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第41話 花冠

「午後の謁見を、明日に回せ」

 皇帝の執務室で、アルフレッドは書類から顔も上げずにそう言った。

 宰相クラウスは、手にしていた予定表を取り落としそうになった。

「……陛下。本日午後は、南部三州の代表との謁見でございます。三か月前から決まっておりました」

「明日に回せ」

「先方は、昨日から帝都に到着して待っておられます」

「一日待たせても、南部は逃げない」

 クラウスは、主君の顔をまじまじと見つめた。

 皇帝が即位して三年。謁見の予定を、理由もなく動かしたことは一度もなかった。どれほど疲れていようと、どれほど退屈な相手であろうと、決められた時刻に、決められた場所に、必ず現れる方だった。

「……理由を、伺ってもよろしいですかな」

 アルフレッドは、ようやく書類から顔を上げた。

 窓の外を見る。

 昼下がりの光が、皇宮の庭を穏やかに照らしていた。

「庭へ行く」

「庭」

「ああ」

 クラウスは、しばらく口を開けたまま固まっていた。

 それから、深々とため息をついた。

「……かしこまりました。南部の方々には、陛下が急な御用でと申し上げておきましょう」

「頼む」

 アルフレッドは、立ち上がった。

 執務室を出ていく主君の背中を見送りながら、クラウスは予定表を握りしめて、もう一度ため息をついた。

 帝国を救った男が、謁見を蹴って庭へ行く。

 その理由が何なのか、宰相にはもう、薄々分かっていた。


   ◇ ◇ ◇


「庭へ、行くか」

 昼食のあと、あの人は窓の外を見たまま、そう言った。

 わたしは、化粧台の木の腰掛けに座っていた。

 若草色のドレスを着て。胸元に、淡い青のリボンで銀のボタンを下げて。

「この前の窓から見た、薔薇の庭だ。人は遠ざけてある」

 あの人は、一度だけ言って、黙った。

 わたしの答えを、待っていた。

 ――庭。

 廊下の突き当たりの窓から見た、赤や白や薄紅の薔薇。

 あのときは、窓越しに見るだけだった。

 窓の外に、出たことはなかった。

 この宮殿に来てから、一度も。

 怖かった。

 外は、広い。どこまでも広くて、どこにも壁がない。

 あの日、ヴァレンティアのお屋敷の玄関で見上げた夜明けの空を思い出した。広すぎて、自分がひどく小さくなったような気がした、あの空。

 でも。

 あの日は、何も選べなかった。

 連れていく、と言われて、ついていくしかなかった。

 今は、違う。

 行くか、と訊かれている。

 行かない、と言ってもいい。

 わたしは、胸元のボタンを、手のひらでそっと包んだ。

「……少しだけ、なら」

 あの人は、静かに頷いた。

「分かった」


   ◇ ◇ ◇


 庭は、思っていたよりもずっと静かだった。

 石畳の小道が、緑の芝生のあいだを縫うように続いていた。小道の両側に、薔薇の茂みがいくつも並んでいて、赤や白や薄紅の花が、昼下がりの光を受けてやわらかく揺れていた。

