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第44話 皇帝、木に登る

「へ、へ、陛下ぁっ!」

 悲鳴が、庭じゅうに響き渡った。

 薔薇の茂みの向こうから、さっきの年配の侍従の人が、両手を振り回しながら転がるように駆け出してきた。

「なりませぬ! なりませぬぞ、陛下っ! 先帝陛下のお定めが! 皇宮の庭木に登ることは――」

 あの人は、振り返らなかった。

 林檎の木の幹に両手をかけて、ぐっと身体を引き上げた。

 足を、幹の瘤にかける。

 もう片方の手を、上の枝の付け根に伸ばす。

 わたしは、芝生の上に立ったまま、言葉もなくそれを見上げていた。

 皇帝が。

 黒い上着を芝生の上に脱ぎ捨てて、白いシャツの袖をまくり上げて。

 林檎の木に、登っていた。


「陛下っ! お、お待ちを! せめて、梯子を! 梯子をお持ちいたしますから!」

 年配の侍従の人は、木の根元まで駆け寄ってきて、幹にすがりつくようにして上を見上げた。

 その後ろから、若い侍従の人たちが慌てて追いかけてくる。

「侍従長さま、お下がりを! 危のうございます!」

 侍従長。

 この人は、侍従の人たちのなかでいちばん偉い人なのだと、わたしはそのとき初めて知った。

「どなたか、ガレス様を! 騎士団長をお呼びして――」

「俺はここにいる」

 低い声がした。

 黒い軍装の騎士の人が、いつの間にか侍従長のすぐ後ろに立っていた。

 ガレス様、と呼ばれたその人は、額に手を当てたまま、天を仰いでいた。

「ガレス様っ! お止めくださいませ! 陛下が、陛下が木に!」

「見れば分かる」

「でしたら、お止めくださいっ!」

「止められるなら、とうに止めている」

 騎士団長だというその人は、深々とため息をついた。

「……いざというときに受け止められるよう、下にいる。それしかできん」

 ガレスさんは、木の真下に移動して、両腕を少しだけ広げた。

 まるで、落ちてくるものを受け止める準備をするみたいに。

 侍従長は、その姿を見て、さらに顔を青くした。


 あの人は、いちばん低い枝に、もう手が届いていた。

 ひょい、と身体を引き上げる。

 太い枝の上に、あっという間に腰を下ろした。

 軽々と。

 まるで、昔から何度もそうしてきたみたいに。

 ――あ。

 わたしは、息を止めた。

 あの枝。

 いちばん低い、太い枝。

 ずっと昔、あの子に手を引いてもらって、わたしが座った枝と、同じくらいの高さだった。

 あの人は、枝の上で、ゆっくりと庭を見回した。

 それから、わたしのほうを見下ろした。

「……ここからだと、違って見えるな」

 あの人は、静かに言った。

 ――すごい。いつもの庭なのに、知らない場所みたい。

 ずっと昔、わたしがそう言ったのを、思い出した。

 わたしは、胸元のボタンを、ぎゅっと握りしめた。


 あの人は、枝の上で少しだけ休んでから、また上の枝に手を伸ばした。

「陛下っ! そこでおやめください! もうそれ以上はっ!」

 侍従長が、木の根元で叫んだ。

 あの人は、聞いていなかった。

 次の枝に手をかけて、身体を引き上げる。

 さらに上へ。

 またその上へ。

 白い花が咲き誇る枝のあいだを、あの人の白いシャツが、するすると上っていった。

 枝が揺れるたびに、花びらがはらはらと舞い落ちた。

 木の根元の侍従長の頭に、肩に、白い花びらが降り積もっていく。

 侍従長は、それを払う余裕もなく、両手を胸の前で組んで、ただ天を仰いでいた。

「ああ……ああ……先帝陛下、お許しくださいませ……」

 その声が、ほとんど祈りのようになっていた。


 そのとき、庭の向こうから、誰かが駆けてくる足音がした。

 この宮殿に着いた日に、玄関で出迎えてくれた人だった。あの人が「クラウス」と呼んでいた人。

 書類の束を胸に抱えたまま、息を切らして、白髪まじりの髪を振り乱していた。

「へ、陛下が木に登っておられると聞いて――」

 その人は、木の根元で立ち止まって、上を見上げた。

 その顔から、すうっと血の気が引いていった。

「……本当に」

 その人は、書類の束を取り落としそうになった。

「本当に、登っておられる……」

「宰相閣下っ! お止めくださいませっ!」

 侍従長が、クラウスさんにすがりついた。

「先帝陛下のお定めが! 皇宮の庭木が!」

「止められるなら、とうに止めております」

 宰相閣下。前にミーナさんが話していた、宰相さまというのは、この人のことだったのだ。

