第42話 知っている編み方
窓辺の花冠は、三日でしおれた。
水を毎朝替えて、陽の当たりすぎない場所に動かして、それでも、白い小さな花は少しずつ縮れて、茶色くなっていった。
四日目の朝、わたしは窓辺の皿を見下ろして、しばらく動けなかった。
しおれてしまった。
踏みつぶされたわけでもないのに。誰にも取り上げられたわけでもないのに。
花は、ただ、しおれるのだ。
それは当たり前のことなのに、どうしてだか、胸の奥が少しだけ痛かった。
「……捨てなければ、いけませんか」
朝の支度に来たセレナさんに、わたしは訊いた。
セレナさんは、窓辺の皿を見て、それからわたしを見た。
「リシェル様が、お捨てになりたくなるまで、そこに置いておかれればよろしいかと」
「……しおれても?」
「はい。しおれても」
セレナさんは、穏やかに言った。
「花は、しおれても、花でございますから」
わたしは、皿の上の花冠を見つめた。
茶色く縮れた、白い花の輪。
まだ、捨てたくなかった。
◇ ◇ ◇
「庭へ、行くか」
その日の昼食のあと、あの人はいつものように一度だけ訊いた。
わたしは、窓辺の皿のほうをちらりと見た。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
あの人は、窓辺の皿のほうへ、ほんの一瞬だけ目を向けた。
何も言わなかった。
庭は、この前と同じように静かだった。
石畳の小道を、あの人の三歩後ろを歩いた。
膝は、この前よりも少しだけ震えなかった。毎日、部屋の中を歩いていたからかもしれない。
芝生の、日当たりのいい場所。
小さな白い花が、点々と咲いていた。
あの人が腰を下ろし、わたしも、少し離れた場所に座った。
草が、柔らかかった。
風が吹いて、白い花がいっせいに揺れた。
あの人は、何も言わずに、白い花を摘みはじめた。
一本。また一本。
膝の上に並べていく。
わたしは、その手元を見ていた。
あの人は、二本の花を手に取った。
茎と茎を、十字に重ねる。
――最初はこうやって、二本を十字に重ねて。
遠い記憶の底から、声が浮かんだ。
わたしは、それを打ち消そうとした。
でも、今日は、うまく打ち消せなかった。
あの人は、三本目の花を手に取った。
十字に重ねた茎の真ん中に、三本目の茎を、ぐるりと一度巻きつける。
それから――。
親指で、巻きつけた茎の端を、内側へ押しこんだ。
くいっと、二度。
そうやって、端が飛び出さないように、茎の輪の中へ隠してしまう。
わたしは、息を止めた。
――知っている。
この手つきを、知っている。
親指で、くいっと二度。
端を、内側へ。
――こうやって押しこんだら、ほどけないんだ。
林檎の木の下で、あの子はそう言った。
わたしの手を取って、わたしの親指を、茎の端に当てさせて。
――ほら、くいって。もう一回、くいって。
――そうそう。それで、ほどけない。
わたしは、あの人の手から目を離せなかった。
あの人は、四本目の花を手に取った。
巻きつける。親指で、くいっと二度。
五本目。巻きつける。くいっと二度。
同じだった。
何度見ても、同じだった。
花冠の作り方なんて、きっと、いろいろあるのだと思う。誰がどう教わったかで、少しずつ違うのだと思う。
でも、この「くいっと二度」は。
あの子が、自分で考えたのだと言っていた。
――乳母に教わったやり方だとすぐほどけちゃうから、こうしたんだ。僕が考えた。
得意そうに、そう言っていた。
あの子だけの、やり方。
それを、どうして、この人が。
「……あの」
気がつくと、声が出ていた。
あの人の手が、止まった。
「その、編み方」
わたしは、膝の上で手を握りしめた。
「どこで、覚えたんですか」
あの人は、しばらく黙っていた。
手の中の、作りかけの花冠を見下ろしたまま。
「……教わった」
低い声だった。
「乳母に。子どもの頃に」
乳母に。
わたしは、あの人の横顔を見つめた。
――乳母に教わったやり方だとすぐほどけちゃうから。
あの子は、そう言った。
乳母に教わったやり方と、あの子が考えたやり方は、違う。
でも、この人は、乳母に教わった、と言った。
それなら、違うのかもしれない。
ただの、偶然なのかもしれない。
親指で、くいっと二度押しこむやり方なんて、きっと他にも考える人はいるのだろう。
――でも。
胸の奥で、何かがざわざわと騒いでいた。
わたしは、それを、どうしても静められなかった。
「……わたしも」
わたしは、小さな声で言った。
「わたしも、教わったことがあります。昔」
あの人の手が、また、ほんの少しだけ止まった。
「そうか」
それだけだった。
あの人は、また花を手に取った。
巻きつける。くいっと二度。
わたしは、芝生の白い花を見下ろした。
それから、そっと手を伸ばした。
一本、摘む。
もう一本。
二本を、十字に重ねた。
手が、勝手に動いていた。
三本目を手に取って、真ん中に、ぐるりと一度巻きつける。
それから、親指を、巻きつけた茎の端に当てた。
くいっと。
もう一回、くいっと。
――そうそう。それで、ほどけない。
端が、ちゃんと内側に隠れた。
ほどけなかった。
わたしは、自分の手を見下ろした。
覚えていた。
十年経っても。
地下の七年間、一度も花に触れたことがなかったのに。
手が、覚えていた。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、息をするのも忘れていた。
あの子の手が、動いていた。