 甘い匂いがした。

 薔薇の匂い。草の匂い。土の匂い。

 風が吹くたびに、その匂いが、ふわりと顔にかかった。

 人は、誰もいなかった。

 あの人は、わたしより三歩先を歩いていた。

 いつものように、振り返らずに。わたしが歩けば歩き、わたしが止まれば止まった。

 わたしは、石畳の上を、ゆっくりと歩いた。

 廊下で転んでから、毎日少しずつ、部屋の中を歩くようにしていた。窓から窓へ。卓から化粧台へ。それでも、こんなに長く歩くのは、まだ少し大変だった。

 膝が、少しだけ震えた。

 あの人が、小道の先で足を止めた。

「少し、座るか」

 あの人の前に、芝生が広がっていた。

 薔薇の茂みから少し離れた、日当たりのいい、なだらかな場所。

 芝生の緑の中に、小さな白い花が、点々と咲いていた。

 丸くて、細い茎の先に、ちょこんと咲いている、小さな白い花。

 ――あ。

 わたしは、立ち止まった。

 この花を、知っている。

 離れの庭の、林檎の木の根元に、いつも咲いていた花。

 わたしが、膝の上に並べて、数えて、また並べていた花。

 同じ花だった。


 あの人は、芝生の上に腰を下ろした。

 わたしから、少し離れた場所に。

 わたしも、少し迷ってから、芝生の上に座った。

 草が、柔らかかった。

 でも、あの椅子のような、沈んでいく柔らかさではなかった。下に、ちゃんと土があるのが分かる柔らかさだった。

 敷物と、同じ。

 わたしは、膝を抱えて、芝生の白い花を見つめていた。

 風が吹いて、小さな花が、いっせいに揺れた。

 あの人は、しばらく黙って、遠くの薔薇を見ていた。

 それから、ふいに、手を伸ばした。

 わたしのほうではなく、芝生のほうへ。

 白い花を、一本、摘んだ。

 もう一本。

 また、もう一本。

 わたしは、何をしているのだろうと思って、あの人の手元を見ていた。

 あの人は、摘んだ花を膝の上に並べて、それから、二本を手に取った。

 茎と茎を、十字に重ねる。

 ――え。

 わたしは、息を止めた。

 あの人は、もう一本の花を手に取って、重ねた茎に巻きつけはじめた。

 花冠だった。

 あの人は、花冠を作っていた。


 皇帝が。

 血も涙もないと呼ばれる人が。

 芝生の上に座って、白い小さな花を摘んで、花冠を作っていた。

 わたしは、言葉もなく、その手元を見つめていた。

 あの人の指は、大きかった。

 剣を握るための指。錠前を叩き壊した指。あの夜、わたしの冷たい手を、そっと包んでくれた指。

 拳には、まだうっすらと、机にぶつけたという傷の跡が残っていた。

 その指で、細い花の茎を扱うのは、ひどく難しそうだった。

 茎を巻きつけようとして、ぽきりと折れた。

 あの人は、何も言わずに、折れた花を脇に置いて、新しい花を手に取った。

 また、巻きつける。

 今度は、花がぽろりと取れた。

 あの人の眉が、ほんのかすかに寄った。

 わたしは、思わず、それを見ていた。

 何の表情も浮かべない人の、眉が寄るのを。

 あの人は、また新しい花を手に取った。

 巻きつける。今度は、うまくいった。

 もう一本。もう一本。

 少しずつ、少しずつ、白い花が輪の形になっていく。

 あちこちから茎が飛び出していた。花の向きも、ばらばらだった。ところどころ、花が取れて、茎だけになっているところもあった。

 きれいな形とは、とても言えなかった。

 それでも、輪になっていた。


 あの人は、最後の一本を巻きつけて、手を止めた。

 手の中に、小さな花の輪があった。

 不格好で、いびつで、あちこち飛び出した、白い花冠。

 あの人は、それをしばらく見下ろしていた。

 それから、ぽつりと呟いた。

「……昔より、下手になった」

 小さな声だった。

 わたしに言ったのではなかったと思う。

 ただ、ひとりごとのように、こぼれただけだった。

 でも、わたしには、聞こえた。

「……昔?」

 気がつくと、訊いていた。

 あの人の手が、ほんの一瞬だけ、止まった。

 それから、あの人は花冠を見下ろしたまま、短く答えた。

「……ずいぶん昔に、作ったことがある」

 それだけだった。

 それ以上は、何も言わなかった。

 わたしも、それ以上は訊かなかった。

