第39話 笑い方を忘れた二人
「それでですね、リシェル様。庭師のおじいさんが、薔薇の手入れをしてたら、急に鳩が飛んできて」
昼前の掃除をしながら、ミーナさんが話していた。
窓の硝子を拭く手を止めずに、ときどき、こちらを振り返って。
「おじいさんの帽子の上に、ちょこんと止まったんです。で、おじいさん、気づかないまま、ずーっと薔薇の枝を切ってて」
ミーナさんは、くすくすと笑いだした。
「そしたら鳩が、帽子の上で、くるっくーって鳴いて。おじいさん、びっくりして、鋏を持ったまま、その場でくるっと一回転しちゃって」
ミーナさんは、とうとう雑巾を握ったまま、お腹を押さえて笑いはじめた。
「鳩は全然逃げなくて、おじいさんの頭の上で、一緒にくるっと回ってたんですよ。もう、庭にいた人みんな大笑いで」
わたしは、化粧台の木の腰掛けに座って、その話を聞いていた。
庭師のおじいさん。帽子の上の鳩。一緒にくるっと回る。
頭の中で、その光景を思い浮かべてみた。
――おかしい、と思った。
たぶん、おかしい話なのだと思った。
ミーナさんが、あんなに楽しそうに笑っているのだから。
わたしも、笑わなければ。
そう思って、口の端を、少しだけ持ち上げてみた。
ミーナさんの笑い声が、ぴたりと止まった。
ミーナさんは、わたしの顔を見ていた。
そばかすの散った顔が、ほんの一瞬だけ、強張ったように見えた。
「……あ」
ミーナさんは、慌てたように雑巾を握り直した。
「す、すみません、つまらない話でしたよね。お掃除、続けますね」
ミーナさんは、くるりと窓のほうへ向き直った。
硝子を拭く手が、さっきよりも少しだけ速くなっていた。
わたしは、口の端を持ち上げたまま、固まっていた。
――間違えた。
何を間違えたのかは、分からなかった。
でも、ミーナさんの顔を見て、何かを間違えたのだと分かった。
わたしは、ゆっくりと口元を戻した。
それから、化粧台の鏡のほうへ、そっと顔を向けた。
◇ ◇ ◇
ミーナさんが出ていったあと、わたしは鏡の前に座ったまま、自分の顔を見つめていた。
セレナさんに梳いてもらった髪。まっすぐに肩へ流れる、灰色がかった金色の髪。
痩せた頬。青白い肌。
灰色がかった青い瞳。
わたしは、もう一度、口の端を持ち上げてみた。
さっき、ミーナさんの前でしたように。
鏡の中の女の子が、同じように口の端を持ち上げた。
――あ。
わたしは、息を止めた。
それは、笑顔ではなかった。
口の端だけが、無理やり引っ張られたように上がっていた。頬は少しも動いていなかった。目は、少しも笑っていなかった。
まるで、紙を切り抜いたような。
――お母さまの、笑顔だ。
身体が、すうっと冷たくなった。
わたしが「泣けません」と言ったあの日、お母さまはこんなふうに笑った。
紙を切り抜いたみたいな、冷たくて薄い笑顔。
――あなたみたいな子が泣けなくなったら、いったい何が残るのかしらね。
わたしは、慌てて口元を戻した。
鏡の中の女の子も、口元を戻した。
何の表情もない顔に、戻った。
わたしは、もう一度だけ、試してみた。
今度は、もう少しだけ、そっと。
口の端を、ほんの少しだけ。
目も、少しだけ細めてみた。
鏡の中の女の子は、泣きそうな顔をしていた。
笑おうとしているのに、どうしても、泣きそうな顔にしかならなかった。
――笑い方が、分からない。
わたしは、鏡の前で、そのことに気がついた。
笑ったことは、あったはずだった。
ずっと昔。離れの庭で。
あの子と花冠を作って、下手くそだと言いあって、草の上に寝転がって。
あのとき、わたしは笑っていたはずだった。
頬がくすぐったくて、胸の奥がそわそわして、じっとしていられなかった。
でも、そのとき自分がどんな顔をしていたのか、もう思い出せなかった。
どうやって、頬を動かしていたのか。
どうやって、目を細めていたのか。
地下に入ってから、七年。
笑う理由が、ひとつもなかった。
笑ってほしいと言われたことも、一度もなかった。
求められたのは、涙だけだった。
だから、わたしの顔は、泣くことしか覚えていなかった。