 クラウスさんは、ガレスさんとまったく同じことを言った。

 それから、深々と、深々とため息をついた。

「南部の方々をお待たせしてまで、なさることがこれとは……」


 あの人は、木のずいぶん高いところまで登っていた。

 太い枝の付け根に腰を下ろして、片手で上の枝をつかんでいる。

 白い花に囲まれて、あの人の姿が、ほとんど見えなくなっていた。

 白いシャツと、黒い髪だけが、花のあいだからのぞいていた。

 あの人は、そこで動きを止めた。

 枝の上から、遠くを見ていた。

 皇宮の屋根の向こう。帝都の街並みの、さらに向こうを。

 何の表情も浮かんでいない顔で。

「……思ったより、高いな」

 あの人が、ぽつりと言った。

 木の根元で、侍従長が、ひっと短い悲鳴を上げた。


 そのときだった。

 ばさばさっ、と羽音がした。

 どこからともなく、一羽の鳩が飛んできた。

 灰色の、ふっくらとした鳩だった。

 鳩は、林檎の木の上をくるりと一度旋回すると――。

 あの人の、頭の上に。

 ちょこんと、止まった。

 庭じゅうが、静まり返った。

 侍従長も、クラウスさんも、ガレスさんも、若い侍従の人たちも。

 みんな、口を開けたまま、木の上を見上げていた。

 あの人は、動かなかった。

 頭の上に鳩を乗せたまま、枝の上に座って、遠くを見ていた。

 何の表情も浮かんでいない顔で。

 黒い髪の上で、灰色の鳩が、首をかしげた。

 それから、のんびりと、羽づくろいをはじめた。

 あの人は、やっぱり動かなかった。

 ただ、ほんのわずかに、眉が寄った。

 それから、低い声で、ぼそりと言った。

「……降りろ」

 鳩は、降りなかった。

 あの人の頭の上で、くるっくー、と鳴いた。


 ――くるっくー。

 その瞬間、頭の中に、声がよみがえった。

 ミーナさんの声。

 ――おじいさんの帽子の上に、ちょこんと止まったんです。

 ――そしたら鳩が、帽子の上で、くるっくーって鳴いて。

 庭師のおじいさん。帽子の上の鳩。鋏を持ったまま、その場でくるっと一回転。

 あのとき、わたしは笑えなかった。

 頭の中で光景を思い浮かべても、ちっとも笑えなかった。

 でも。

 今、目の前に。

 皇帝が。

 血も涙もないと呼ばれる人が。

 林檎の木の上で、白い花に埋もれて、頭に鳩を乗せて、真顔で「降りろ」と言っていた。

 鳩は、少しも降りる気配がなかった。

 くるっくー、と、もう一度鳴いた。

 あの人の眉が、もう少しだけ寄った。


 喉の奥で、何かがはじけた。

 くすぐったいような、むずむずするような、じっとしていられないような何かが、胸の奥から、ものすごい勢いでせり上がってきた。

 止めようとした。

 口を押さえようとした。

 でも、間に合わなかった。

「――ふ」

 息が、漏れた。

「ふ、ふふ……っ」

 肩が、震えた。

 お腹の奥が、きゅうっと縮んだ。

 止まらなかった。

「ふふっ、あ、あはっ……」

 声が、出た。

 わたしの口から。

 自分でも聞いたことのない、声が。

「あはは……っ、ふ、ふふふっ……!」

 わたしは、両手で口を押さえた。

 それでも、止まらなかった。

 肩が震えて、お腹が痛くて、目の端がじんわりと熱くなって、それでも、喉の奥から次から次へと、笑い声がこぼれ出てきた。

 ――笑っている。

 わたしが。

 声を出して、笑っている。

 頬が、くすぐったかった。

 胸の奥が、そわそわして、じっとしていられなかった。

 林檎の木の下で、あの子と花冠を作って、下手くそだと言いあって、草の上に寝転がったとき。

 あのときと、同じだった。

 わたしは、芝生の上にしゃがみこんで、お腹を抱えて笑っていた。

 皇帝の頭の上の鳩が、また、くるっくー、と鳴いた。

 それが、またおかしくて。

 わたしは、もう、どうしても、笑うのを止められなかった。


 庭じゅうが、静まり返っていた。

 侍従長も、クラウスさんも、ガレスさんも、若い侍従の人たちも。

 さっきまで皇帝を見上げていたみんなが、今は、わたしを見ていた。

 芝生の上でしゃがみこんで、声を上げて笑っている、わたしを。

 誰も、何も言わなかった。

 風が吹いて、林檎の花びらが、ひらひらと舞い落ちた。

 わたしの笑い声だけが、庭に響いていた。


 そして、林檎の木の上で。

 頭に鳩を乗せたまま、あの人が、身じろぎもせずに、わたしを見下ろしていた。

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