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第46話 笑うことまで命令しない

その夜、わたしはなかなか眠れなかった。

 寝台の上で、何度も寝返りを打った。

 頬が、まだ少しだけくすぐったかった。お腹の奥にも、笑いすぎたときの鈍い痛みが、うっすらと残っていた。

 ――笑った。

 声を出して、笑った。

 何年ぶりなのか、自分でも分からなかった。離れの庭で、あの子と転げまわって笑った春から、一度も。

 あの声が自分の喉から出たのだと思うと、今でも不思議だった。

 うれしかった。

 たぶん、うれしかったのだと思う。

 でも、寝台の天蓋を見上げているうちに、胸の奥に、別の何かが少しずつ沈んできた。

 冷たくて、重いものが。


 ――もう一度。

 あの人は、そう言いかけた。

 木の上から、わたしを見下ろして。かすれた、小さな声で。

 ――もう一度、上を見てくる、と言いかけた。

 あとから、あの人はそう言った。

 でも、違うと思った。

 あの人は、上なんて見ていなかった。最初から最後まで、ずっとわたしのほうを見ていた。

 それなら、あの人は何を言いかけたのだろう。

 ――もう一度。

 その続きを考えようとして、わたしは、毛布の中で身体を丸めた。

 分かる気がした。

 分かってしまう気がした。

 お屋敷では、いつもそうだった。

 わたしが泣くと、お母さまは石を拾って、それから必ず訊いた。今のは、何がつらかったの、と。

 次の日、同じことが起きた。

 スープに何かが入っていて、熱が出て泣いた日のあとは、何度も同じスープが運ばれてきた。お兄さまの鞭で泣いた日のあとは、お兄さまが何度も地下へ降りてきた。

 わたしから何かが出てくると、それを出させたものが、繰り返される。

 出てくるまで。

 出てこなくなるまで。

 ――笑った。

 今日、わたしの中から、笑い声が出てきた。

 それなら、明日は。

 明日も、あの人は木に登るのだろうか。鳩を連れてくるのだろうか。

 笑え、と。

 もう一度笑え、と、言われるのだろうか。

 わたしは、胸元のボタンを握りしめた。

 ――笑えなかったら、どうしよう。

 鏡の前で、どうやっても泣きそうな顔にしかならなかった自分を、思い出した。

 あの笑い声は、出そうとして出したものではなかった。勝手に出てきたのだ。

 もう一度と言われても、どうすれば出てくるのか、わたしには分からなかった。


   ◇ ◇ ◇


「リシェル様っ」

 翌朝、部屋に入ってきたミーナさんは、扉を閉めるなり、そばかすの散った頬を真っ赤にしていた。

「聞きました! 昨日のお庭のこと、聞きましたっ!」

 わたしは、化粧台の腰掛けの上で、びくりと肩をすくめた。

「陛下が林檎の木にお登りになって、頭に鳩が止まって、それで、リシェル様が――」

 ミーナさんは、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。

「笑われたって! 声を出して、お笑いになったって! 侍従の方たちが、もう朝から厨房でその話ばっかりで――」

「ミーナ」

 後ろから入ってきたセレナさんが、静かに名前を呼んだ。

 ミーナさんの口が、ぴたりと止まった。

「あ」

 ミーナさんは、わたしの顔を見た。

 それから、はっとしたように両手で口を押さえた。

「す、すみません。わたし、はしゃいじゃって……」

「いいえ」

 わたしは、首を振った。

 でも、声が少しだけ硬くなっていた。

 ミーナさんは、何か言いたそうにもじもじしていた。

「……あの、わたしも、見たかったなって。リシェル様が、お笑いになるところ」

 言ってから、ミーナさんは、また慌てて口を押さえた。

「ち、違うんです。笑ってくださいって意味じゃなくて。そうじゃなくて」

 ミーナさんは、困ったように眉を下げた。

「わたし、前に、リシェル様を困らせちゃったから。鳩の話をして。だから、昨日のお話を聞いて、すごく、うれしくて……」

 わたしは、ミーナさんを見た。

 ミーナさんの目が、少しだけ潤んでいた。