鏡の中の女の子は、わたしをじっと見ていた。
何の表情もない顔で。
笑い方を知らない顔で。
◇ ◇ ◇
「――それで、料理長は厨房の隅で鼻をすすりながら、こう申したそうです」
皇帝の執務室で、騎士団長ガレスが、珍しく口元をゆるめていた。
「『泣いてなどおらん。玉ねぎを刻んでいただけだ』と。その日の献立に、玉ねぎを使う料理はひとつもなかったのですが」
窓際の絨毯の上で書類を読んでいた宰相クラウスが、こらえきれずに小さく吹きだした。
「ハインツらしいですな。あの男は、二十年前からまるで変わらない」
クラウスは、目元を指先で押さえながら笑っていた。
ガレスも、肩を小さく震わせていた。
皇帝だけが、笑っていなかった。
書類から目を上げて、ガレスの報告を聞いていた。
何の表情も浮かんでいない顔で。
「……そうか」
それだけだった。
クラウスが、ふと笑いを止めて、主君の顔を見た。
ガレスも、口元をゆるめたまま、少しだけ気まずそうに咳払いをした。
「陛下」
クラウスが、書類を膝の上に置いた。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいですかな」
「なんだ」
「陛下が最後にお笑いになったのは、いつでしたか」
執務室の中が、静まり返った。
ガレスが、思わずクラウスのほうを見た。
皇帝は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと窓の外を見た。
「……覚えていない」
低い声だった。
「戦場では、笑う暇などなかった。帝都に戻ってからも、そうだ」
皇帝は、膝の上の書類に目を落とした。
「笑い方など、とうに忘れた」
クラウスは、何も言わなかった。
ただ、主君の横顔を見つめていた。
十四の年に帝都を追われた少年。それから十年、泥と血の中で生きてきた青年。
この方が子どもの頃、どんなふうに笑っていたのか、クラウスはもう思い出せなかった。
きっと、この方自身も。
◇ ◇ ◇
その日の昼、あの人はいつものように来た。
盆を置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめて、部屋の真ん中に座った。
わたしはスープを十口飲んで、パンをひとつ食べた。
それから、化粧台の木の腰掛けに戻った。
最近は、隅の敷物よりも、この腰掛けに座ることが多くなっていた。
あの人は、窓の外を見ていた。
いつもと同じだった。
わたしは、鏡越しに、あの人の横顔を見た。
何の表情もない顔。
黒い瞳。引き結ばれた唇。
――この人も。
ふと、思った。
この人が笑っているところを、わたしは一度も見たことがなかった。
地下で初めて会ったときから。皇宮に来てから、毎日お昼に来るようになってからも。
一度も。
怒っているようにも見えない。悲しんでいるようにも見えない。
いつも、何もない顔をしている。
鏡の中の、わたしと同じように。
「……あの」
気がつくと、声が出ていた。
あの人が、窓の外からこちらへ顔を向けた。
「なんだ」
わたしは、膝の上で手を握りしめた。
言っていいのだろうか、と思った。
こんなことを、皇帝に。
――分からなければ、分からないと言え。
あの人は、そう言った。
「……わたし」
わたしは、鏡の中の自分を見た。
「笑い方が、分かりません」
あの人は、何も言わなかった。
「今朝、ミーナさんが、おかしな話をしてくれて。笑おうとしたら、ミーナさんが、困った顔をして」
わたしは、目を伏せた。
「鏡で、やってみたんです。でも、どうやっても、泣きそうな顔になって」
言ってしまってから、恥ずかしくなった。
こんなこと、言わなければよかった。
笑い方が分からないなんて。
そんな、子どもみたいなこと。
わたしは、膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
長い沈黙だった。
あの人は、何も言わなかった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
