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第45話 笑った

アルフレッドは動けなかった。

 枝をつかんだ手も、幹に預けた背中も、木の一部になってしまったように固まっていた。

 頭の上で鳩が羽づくろいをしている。そのことすら、もうどうでもよかった。

 芝生の上で、あの子が笑っていた。

 しゃがみこんで、両手で口を押さえて、肩を震わせて。

 押さえた指のすきまから、笑い声がこぼれていた。

 細くて、少しかすれていて、ときどき息継ぎに失敗したようにひっくり返る声だった。

 上手な笑い方ではなかった。

 十年近く使われなかった声が、使い方を思い出しながら、それでも止まらずにあふれ出している。そういう笑い方だった。

 ――笑った。

 頭の中で、その言葉だけが何度も繰り返された。

 ――あの子が、笑った。


   ◇ ◇ ◇


 十年前の春。

 離れの庭の、林檎の木の下。

 あの子が初めて、ほどけない花冠を作った日のことだった。

 三つ目の花冠を、あの子は両手で大事そうに持っていた。上手だな、僕のより上手だ、と言うと、あの子は信じられないという顔をした。

 だから、それを自分の頭に載せてやった。

 子どもの手で編んだ小さな輪は、十四の少年の頭には小さすぎた。載せたとたんにずるりと傾いて、片目の上に引っかかった。

 片目を花で塞がれたまま、わざと胸を張ってみせた。

 ――どうだ。似合うか。

 あの子は、ぽかんと口を開けた。

 それから、ぷっと吹きだした。

 小さな肩を震わせて、草の上に転がるようにして笑った。笑いながら、似合わない、と言った。似合わないです、と言い直して、また笑った。

 その声を聞きながら、自分も笑っていた。

 何がそんなにおかしかったのか、今となってはよく分からない。

 ただ、あの子が笑うのを見ているのが、うれしくてたまらなかった。

 この子は、こんなふうに笑えるのだ。

 泣いてばかりいるこの子が、こんな顔で笑えるのだ。

 そのとき、少年だった自分は思った。

 ――次に会うときも、こうやって笑わせてやろう。


 次は、来なかった。

 父が死に、叔父が玉座を奪い、自分は都を追われた。

 戦場で、何度もあの笑い声を思い出した。

 泥の中で眠れない夜に。仲間の亡骸を埋めた朝に。剣を握る手が震えて止まらなかった日に。

 林檎の木の下で、花冠を片目に引っかけた自分を見上げて、転がるように笑っていた小さな女の子。

 あの子をもう一度笑わせる。

 それだけを、ずっと胸の底に置いてきた。

 帝都を取り戻したら。玉座を取り戻したら。あの屋敷の塀を、今度は正面の門から訪ねていけるようになったら。

 そうしたら、もう一度。

 だが、たどり着いた先にあったのは、十歳で死んだという一枚の届け出だった。

 それからの三年、あの笑い声を思い出すたびに、胸の奥に冷たいものが沈んでいった。

 二度と聞けない声として。


   ◇ ◇ ◇


 その声が、今、聞こえていた。

 十年前とは違う声だった。

 あの頃よりも低くて、細くて、ひどくかすれていた。

 それでも同じだった。

 ぷっと吹きだして、止まらなくなって、身体を丸めて笑う。その笑い方が、何ひとつ変わっていなかった。

 アルフレッドは、枝をつかむ指に力をこめた。

 そうしていないと、手を離してしまいそうだった。

 喉の奥が、焼けるように熱かった。

 目の奥も。

 ――泣くな。

 自分に言い聞かせた。

 泣き方など、とうに忘れたはずだった。父が死んだ夜にも、仲間を埋めた朝にも、死亡届を手にした日にも、一滴も出なかった。

 それなのに今、たかが一人の娘の笑い声で、目の奥がこんなにも熱い。

 アルフレッドは、奥歯を噛みしめた。

 目を逸らすことはできなかった。

 一瞬でも長く、見ていたかった。


 やがて、笑い声が少しずつ小さくなっていった。

 あの子は、しゃがみこんだまま、肩で息をしていた。

 両手で口を押さえたまま、目の端を指でそっとぬぐっている。