 ――うれしくて。

 この人は、わたしが笑ったことを、うれしいと思ってくれているのだ。

 それなのに、見たかった、と言ったあとで、慌てて取り消した。

 笑ってほしい、とは、言わなかった。

「……ありがとうございます」

 わたしは、小さく言った。

 ミーナさんは、ぱっと顔を明るくして、それから急に恥ずかしくなったように、窓辺の花冠の皿の水を替えにいった。

 セレナさんは、何も言わずに、わたしの髪に櫛を入れはじめた。

 ゆっくりと、いつものように。

 鏡の中で、セレナさんの口元が、ほんの少しだけゆるんでいるように見えた。


   ◇ ◇ ◇


 昼食の時間に、あの人はいつものように来た。

「入っていいか」

「……はい」

 扉が開いて、あの人が銀の盆を持って入ってきた。

 盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。

 それから、いつものように、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろした。

 わたしは、化粧台の腰掛けから立ち上がって、あの人から遠い側を回って卓のそばへ行った。

 盆の上には、いつもの食事が並んでいた。

 スープと、パンが二つ。

 わたしは、卓のそばに立ったまま、スープを一口飲んだ。

 ――来る。

 匙を持つ手が、少しだけ震えた。

 昨日のことを、あの人は何か言うはずだった。

 笑ったな、と。

 あるいは、もう一度、と。

 わたしは、二口目を飲んだ。

 三口目。

 あの人は、何も言わなかった。

 絨毯の上で片膝を立てて、窓の外を見ていた。

 四口目。五口目。

 六口目。七口目。

 あの人は、まだ窓の外を見ていた。

 昨日の庭のほうを。

 でも、何も言わなかった。

 十口目を飲んで、パンを二つ食べた。


 わたしが食べ終わっても、あの人は、何も言わなかった。

 昨日のことも。木のことも。鳩のことも。

 わたしが笑ったことも。

 いつもと同じように、卓の上の空になった器をちらりと見て、小さく頷いただけだった。

 それから、絨毯から立ち上がろうとした。

「……あの」

 気がつくと、声が出ていた。

 あの人の動きが止まった。

「何だ」

 わたしは、卓の縁を両手で握りしめた。

 訊いてはいけないのかもしれなかった。

 訊いたら、あの人は、言うのかもしれなかった。

 それでも、待っているほうが、ずっと怖かった。

「昨日、木の上で」

 声が、かすれた。

「何を、おっしゃりかけたんですか」

 あの人は、黙っていた。

 長いあいだ、黙っていた。

 浮かせかけた腰を、もう一度絨毯の上に下ろして、膝の上に置いた自分の手を見つめていた。

「……言わないことにした」

 低い声だった。

「言わない、ことに」

「ああ」

 わたしは、あの人の顔を見た。

 何の表情も浮かんでいない、いつもの顔。

 でも、昨日、木の上から見下ろしていたあの顔とは、少しだけ違って見えた。

「……わたし」

 喉の奥で、言葉がつかえた。

 それでも、言わなければいけないと思った。

「もう一度、と言われても、たぶん、できません」

 あの人の膝の上の指が、かすかに動いた。

「昨日のは、勝手に出てきたので。どうやったら出てくるのか、自分でも分からなくて」

 声が、だんだん小さくなった。

「だから、もし、そう言われたら……」

 その先は、言えなかった。

 わたしは、俯いた。

 卓の縁を握った手が、冷たくなっていた。


「言わない」

 あの人が言った。

 わたしは、顔を上げた。

 あの人は、まっすぐにわたしを見ていた。

「言わないと決めた。昨日の木の上で」

「……どうして、ですか」

 あの人は、少しのあいだ黙った。

 言葉を探しているようだった。

「お前が、やろうとするからだ」

 わたしは、まばたきをした。

「笑え、と言えば、お前は笑おうとする。笑えなければ、自分が悪いと思う」

 あの人は、静かに続けた。

「それでは、泣けと言われて泣くのと、何も変わらない」