やがて、低い声がした。
「……俺もだ」
わたしは、顔を上げた。
鏡の中に、あの人の顔が映っていた。
あの人は、窓の外ではなく、わたしのほうを見ていた。
「俺も、笑い方が分からない」
あの人は、静かに言った。
「今朝、宰相に言われた。最後に笑ったのはいつか、と。覚えていなかった」
わたしは、まばたきをした。
この人も。
皇帝も。
血も涙もないと呼ばれる人も。
わたしと同じように、笑い方を忘れていたのだ。
「……どうして、ですか」
思わず、訊いていた。
「笑う理由が、なかった」
あの人は、短く答えた。
「笑っている暇も、なかった」
それだけだった。
それ以上は、何も言わなかった。
でも、わたしには、それで十分だった。
笑う理由が、なかった。
わたしと、同じだった。
わたしは、鏡越しに、あの人の顔を見つめた。
あの人も、鏡越しに、わたしの顔を見ていた。
何の表情もない、二つの顔が、鏡の中に並んでいた。
――試してみようか。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
わたしは、口の端を、ほんの少しだけ持ち上げてみた。
鏡の中のわたしが、また、泣きそうな顔になった。
あの人が、それを見ていた。
それから、あの人も。
ほんの少しだけ、口の端を動かした。
――動かそうとした、のだと思う。
鏡の中のあの人の顔は、笑顔とはほど遠かった。
口の端が、ぎこちなく、ほんのわずかに引きつっただけだった。
まるで、錆びついた蝶番を無理やり動かそうとしたみたいに。
怒っているようにも、痛みを堪えているようにも見えた。
わたしたちは、鏡の中で、しばらく見つめあっていた。
泣きそうな顔の女の子と。
痛みを堪えているような顔の男の人と。
どちらも、少しも笑えていなかった。
あの人が、先に口元を戻した。
わたしも、口元を戻した。
何の表情もない顔に、二人とも戻った。
「……難しいな」
あの人が、ぽつりと言った。
「……難しい、です」
わたしも、小さく答えた。
それだけだった。
笑えなかった。
どちらも、少しも。
でも、なぜだろう。
胸の奥が、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
笑い方を知らないのは、わたしだけではなかった。
この宮殿で、たったひとり、わたしと同じ顔をしている人がいた。
それが、なぜだか、とても不思議で。
ほんの少しだけ、温かかった。
◇ ◇ ◇
扉の外の廊下で、侍女長セレナは壁際に控えていた。
扉は、いつものように少しだけ開いていた。
中の会話は、すべて聞こえていた。
――笑い方が、分かりません。
――……俺もだ。
セレナは、目を閉じた。
隣に、洗濯物の籠を抱えたミーナが立っていた。今朝のことを気にして、そっと様子を見に来たのだった。
ミーナは、扉の隙間から中を覗きこんで、それからセレナを見上げた。
「……侍女長」
ミーナは、声をひそめた。
「陛下も、リシェル様も、今、何をなさってるんですか」
セレナは、扉の隙間から、そっと中を見た。
化粧台の鏡の前に、娘が座っていた。
部屋の真ん中に、皇帝が座っていた。
二人とも、鏡越しに、互いの顔を見ていた。
何の表情もない、そっくりな顔で。
セレナは、静かに扉の前から離れた。
ミーナの肩に手を置いて、廊下の向こうへ歩きだす。
「笑う練習を、なさっているのですよ」
「練習、ですか?」
「ええ」
セレナは、廊下の窓の外を見た。
昼下がりの庭に、薔薇が咲いていた。
「お二人とも、ずいぶんと下手でいらっしゃいますけれど」
ミーナは、きょとんとした顔でセレナを見上げた。
セレナは、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。
二十五年、この宮殿で、たくさんの人を見てきた。
けれど、あれほどよく似た二人を見たのは、初めてだった。
「――似た者同士、ですこと」
小さな声で、セレナはそう呟いた。