 笑いすぎて、目が潤んだのだろう。

 アルフレッドは息を詰めた。

 頼む。落ちるな。

 ――ここで石がひとつでも落ちたら、あの子はきっと、今の笑い声ごと後悔する。

 けれど、あの子の指先には何も残っていなかった。

 うっすらと濡れた目の端を、あの子は不思議そうに見下ろして、それから、ほっと小さく息をついた。

 アルフレッドも、ようやく息を吐いた。

 あの子が、顔を上げた。

 灰色がかった青い瞳が、まっすぐにこちらを見上げた。

 頬が、まだほんのりと赤かった。

 口元に、笑いの名残が、かすかに残っていた。


 ――もう一度。

 その言葉が、喉までせり上がってきた。

 もう一度、笑ってくれ。

 今の声を、もう一度聞かせてくれ。

 十年待った。十年、そればかり思ってきた。だから、もう一度だけ。

「……もう一度」

 声が出ていた。

 かすれた、自分でも聞き取れないほどの小さな声だった。

 あの子が、首をかしげた。

「……陛下?」

 アルフレッドは、口を閉じた。

 喉元まで来ていた言葉を、無理やり押し戻した。

 ――笑ってくれ。

 そう言ったら、あの子はどうするか。

 分かっていた。

 あの子は、笑おうとするだろう。

 皇帝に頼まれたのだから。この宮殿に置いてもらっている身なのだから。望まれたものを差し出さなければならないと、あの子の身体は十年かけて覚えこまされている。

 そして、笑えないだろう。

 鏡の前で、あの子が口の端をほんの少し持ち上げてみせたときの顔を、アルフレッドは覚えていた。

 笑おうとして、泣きそうな顔にしかならなかった顔。

 侍女の前で笑おうとして困らせてしまった、とあの子は言っていた。

 ――もう一度笑ってくれ。

 それは、泣いてくれと言うのと、何が違う。

 勅令第一七号を書かせたのは、自分だった。命令でも懇願でも取引でも、あの子に涙を求めた者は大逆とする。与えておいて、見返りに涙を期待することさえ許さない、と。

 涙だけではない。

 あの子から何かを引き出そうとすること。それ自体を、あの子はもう嫌というほど味わってきた。

 今の笑い声は、誰にも求められずに、あの子の中から勝手にこぼれ出たものだ。

 だからこそ、あんな声だったのだ。

 それを、自分の願いで汚すわけにはいかなかった。


「陛下?」

 あの子が、もう一度呼んだ。

 少しだけ、不安そうな声になっていた。

 アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。

「……もう一度、上を見てくる、と言いかけた」

 口から出たのは、ひどく下手な言い訳だった。

 木の根元で、ガレスが小さく咳きこむ音がした。

 あの子は、少し考えるような顔をして、それから、こくりと頷いた。

「……はい」

 それだけだった。

 あの子は、それ以上何も訊かなかった。

 アルフレッドは、枝の上から目を上げた。

 白い花の向こうに、空が広がっていた。

 十年前と同じ、春の空だった。


 頭の上で、鳩がくるっくーと鳴いた。

 アルフレッドは、片手を上げて、そっと頭の上を払った。

 鳩は、ようやく、不満そうに羽を鳴らして飛び立っていった。

 芝生の上で、あの子が、また小さく、ふっと息を漏らした。

 さっきほどではなかった。

 すぐに口を押さえて、あわてたように俯いた。

 それでも、確かに聞こえた。

 アルフレッドは、何も言わなかった。

 ただ、枝をつかむ手の力を、ほんの少しだけ緩めた。


   ◇ ◇ ◇


 降りるのは、登るよりも時間がかかった。

 侍従長は、木の根元で両手を組んだまま、皇帝の足が一段降りるたびに、小さく悲鳴を上げていた。

 最後の枝から芝生に飛び降りると、ガレスが広げていた腕を、黙って下ろした。

「……二度となさいませんように」

 ガレスが、低い声で言った。

「約束はしない」

「でしょうな」

 ガレスは、天を仰ぐのをやめて、深々とため息をついた。

