第43話 木登り禁止令
その日の庭には、いつもより人が多かった。
三度目の庭だった。
一度目と二度目は、あの人が前もって人を遠ざけてくれていた。広い庭に、わたしとあの人の二人きりだった。
でも、今日は、少しだけ違った。
石畳の小道の脇に、黒い軍装の騎士の人が二人、少し離れて立っていた。薔薇の茂みの向こうでは、侍従の人たちが何人か、こちらを気にするように控えていた。
「南部の代表が、まだ帝都にいる」
庭に出る前に、あの人は短く言った。
「念のために、少しだけ人を置かせてもらう。近づかせはしない」
わたしは、少しだけ迷ってから、頷いた。
人がいるのは、まだ少し怖かった。
でも、あの人がそう言うなら、きっと近づいては来ないのだと思った。
騎士の人たちは、本当に、少しも近づいてこなかった。
侍従の人たちも、薔薇の茂みの向こうから、ただこちらを見ているだけだった。
石畳の小道を、あの人の三歩後ろを歩いた。
今日は、いつもの芝生の場所を通り過ぎて、もう少しだけ奥まで歩いてみた。
あの人が、「もう少し先に、見せたいものがある」と言ったから。
小道は、薔薇の茂みを抜けて、ゆるやかに曲がっていた。
曲がった先に、広い芝生があった。
その真ん中に、一本の木が立っていた。
――あ。
わたしは、立ち止まった。
大きな木だった。
太い幹が、少しだけ斜めに傾いていた。枝が四方に大きく広がって、その枝という枝に、白い花が咲いていた。
小さな、五枚の花びらの、白い花。
ほんのりと、薄紅色が混じっていた。
甘くて、少しだけ酸っぱい匂いが、風に乗って流れてきた。
――林檎の、花。
わたしは、言葉もなく、その木を見上げていた。
離れの庭の、林檎の木。
あの子が、鷹を捕まえるために登った木。
わたしが、あの子に手を引いてもらって、いちばん低い枝まで登った木。
あの木よりも、ずっと大きかった。ずっと古そうだった。
でも、同じ花が咲いていた。
同じ匂いがした。
「皇宮の庭でいちばん古い木だそうだ」
あの人が、わたしの少し前で、同じように木を見上げていた。
「三代前の皇帝が植えたと聞いた。今でも、秋には実がなる」
わたしは、何も答えられなかった。
ただ、林檎の木を見上げていた。
白い花のあいだから、空が見えた。
青くて、どこまでも広い空。
枝が、空に向かって、手を伸ばすように広がっていた。
――あの枝の上から見た庭は、いつもと同じ庭なのに、まるで知らない場所みたいに見えた。
ずっと昔、そう思ったことを覚えている。
いちばん低い枝に、あの子に手を引いてもらって、やっと座れたとき。
足の下に、庭が広がっていた。いつも見上げていた塀が、少しだけ低く見えた。
あの高さから、もう一度、世界を見てみたい。
ふと、そんな気持ちが、胸の奥に浮かんだ。
わたしは、無意識のうちに、一歩、木のほうへ近づいていた。
手を、ほんの少しだけ、幹のほうへ伸ばしかけていた。
「――お、お待ちくださいませっ!」
鋭い声が、庭に響いた。
わたしは、びくりと身体を跳ねさせた。
薔薇の茂みの向こうから、侍従の人たちが慌てて駆け寄ってくるのが見えた。
先頭にいたのは、白髪まじりの、痩せた年配の侍従の人だった。濃い紺色の上着をきっちりと着こんで、顔を真っ赤にしていた。
「そ、その木は、お登りになってはなりませんっ!」
侍従の人は、わたしから少し離れたところで足を止めて、息を切らしながら言った。
「皇宮の庭木に登ることは、固く禁じられております! 先帝陛下がお定めになった、厳しいお決まりでございます! まして、そのような細いお身体で、もしも落ちられでもしたら――」
後ろから追いついてきた若い侍従の人たちも、口々に言った。
「危のうございます!」
「どうか、お下がりくださいませ!」
わたしは、伸ばしかけた手を、慌てて引っこめた。
胸元で、両手を握りしめる。
――怒られた。
身体が、冷たくなった。
登ろうとしたわけではなかった。
ただ、見上げていただけだった。
ほんの少しだけ、近づいただけだった。
でも、この人たちには、わたしが登ろうとしているように見えたのだ。
禁じられていることを、しようとしているように。
「……ご、ごめんなさい」
声が、震えた。
「登ろうとしたわけでは……ただ、見ていただけで……」
わたしは、一歩、二歩と後ずさった。
木から、離れた。
侍従の人たちが、ほっとしたように息をついた。
年配の侍従の人が、額の汗を拭いながら、深々と頭を下げた。
「出過ぎた真似をいたしました。ですが、どうか、ご理解くださいませ。皇宮の決まりでございますので」
「……はい」
わたしは、俯いた。
決まり。
ここにも、決まりがある。
守らなければならないこと。守らなければ、叱られること。
この宮殿は、地下とは違う。
分かっている。分かっていた。
でも、決まりを破りかけたと思った瞬間、身体が勝手に縮こまってしまった。