 息が、止まった。

 ――泣けと言われて、泣くのと。

 お母さまの声が、耳の奥でよみがえった。

 ――泣きなさい、リシェル。

 何度も。何度も。

 泣けなかった日の、冷たい目。

 あの人は、お屋敷でのことを、どこまで知っているのだろう。

 わたしの口から話したのは、ほんの少しだけだった。

 それなのに、あの人の言葉は、まっすぐにそこへ届いていた。

「勅令は、涙のことしか書いていない」

 あの人は、窓の外へ目を逸らした。

「だが、俺は、涙だけのつもりで書かせたわけじゃない」

 わたしは、何も言えなかった。

「笑うかどうかは、お前が決めることだ。俺が決めることじゃない」

 それだけ言って、あの人は口を閉じた。


 わたしは、あの人の横顔を見つめた。

 ――笑うかどうかは、お前が決めること。

 分からなかった。

 どうして、この人は。

 昨日、木の上で、あの人は確かに何かを言いかけた。

 かすれた、苦しそうな声で。

 もう一度、と。

 あの声を、わたしは聞いていた。

 あれは、命令の声ではなかった。

 お母さまの「泣きなさい」とも、お兄さまの「泣け」とも違った。

 もっと、ずっと、弱い声だった。

 喉の奥から、こらえきれずにこぼれ落ちたような。

 ――この人は、わたしに、笑ってほしいのだ。

 ふいに、そう分かった。

 分かってしまった。

 昨日、木の上から見下ろしていたあの目は、そういう目だった。

 ずっと遠くから、ずっと前から、何かを待っていた人の目。

 それなのに、この人は、言わなかった。

 言いかけて、飲みこんだ。

 ほしいものを、ほしいと言わなかった。

 わたしが、それを差し出さなければいけないと思わないように。


 お屋敷では、誰もがわたしに何かを求めた。

 お母さまは涙を。お兄さまは涙を。お父さまは、涙から生まれる石を。

 求めて、求めて、出てこなければ、取り上げた。

 それが当たり前だった。

 ほしいものがあれば、手に入れる。持っている者から、引き出す。

 それが、人というものだと思っていた。

 でも、この人は。

 皇帝なのに。

 この国でいちばん、ほしいものを何でも手に入れられるはずの人なのに。

 ほしいと思っているものを、わたしからは、引き出そうとしなかった。

 ――そんな人が、いるのだろうか。

 いたのだ。

 目の前に。

 わたしは、胸元のボタンを、手のひらでそっと包んだ。

 胸の奥が、きゅうっと痛かった。

 でも、昨夜の冷たくて重い痛みとは、違っていた。

 もっと、温かい痛みだった。


「……陛下」

「何だ」

「昨日、上着に、花びらがたくさんついていましたけど」

 あの人が、こちらを見た。

「ちゃんと、取れましたか」

 あの人は、少しのあいだ、何も言わなかった。

 それから、ほんのわずかに、視線を逸らした。

「……まだ、二、三枚残っている」

「……そう、ですか」

 わたしは、俯いた。

 口元が、むずむずした。

 昨日ほどではなかった。声も出なかった。

 ただ、頬が少しだけ、くすぐったかった。

 あの人は、何も言わなかった。

 わたしの顔を、見ないようにしているようだった。

 窓の外を見たまま、立ち上がった。

「……夕食に、また来る」

「はい」

 扉が閉まる音がした。

 わたしは、ひとりになった部屋で、卓の上の空の皿を見つめていた。

 笑ってほしいと思っているのに、笑えとは言わない人。

 ほしいものを、ほしいと言わない人。

 そんな人のことを、わたしは、ほかに一人しか知らなかった。

 ――ただのボタンだよ。

 林檎の木の下で、自分の上着からボタンをひとつ外して、わたしの手のひらに握らせてくれた男の子。代わりに何かをほしいとは、ひとことも言わなかった男の子。

 わたしは、ボタンを握りしめた。

 考えては、いけない。

 期待しては、いけない。

 そう思いながら、わたしは、窓辺の二つの花冠を、長いあいだ見つめていた。

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