 クラウスは、書類の束を胸に抱えたまま、何も言わなかった。

 ただ、主君の顔をじっと見ていた。

 何かを確かめるように。


 アルフレッドは、芝生の上の上着を拾おうとして、手を止めた。

 上着は、そこになかった。

 あの子が、持っていた。

 黒い上着を、汚れないように両腕に抱えて、三歩離れたところに立っていた。

「……落ちていたので」

 あの子は、小さな声で言った。

「花びらが、たくさん、ついてしまって」

 上着の上に、白い花びらがいくつも載っていた。

 あの子は、それを一枚ずつ、指先で払おうとしていた。

 払いきれずに、困ったような顔をしていた。

「……すまない」

 アルフレッドは、上着を受け取った。

 あの子の腕から離れた上着は、ほんの少しだけ、温かかった。

「あの」

 あの子が、俯いたまま言った。

「さっきは……笑ってしまって、ごめんなさい」

 アルフレッドは、あの子の顔を見た。

「陛下が、木の上で、真剣なお顔をなさっていたのに。頭の上に、鳩が……」

 言いかけて、あの子の肩が、またかすかに震えた。

 あわてて唇を噛んで、こらえている。

「謝ることじゃない」

 アルフレッドは言った。

 それ以上は、言わなかった。

 笑ってくれてよかった、とも。

 また笑ってほしい、とも。

 どちらも、言えば、あの子にとっては重荷になる。

「……戻るか」

「……はい」

 アルフレッドは、上着を腕にかけたまま、石畳の小道を歩きだした。

 あの子が、三歩後ろからついてくる。

 振り返らなかった。

 振り返れば、また、あの子の顔を見てしまう。

 見てしまえば、今度こそ、言ってしまいそうだった。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、皇帝の執務室の灯りは遅くまで消えなかった。

 クラウスは、扉の前で一度足を止めてから、軽く叩いた。

「入れ」

 アルフレッドは、机の前に座っていた。

 書類は広げられていたが、一枚もめくられていなかった。

「南部の代表の件で、明日の段取りを」

「ああ」

 クラウスは、予定表を差し出しかけて、やめた。

 机の向こうの主君の顔を見ていた。

「……陛下」

「何だ」

「先ほど、木の上で。何を、おっしゃりかけたのですかな」

 アルフレッドは、答えなかった。

 窓の外の暗い庭を見ていた。

 クラウスは、それ以上は訊かなかった。

 予定表を机の端に置いて、一礼した。

「わたくしも、聞いておりました」

 扉に手をかけたところで、クラウスが言った。

「あの方の、笑い声を」

 アルフレッドは、振り返らなかった。

「――十年前にも、聞いたことがある」

 ぽつりと、それだけ言った。

 クラウスは、しばらく扉の前に立っていた。

 それから、静かに頭を下げて、出ていった。


 ひとりになった執務室で、アルフレッドは、机の引き出しの鍵を開けた。

 紺色の、子ども用の上着。

 真ん中のボタンが、ひとつだけ欠けている。

 その上着を、手のひらでそっとなぞった。

 ――もう一度、笑ってくれ。

 誰もいない部屋で、その言葉を、唇の形だけでなぞった。

 声には、しなかった。

 あの子の前で言わなかった言葉を、ここで言ってしまったら、きっといつか、あの子の前でも言ってしまう。

 アルフレッドは、引き出しを閉めた。

 鍵をかけた。

 それから、窓辺に立って、東の客殿のほうを見た。

 あの子の部屋の窓に、まだ小さな灯りがともっていた。

 あの窓辺には、しおれた花冠と、小さな白い花冠が、並んでいるはずだった。

 ――求めない。

 アルフレッドは、自分に言い聞かせた。

 笑顔も、涙も、何ひとつ。

 あの子が自分で笑いたくなったときに、ただ、そこにいればいい。

 今日のように。

 窓の向こうの小さな灯りを見つめながら、アルフレッドは、あの声を、何度も、何度も、胸の奥で繰り返していた。

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