第40話 銀のボタンを見た皇帝
ぷつり、と小さな音がした。
朝、セレナさんに髪を梳いてもらっていたときだった。
わたしは化粧台の木の腰掛けに座って、鏡の中のセレナさんの手を見ていた。いつものように、毛先から少しずつ。さら、さら、と櫛の音がしていた。
その音に混じって、胸元で、何かが切れる音がした。
わたしは、はっとして胸元に手をやった。
肌着の合わせ目にくくりつけていた、古い糸。
地下で紐が切れてから、ずっとそこにボタンを留めていた、ほつれかけの糸。
それが、とうとう切れたのだった。
銀のボタンが、肌着の内側から滑り落ちた。
膝の上で一度だけ跳ねて、床のほうへ転がりかける。
わたしは、反射的に両手でそれを受け止めた。
手のひらの中に、小さな冷たいものがあった。
黒くくすんだ、縁の欠けた、銀のボタン。
――よかった。
わたしは、それを両手で包みこんだまま、しばらく動けなかった。
心臓が、どくどくと鳴っていた。
「……リシェル様」
鏡の中で、セレナさんが櫛を持ったまま、手を止めていた。
「大丈夫でございますか」
「……は、はい」
わたしは、手のひらを少しだけ開いた。
ボタンは、ちゃんとそこにあった。
「糸が、切れてしまって」
セレナさんは、わたしの手の中のボタンを、鏡越しに見ていた。
何も訊かなかった。
それが何なのか、どうしてそんなに大切そうに握りしめているのか。
セレナさんは、何も訊かなかった。
ただ、しばらく考えるように黙っていた。
それから、静かに言った。
「リシェル様。よろしければ、それを首から下げられるように、紐をお持ちいたしましょうか」
わたしは、鏡の中のセレナさんを見た。
「細い絹のリボンでしたら、肌にも擦れません。首にかけておけば、糸が切れる心配もございません」
セレナさんは、少しだけ間を置いた。
「お嫌でなければ」
首から、下げる。
地下で紐が切れる前は、そうしていた。古い麻の紐で、首にかけて、服の奥に隠していた。
ドルフさんに紐を引きちぎられてから、首にはかけられなくなった。
だから、肌着に縫いつけた。
肌着に縫いつけたから、この肌着を脱げなくなった。
セレナさんが仕立ててくれた、あの若草色のドレスを、ずっと着られなかった。
――首にかけられたら。
わたしは、手の中のボタンを見下ろした。
この肌着を、脱いでもいい。
ボタンは、首にかかっている。どこにも行かない。
「……お願い、します」
わたしは、小さな声で言った。
セレナさんは、静かに一礼して、部屋を出ていった。
セレナさんが戻ってきたとき、その手には、細い絹のリボンがあった。
淡い、灰色がかった青。
わたしの瞳と、同じような色だった。
「この色がよろしいかと思いまして」
セレナさんは、リボンをわたしの前に差し出した。
「ボタンの穴に、通させていただいてもよろしいですか。それとも、ご自分でなさいますか」
わたしは、少しだけ迷った。
それから、手を伸ばして、リボンを受け取った。
「……自分で、します」
ボタンの小さな穴に、リボンの端を通す。
穴には、まだ古い糸が一本だけ絡まっていた。地下でずっと結んでいた糸。わたしは、それをそっと指先でつまみ出した。
それから、リボンを通した。
指が、少しだけ震えた。
うまく通らなくて、何度かやり直した。
セレナさんは、何も言わずに待っていてくれた。
ようやく通ったリボンの両端を、うなじのところで結ぶ。
鏡の中で、銀のボタンが、わたしの胸元で揺れていた。
服の奥ではなく。
服の、上で。
わたしは、それを手のひらでそっと包んだ。
冷たかった。でも、ちゃんと、そこにあった。
「……あの」
わたしは、鏡の中のセレナさんを見上げた。
「はい」
「あのドレス」
わたしは、衣装棚のほうへ目を向けた。
セレナさんが置いていってくれてから、ずっと、敷物のそばにたたんで置いてあった、若草色のドレス。
今は、衣装棚の上の段に、きちんと掛けてある。セレナさんが、皺にならないようにと。
「あれを……着ても、いいですか」
訊いてしまってから、おかしな訊き方だと思った。
あれは、わたしのために仕立てられたものだと、セレナさんは言った。
それなのに、着てもいいですか、なんて。
でも、セレナさんは、少しもおかしいという顔をしなかった。
ほんの一瞬だけ、目を見開いて。
それから、深く、ゆっくりと一礼した。