「――下がれ」
低い声がした。
わたしは、顔を上げた。
あの人が、侍従の人たちのほうを見ていた。
声を荒らげたわけではなかった。
ただ、静かに、そう言っただけだった。
侍従の人たちが、はっとしたように動きを止めた。
「へ、陛下。しかし、お決まりが――」
「聞こえなかったか」
年配の侍従の人の顔から、さっと血の気が引いた。
侍従の人たちは、慌てて頭を下げて、薔薇の茂みの向こうへ下がっていった。
騎士の人たちは、最初から一歩も動いていなかった。
庭に、また静けさが戻ってきた。
風が吹いて、林檎の花びらが、ひらひらと舞い落ちた。
あの人は、わたしのほうへ向き直った。
いつものように、三歩の距離を保ったまま。
わたしは、胸元で手を握りしめたまま、俯いていた。
「リシェル」
「……はい」
「顔を上げろ。お前は、何も悪いことはしていない」
わたしは、おそるおそる顔を上げた。
あの人は、怒っていなかった。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔だった。
それから、あの人は林檎の木を見上げた。
白い花が咲き誇る、大きな枝を。
しばらく、そうしていた。
それから、ゆっくりと、わたしのほうへ視線を戻した。
「登りたいのか」
わたしは、息を止めた。
登りたいのか。
あの人は、そう訊いた。
侍従の人たちは、登ってはいけないと言った。危ないと言った。決まりだと言った。
誰も、わたしに、登りたいのかとは訊かなかった。
この人だけが。
この人だけが、わたしが何をしたいのかを、訊いてくれた。
わたしは、林檎の木を見上げた。
白い花。広がる枝。その向こうの、青い空。
――登りたい、のだろうか。
分からなかった。
登ったら、きっと落ちる。わたしの足は、まだ弱い。廊下を歩くだけで膝が震えるのに、木になんて登れるはずがない。
それに、決まりがある。
皇宮の庭木に登ってはいけない、という決まり。
でも。
あの枝の上から、もう一度、世界を見てみたい。
さっき、確かに、そう思った。
わたしは、長いあいだ黙っていた。
あの人も、黙って待っていた。
「……分かりません」
ようやく、それだけが出た。
「登れるとは、思いません。足が、まだ弱いので」
わたしは、林檎の木を見上げたまま言った。
「でも……」
言葉が、喉の奥でつかえた。
「でも、昔、一度だけ、登ったことがあって」
あの人の黒い瞳が、ほんのかすかに揺れたように見えた。
「いちばん低い枝まで、手を引いてもらって」
わたしは、胸元のボタンに、そっと手を当てた。
「そこから見た景色が、いつもと全然違って見えて」
それ以上は、言えなかった。
手を引いてくれたのが誰だったのかも。
その景色を、今も覚えていることも。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、あの子の横顔を見ていた。
――いちばん低い枝まで、手を引いてもらって。
覚えていた。
あの子は、それも覚えていた。
十年前の春。離れの庭の、林檎の木。
三日目に、あの子は初めて木に登った。登った、と言っても、いちばん低い枝に、自分が手を引いて、押し上げて、ようやく座らせただけだった。
枝の上で、あの子は目をまんまるにして、庭を見下ろしていた。
――すごい。いつもの庭なのに、知らない場所みたい。
あの子は、そう言った。
その顔を、覚えている。
アルフレッドは、目の前の林檎の木を見上げた。
皇宮の庭でいちばん古い木。
そして、この木には、もうひとつ、誰も口にしない話があった。
――先帝陛下がお定めになった、厳しいお決まり。
侍従長が叫んだ、庭木に登ることを禁じる決まり。
その決まりができたのは、二十年近く前のことだった。
当時六歳だった皇太子が、この林檎の木の、いちばん高い枝から落ちて、腕の骨を折ったからだ。
父帝は激怒し、その日のうちに、皇宮のすべての庭木への木登りを禁じた。
それでも、その皇太子は、隠れて登り続けた。
狩猟小屋の近くの森でも。
どこかの屋敷の、塀の向こうの林檎の木でも。
アルフレッドは、あの子の顔を見た。
林檎の木を見上げる、灰色がかった青い瞳。
そこに、ほんのかすかに、何かを求めるような光があった。
十年前、枝の上で目をまんまるにしていた子と、同じ光だった。
アルフレッドは、ゆっくりと上着の留め金に手をかけた。
黒い上着を、肩から外す。
あの子が、目をまたたいた。
「……陛下?」
アルフレッドは、上着を芝生の上に置いた。
それから、袖をまくり上げた。
薔薇の茂みの向こうで、侍従長が息を呑む音が聞こえた。
騎士団長のガレスが、額に手を当てて天を仰ぐのが、目の端に見えた。
アルフレッドは、林檎の木の幹に、手をかけた。
古い樹皮が、手のひらにざらりと触れた。
十年ぶりの感触だった。