二本を十字に重ねて、三本目を巻きつけて。
親指で、くいっと二度。
自分が、あの子に教えたやり方だった。
乳母に教わった編み方では、すぐにほどけてしまった。だから、自分で考えた。端を内側へ押しこめば、ほどけない。
――僕が考えた。
十四の自分が、得意げにそう言ったのを、覚えている。
あの子の小さな手を取って、親指を茎の端に当てさせて。
――ほら、くいって。もう一回、くいって。
あの子は、何度も失敗した。最初の花冠は、輪にもならずにほどけてしまった。
三つ目で、ようやく、ほどけずに輪になった。
その手が、今、迷いなく動いていた。
十年前と、同じように。
――乳母に、教わった。
さっき、あの子に訊かれて、そう答えた。
嘘ではなかった。花冠の作り方そのものは、乳母に教わった。
けれど、くいっと二度は、乳母のやり方ではない。
あの子は、それを知っているはずだった。
あの子の顔を、そっと見た。
あの子は、自分の手の中の作りかけの花冠を、じっと見下ろしていた。
灰色がかった青い瞳が、かすかに揺れていた。
――気づきかけている。
アルフレッドは、自分の手の中の花冠を握りしめそうになって、慌てて力を抜いた。
気づいてほしい、と思った。
気づかないでほしい、とも思った。
気づいてしまったら、あの子は、十年かけて閉じた扉を、もう一度開けなければならなくなる。
――誰も、来なかったので。
あの子の声が、耳の奥でよみがえった。
アルフレッドは、黙って、花を巻きつけ続けた。
◇ ◇ ◇
わたしは、手の中の作りかけの花冠を見つめていた。
まだ、三本しか巻きつけていない、小さな花の輪の始まり。
あの子に教わったやり方で。
この人と、同じやり方で。
――もしかして。
ふいに、そんな言葉が胸の奥に浮かんだ。
もしかして、この人は。
わたしは、それを、慌てて押しこめた。
ありえない。
あの子は、庭に迷いこんできた、名前も言えない男の子だった。鷹を追いかけて、塀を越えてきた、どこかの家の子だった。
この人は、皇帝だ。
帝国でいちばん高いところにいる人だ。
あの子が皇帝だなんて、そんなこと、あるはずがない。
それに。
もしも、この人があの子だったら。
――どうして、来なかったの。
その問いが、胸の奥から、せり上がってきそうになった。
わたしは、唇を噛んだ。
考えてはいけない。
期待しては、いけない。
期待して、もしも違ったら。
また、夢だったことにしなければならなくなる。
あの痛みを、もう一度。
それだけは、いやだった。
わたしは、作りかけの花冠に、もう一本の花を巻きつけた。
くいっと二度。
手が、勝手に動いた。
もう一本。くいっと二度。
あの人も、隣で、黙って花を巻きつけていた。
くいっと二度。
芝生の上で、二人とも何も言わずに、同じやり方で、花冠を編んでいた。
風が吹いて、白い花がいっせいに揺れた。
薔薇の甘い匂いがした。
わたしは、あの人の手元を見ないようにした。
見たら、また、胸の奥がざわめいてしまうから。
でも、目の端で、あの人の親指が、くいっと二度動くのが、どうしても見えてしまった。
やがて、二つの花冠ができあがった。
あの人のは、この前よりも少しだけ上手になっていた。でも、やっぱりあちこちから茎が飛び出していた。
わたしのは、小さかった。
あの人のよりも、ずっと小さくて、ずっと不格好だった。輪の大きさも、ばらばらだった。
でも、ほどけていなかった。
ちゃんと、輪になっていた。
わたしは、それを両手で持って、見下ろしていた。
あの人が、ぽつりと言った。
「……上手だな」
わたしは、顔を上げた。
あの人は、わたしの手の中の花冠を見ていた。
「俺のより、ほどけていない」
――僕のより上手だ。
林檎の木の下で、あの子もそう言った。
わたしの三つ目の花冠を、自分の頭に載せて。
わたしは、何も言えなかった。
喉の奥が、ひどく熱かった。
目の奥も。
――泣いてはいけない。
わたしは、ぎゅっと唇を噛んだ。
ここで泣いたら、石が落ちる。
この人の前で、石を落としてしまう。
わたしは、花冠を胸に押し当てて、俯いた。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、自分の花冠を芝生の上に置いて、遠くの薔薇を見ていた。
わたしが顔を上げるまで、ずっと。
◇ ◇ ◇
その夜、窓辺の皿の上には、花冠が二つ並んでいた。
しおれた、茶色い花冠。
それから、今日わたしが作った、小さな白い花冠。
あの人の今日の花冠は、あの人が持って帰った。
どうしてかは、訊かなかった。
わたしは、窓辺にしゃがみこんで、二つの花冠を見つめていた。
くいっと、二度。
自分の親指を見下ろした。
あの子が教えてくれたやり方。
あの人と、同じやり方。
――乳母に、教わった。
あの人は、そう言った。
でも、あの子は、乳母のやり方だとすぐほどけてしまうから、自分で考えたと言った。
どちらが、本当なのだろう。
それとも、どちらも本当で、ただの偶然なのだろうか。
わたしは、胸元のボタンを、手のひらで包みこんだ。
黒くくすんだ、縁の欠けた、銀のボタン。
裏側に、翼を広げた鳥と、小さな冠の模様。
――夢の残り。
あの人に、そう言った。
でも、今夜は、その言葉が、少しだけ揺らいでいた。
わたしは、窓の外の月を見上げた。
考えては、いけない。
期待しては、いけない。
そう思いながら、それでも、親指に残った白い花の匂いを、いつまでも嗅いでいた。