「――もちろんでございます」
◇ ◇ ◇
衝立の向こうで、わたしは古い肌着を脱いだ。
七年間、着ていたもの。
地下で、毎日、毎晩。
すり切れて、色が抜けて、肘に穴があいて、地下の匂いが沁みついた肌着。
それを、両手で持って見下ろした。
ボタンを縫いつけていた、胸元の合わせ目。ほつれた糸の跡が、まだ残っていた。
わたしは、それを丁寧にたたんだ。
捨てることは、できなかった。
でも、もう、着なくてもいい。
セレナさんに手伝ってもらって、若草色のドレスに袖を通した。
柔らかかった。
さらさらとしていて、肌に触れても、どこも擦れなかった。縫い目の裏まで、丁寧に始末してあった。
お日さまの匂いがした。
ドレスの胸元には、ちょうどボタンが揺れる場所に、小さな白いレースがついていた。
銀のボタンが、そのレースの上で、かすかに光った。
衝立の外に出て、鏡の前に立った。
鏡の中に、女の子がいた。
淡い若草色のドレスを着て、まっすぐな髪を肩に流して、胸元に銀のボタンを下げた女の子。
痩せていた。青白かった。
でも――。
わたしは、その女の子を、長いこと見つめていた。
セレナさんが、後ろで、何も言わずに控えていた。
鏡の中で、セレナさんがそっと目元を押さえたのが見えた。
わたしは、見なかったふりをした。
◇ ◇ ◇
その日の昼、扉を叩く音がした。
低くて、重たくて、短い叩き方。
「入っていいか」
「……はい」
扉が開いて、あの人が入ってきた。
銀の盆を持って。
いつものように、部屋の中を見回して――。
あの人の足が、止まった。
わたしは、化粧台の木の腰掛けに座っていた。
若草色のドレスを着て。
あの人の黒い瞳が、わたしの上で止まっていた。
ほんの一瞬。
いつもよりも、ほんの少しだけ長く。
わたしは、膝の上で手を握りしめた。
何か、言われるのだろうか。
似合わない、とか。
それとも、そのドレスの代わりに、何かを――。
あの人は、何も言わなかった。
ゆっくりと視線を外して、盆を卓の上に置いた。
いつものように、曲がった匙でひと口ずつ確かめて、部屋の真ん中に座った。
何も、言わなかった。
ドレスのことは、ひと言も。
――よかった。
わたしは、そう思った。
何も言われなくて、よかった。
褒められたら、きっと、何かを返さなければならないような気がしたから。
あの人は、それを知っていたのかもしれない。
わたしはスープを十口飲んで、パンを二つ食べた。
それから、化粧台の腰掛けに戻った。
あの人は、窓の外を見ていた。
いつもと、同じだった。
しばらくして、あの人が口を開いた。
「リシェル」
「……はい」
「ひとつ、訊いていいか」
あの人は、窓の外を見たままだった。
わたしは、少しだけ身体を硬くした。
「……はい」
あの人は、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
その黒い瞳が、わたしの胸元に向けられていた。
淡い青のリボンの先で揺れている、小さな銀のボタンに。
「それは、何だ」
わたしは、思わず胸元に手をやった。
ボタンを、手のひらで包みこむ。
――取り上げられる。
一瞬だけ、そう思った。
地下で、ドルフさんに見つかったときのように。
でも、あの人は動かなかった。
部屋の真ん中に座ったまま、わたしを見ていた。
手を伸ばそうともしなかった。
ただ、訊いただけだった。
――答えたくなければ、答えなくていい。
あの人は、そうは言わなかった。
でも、あの人の目が、そう言っているような気がした。
わたしは、手のひらの中のボタンを見下ろした。
黒くくすんだ、縁の欠けた、小さな銀のボタン。
裏側に、翼を広げた鳥と、小さな冠の模様。
これが何なのか。
この人に、話していいのだろうか。
あの子のこと。林檎の木の下の庭のこと。花冠のこと。迎えに来るという約束のこと。
十回目の春に、全部、夢だったと決めたこと。
わたしは、長いあいだ黙っていた。
あの人も、黙って待っていた。
やがて、わたしは、小さな声で言った。
「……昔の、夢の残りです」
あの人は、何も言わなかった。
わたしは、ボタンを包んだ手を、胸元に押し当てた。
「ずっと昔に、もらったんです。でも、たぶん、夢だったんだと思います」
「夢」
「はい」
わたしは、目を伏せた。
「誰も、来なかったので」
