞれの持ち場で手を止めて、こちらを見ていた。

 セレナは、ほんの少しだけ間を置いた。

 それから、いつもの侍女長の声で、淡々と言った。

「リシェル様が」

 厨房の中が、静まり返った。

「――もう一つ、と」


 誰も、声を出さなかった。

 出せなかったのかもしれない。

 セレナは、三日前に厨房の者たちにも言い含めていた。もしもリシェル様が何かを求められても、決して大げさに騒いではいけない。当たり前のことにしてさしあげなければ、と。

 だから、誰も声を出さなかった。

 声を出さないまま、若い料理人のひとりが、両手で口を押さえてその場にしゃがみこんだ。

 別のひとりが、隣の料理人の肩をばしばしと叩いた。叩かれたほうは、叩き返しもせずに、ただ天井を見上げて目元を袖で拭っていた。

 鍋をかき混ぜていた見習いの少年は、木べらを握りしめたまま、声を立てずに小さく飛び跳ねていた。

 厨房の中に、声のない歓声が満ちていた。

「……静かにしろ」

 ハインツが、低い声で言った。

 誰も、何も言っていなかったのに。

 料理長は、竈の脇の棚に歩いていった。

 そこには、今朝焼いたパンが、布をかけて並べてあった。

 十二個。

 あの方が、いつか二つ目を求めることがあればと、毎朝余分に焼いておいたものだった。

 今まで、一度も使われたことがなかった。

 毎朝、余ったパンは、厨房の者たちの朝食になった。

 ハインツは、布をめくった。

 十二個のパンを、ひとつずつ見ていった。

 焼き色。膨らみ。表面のつや。

 それから、いちばん真ん中の、いちばんきれいに膨らんだひとつを、両手でそっと取り上げた。

「……温め直す。少しだけ待て」

 ハインツは、竈のほうへ向き直った。

 その大きな背中が、ほんのかすかに、震えていた。

 セレナは、それを見ないようにして、厨房の入口で静かに待った。


   ◇ ◇ ◇


 セレナさんが戻ってきたのは、思っていたよりもずっと早かった。

 籠の中に、パンがひとつあった。

 さっきと同じ、つやつやと薄い金色に光る、ふっくらとしたパン。

 まだ、湯気が立っていた。

「お待たせいたしました」

 セレナさんは、籠を卓の上に置いた。

 それだけだった。

 他には、何も持ってこなかった。

 何も、言わなかった。

「料理長が、温め直してくれました」

 セレナさんは、いつものように少し離れたところに控えて、また窓の外を見た。

 わたしは、籠の中のパンを見つめた。

 本当に、来た。

 もう一つ、と言ったら。

 本当に、もう一つ、来た。

 わたしは、震える手でパンを取った。

 温かかった。

 さっきと、同じだった。

 ちぎって、口に入れる。

 ほどける。

 甘い。

 さっきと、同じ味だった。

 何も、変わっていなかった。

 欲しいと言ったのに。

 決めた分よりも、たくさん求めたのに。

 パンは、やっぱり、甘くて柔らかくて、少しも苦くなかった。


 わたしは、今度はゆっくりとパンを食べた。

 ひとかけらずつ。

 ちゃんと、味わいながら。

 最後のひとかけらを口に入れたとき、お腹の中が、ふわりと温かくいっぱいになっていた。

 怖かった。

 お腹がいっぱいになるのは、まだ怖かった。

 でも。

「……おいしかった、です」

 小さな声で、言った。

 セレナさんが、窓の外からこちらを見た。

「料理長に、伝えてもらえますか」

 セレナさんは、ほんの一瞬だけ、目を細めた。

 それから、深く一礼した。

「必ず、お伝えいたします」


   ◇ ◇ ◇


 その日の昼、あの人はいつものように来た。

 盆を置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめて、部屋の真ん中に座った。

 わたしはスープを十口飲んで、パンをひとつ食べた。

 お昼のパンは、いつもの丸いパンだった。

 あの人は、窓の外を見ていた。

 何も言わなかった。

 朝のことを、知っているのかどうかも分からなかった。

 帰り際、あの人はいつものように言った。

「明日も、来ていいか」

「……来ても、いいです」

 あの人は、小さく頷いた。

 扉の取っ手に手をかけたところで、ふと、動きを止めた。

「リシェル」

「……はい」

「料理長が、泣いていたそうだ」

 わたしは、目をまたたいた。

 あの人は、振り返らなかった。

 背中を向けたまま、静かに言った。

「おいしかった、と伝えたら、厨房の隅で泣いていたと。ガレスが見ていた」

 それだけ言って、あの人は扉の外へ出ていった。

 扉が閉まった。

 わたしは、閉まった扉を見つめていた。

 料理長が、泣いていた。

 わたしが、おいしかったと言ったから。

 ――泣く。

 わたしの知っている「泣く」は、いつも、何かを差し出すためのものだった。

 悲しくて、苦しくて、痛くて、それで石が生まれて、誰かがそれを拾っていく。

 でも、料理長は。

 わたしが「おいしかった」と言っただけで、泣いたのだという。

 悲しかったからではなく。

 苦しかったからではなく。

 ――そういう涙も、あるのだろうか。

 わたしは、胸元のボタンを服の上から握りしめた。

 分からなかった。

 でも、その問いは、なぜだか少しだけ、温かかった。


   ◇ ◇ ◇


 次の朝、セレナは東の客殿から戻ると、まっすぐ厨房へ向かった。

 手には、小さな木の板が握られていた。

 料理長ハインツは、竈の前で、パンの焼き加減を見ていた。

 セレナが差し出した板を受け取り、覗きこむ。

 スープの横に、印が二つ。

 パンの横に――。

 ハインツは、板を目に近づけた。

 パンの横の、ふたつ目の丸。

 そこに、はっきりとした印がついていた。

 ほとんど見えないくらいの点ではなく。

 ちゃんと、丸く塗りつぶされた印が。

 ハインツは、しばらく黙って板を見つめていた。

 それから、板をセレナに返して、竈のほうへ向き直った。

「……二つだな」

「ええ」

「分かった」

 料理長は、それだけ言って、焼き上がったパンを窯から取り出した。

 いちばんきれいに膨らんだ二つを、両手でそっと籠に入れる。

 大きな背中は、今日は少しも震えていなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、いつもより胸を張っているように見えた。

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