 訊いてはいけないような気がした。

 あの人の横顔が、なぜだか、いつもよりも少しだけ、遠くを見ているように見えたから。


 皇帝が、花冠を作ったことがある。

 ずいぶん昔に。

 誰のために、作ったのだろう。

 わたしは、あの人の手の中の花冠を見つめた。

 あちこち飛び出した茎。ばらばらの花の向き。

 ――思ったより下手だな。

 ふいに、遠い記憶の底から、声が浮かんだ。

 林檎の木の下で。初めて作った花冠を掲げて、少しだけ顔をしかめた男の子の声。

 わたしは、慌ててそれを打ち消した。

 あれは、夢だ。

 十回目の春に、そう決めたのだ。

 花冠を作る男の人なんて、きっと、どこにでもいる。

 皇帝が子どもの頃に、妹か誰かのために作ったことがある。それだけのことだ。

 でも――。

 胸の奥で、何かが、ほんのかすかに、ざわめいていた。


「……いるか」

 あの人が、言った。

 わたしは、顔を上げた。

 あの人は、手の中の花冠を、少しだけ持ち上げていた。

「下手だが」

 わたしは、花冠を見つめた。

 いびつな、白い花の輪。

 ――祝福の子には、冠が必要だろ。

 また、遠い声が浮かびかけた。

 わたしは、それを胸の奥に押しこめた。

 それから、小さく、頷いた。

 あの人は、花冠をわたしの頭に載せようとはしなかった。

 わたしの前の芝生の上に、そっと置いた。

 わたしは、手を伸ばして、それを拾い上げた。

 軽かった。

 白い花の匂いがした。

 わたしは、それを両手で包むように持った。

 頭には、載せなかった。

 載せられなかった。

 載せたら、何かが、こぼれてしまいそうな気がしたから。


   ◇ ◇ ◇


 部屋に戻ってから、わたしは花冠をどうしようかと迷った。

 卓の上に置いたら、萎れてしまう。

 衣装棚にしまったら、潰れてしまう。

 わたしは、部屋の中を見回した。

 それから、朝の洗面器のそばにあった、小さな陶器の皿を手に取った。

 水を、少しだけ張る。

 その上に、花冠を、そっと載せた。

 窓辺に、置く。

 白い花冠が、水の上で、かすかに揺れていた。

 ――しおれてしまわないように。

 わたしは、窓辺の皿を見つめていた。

 それから、ふと、手を止めた。

 前にも、こうしたことがあった。

 ずっと昔。

 離れの部屋の窓辺に、水を張った小皿を置いて、その上に花冠を載せた。

 初めてほどけずに輪にできた、花冠。

 しおれてしまわないように、と思って。

 ――お母さまに、見つかって。

 ――踏みつぶされた。

 わたしは、窓辺の花冠から目を離せなかった。

 胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。

 でも、ここには、お母さまはいない。

 この花冠を踏みつぶす人は、いない。

 わたしは、窓辺の前にしゃがみこんで、水の上の花冠を見つめていた。

 夕暮れの光が、白い花を、ほんのりと茜色に染めていた。


   ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、侍女長セレナから報告を受けたアルフレッドは、長いあいだ黙っていた。

「――窓辺に、水を張った皿を置いて。その上に、陛下の花冠を」

 セレナは、静かに言った。

「しおれないように、と。そうおっしゃっていたそうです。ミーナが、扉の外で聞いておりました」

 アルフレッドは、窓の外を見ていた。

 東の客殿のほうを。

 ――しおれないように。

 十年前。

 林檎の木の根元で、あの子は布に顔をうずめて泣いていた。

 昨日の花冠が、母親に見つかって、つぶされたのだと。

 祝福の子には、遊びもお花もお友達も要らないのだと言われた、と。

 その子が今、自分の作ったいびつな花冠を、しおれないようにと、大切に窓辺に置いている。

 今度は、誰にも踏みつぶされない場所に。

「……そうか」

 アルフレッドは、低く呟いた。

 セレナが一礼して下がったあとも、皇帝は長いこと、窓の外を見つめていた。

 膝の上で、花の茎を折ってしまった指を、ゆっくりと握りしめながら。

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