言ってしまってから、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
誰も、来なかった。
十年。
待っていると言ったのに。
あの子は、迎えに来ると言ったのに。
「だから、夢だったんだと思うことにしました。そのほうが、痛くないので」
わたしは、手のひらの中のボタンを、そっと握りしめた。
「でも、これだけは、捨てられなくて」
声が、少しだけかすれた。
「夢の、残りなんです」
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、何も言えなかった。
――誰も、来なかったので。
あの子の声が、耳の奥で鳴っていた。
――だから、夢だったんだと思うことにしました。そのほうが、痛くないので。
膝の上に置いた右手が、ゆっくりと握りしめられていった。
まだ癒えきっていない拳の傷が、布の下で開くのが分かった。
痛みは、感じなかった。
あの子は、覚えていた。
十年経っても。
地下の底で、鎖に繋がれて、泣くことだけを求められて、それでも。
あのボタンを、捨てずに持っていた。
あの約束を、覚えていた。
――覚えていたから、夢にしたのだ。
覚えていて、待って、待って、それでも誰も来なかったから。
痛くて、痛くて、どうしようもなかったから。
だから、全部、夢だったことにした。
そうしなければ、生きていられなかったから。
アルフレッドは、奥歯を噛みしめた。
――夢じゃない。
喉の奥まで、その言葉が出かかっていた。
――夢じゃない。俺だ。あの日、塀を越えたのは俺だ。そのボタンを渡したのは俺だ。迎えに来ると言ったのは、俺だ。
――遅くなった。すまなかった。十年も、待たせた。
言いたかった。
今すぐ、全部。
けれど、あの子の顔を見た瞬間、言葉は喉の奥で止まった。
あの子は、ボタンを握りしめて、目を伏せていた。
痛くないように、と。
夢だと思うことにした、と。
そうやって、やっと、ここまで来たのだ。
今ここで、あれは夢じゃなかったと言えば。
あの子が十年かけて塞いだ傷を、自分の手で、もう一度こじ開けることになる。
――どうして来なかったの。
あの子は、きっとそう思うだろう。
思って、それでも、それを口にすることができずに、また黙って耐えるのだろう。
今のあの子には、まだ、怒る力さえないのだから。
アルフレッドは、握りしめた拳を、膝の上でさらに強く握った。
布の下で、血が滲むのが分かった。
――まだだ。
まだ、言えない。
あの子が、自分で、あれは夢じゃなかったと思えるようになるまで。
あの子が、どうして来なかったのと、自分の口で言えるようになるまで。
それまでは。
「……そうか」
やっと、それだけが出た。
自分の声が、ひどくかすれているのが分かった。
「大事に、しろ」
あの子が、顔を上げた。
灰色がかった青い瞳が、少しだけ驚いたように見開かれていた。
「夢の残りでも、お前が持っていたいなら」
アルフレッドは、立ち上がった。
握りしめた右手を、背中のほうへ回して。
「誰にも、取り上げさせない」
あの子は、何も言わなかった。
ただ、胸元のボタンを、両手でそっと包みこんだ。
アルフレッドは、扉のほうへ歩いていった。
敷居のところで、一度だけ立ち止まった。
「明日も、来ていいか」
「……来ても、いいです」
アルフレッドは、振り返らずに頷いて、扉の外へ出た。
◇ ◇ ◇
廊下の角を曲がったところで、アルフレッドは壁に背中を預けた。
右手の布が、赤く染まっていた。
拳を、ゆっくりと開く。
手のひらに、爪の跡が四つ、深く刻まれていた。
――昔の、夢の残りです。
あの子の声が、まだ耳から離れなかった。
アルフレッドは、目を閉じた。
執務室の引き出しの奥に、小さな紺色の上着がある。
胸元の真ん中のボタンだけが、欠けている上着。
十年間、一度も、新しいボタンを付けさせなかった。
残りのひとつは、あの子が持っているから。
あの子は、本当に持っていた。
十年間、ずっと。
夢だと思いこもうとしながら、それでも、捨てられずに。
「……ちゃんと、迎えに来たぞ」
誰もいない廊下で、アルフレッドは、低く呟いた。
「遅すぎたが」
その声は、誰にも届かなかった。
あの子にも。
まだ、届けることはできなかった。




