第47話 焼き菓子戦争
「屋台の、ですか」
皇宮の厨房で、料理長ハインツは手にしていた木べらを止めた。
朝の仕込みのさなかだった。竈の火がはぜて、大鍋の湯がぐらぐらと煮え立っている。その湯気の向こうに、皇帝が立っていた。
皇帝が厨房に足を運ぶことなど、二十年以上ここにいて一度もなかった。
「街の広場で売っているような、蜂蜜の焼き菓子だ」
皇帝は、表情ひとつ変えずに言った。
「上品にしなくていい。形がそろっていなくていい。紙に包んで、手でつかんで食べるようなものだ」
「……はあ」
ハインツは、木べらを握ったまま、しばらく考えた。
皇宮の厨房で作る菓子は、どれも宴の卓に並べるためのものだった。薄く、軽く、美しく。ひと口で消えるような繊細なもの。
屋台の焼き菓子など、作ったことがなかった。
若い頃に下町の店で修業していた時分に、まかないで焼いたことがあるくらいだ。蜂蜜をたっぷり練りこんで、厚めに焼いて、表面が少し焦げるくらいの。
「蜂蜜は、どれほど」
ハインツは、慎重に訊いた。
あの方のパンには、蜂蜜をほんの少しだけ練りこんだ。香りがするかしないか、くらいに。蜂蜜という言葉に、あの方がどう反応するか分からなかったからだ。
「たっぷりだ」
皇帝は言った。
「それでいい。あれは、たっぷりのほうがいい」
ハインツは、皇帝の顔をまじまじと見た。
それから、深々と頭を下げた。
「かしこまりました。昼までに、焼き上げてごらんにいれましょう」
「数は、五つ」
「五つ、でございますか」
「五つだ」
皇帝は、それだけ言って、厨房を出ていった。
ハインツは、首をかしげた。
二人で分けるなら、四つか六つのほうが、ちょうどいいだろうに。
◇ ◇ ◇
その日の昼、あの人の持ってきた銀の盆には、いつもの食事のほかに、もうひとつ小さな皿が載っていた。
白い陶器の皿。
その上に、茶色く焼けた、丸い焼き菓子が五つ。
どれも形がばらばらだった。大きいのも小さいのもあって、縁がところどころ焦げていた。
甘い匂いがした。
蜂蜜の匂い。
わたしは、化粧台の腰掛けの上で、身体を硬くした。
――今度は焼き菓子もつけてあげましょうか。蜂蜜のたっぷり入ったものよ。
お母さまの声が、耳の奥でよみがえった。
あの日、お母さまは、わたしを泣かせるために、焼き菓子の話をした。
この宮殿に来た日の馬車の中にも、蜂蜜の焼き菓子がひとつ入っていた。わたしは、目を向けることさえできなかった。
あの人は、盆を卓の上に置いた。
いつものように、曲がった匙でスープをひと口ずつ確かめる。パンの端をちぎって、口に入れる。
それから、焼き菓子の皿に手を伸ばした。
ひとつずつ、端を小さく割って、口に入れていく。
五つとも。
あの人の手元に、割った端のかけらはひとつも残らなかった。
それから、いつものように、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろした。
何も言わなかった。
焼き菓子のことも。
わたしは、いつものように、あの人から遠い側を回って卓のそばへ行った。
スープを十口飲んだ。パンを二つ食べた。
そのあいだ、ずっと、目の端に焼き菓子の皿が見えていた。
茶色くて、不格好で、ところどころ焦げている。
――食べなくていい。
あの人は、何も言わなかった。
いつもそうだった。この人は、食べろとは言わない。
だから、食べなくていいのだ。
わたしは、パンの最後のひと口を飲みこんで、皿のほうを見ないようにした。
でも。
甘い匂いが、ずっと鼻の奥に残っていた。
お母さまの声と一緒に。
それから、もうひとつ。
――じゃあ、今度持ってくるよ。蜂蜜がたっぷり入ったやつ。
あの子の声が。
紙の包みを開けたときの、ふわっと広がった甘い匂い。
林檎の木の根元に並んで座って、半分ずつ食べた焼き菓子。
あれが、わたしが生まれて初めて食べた焼き菓子だった。
あの匂いと、この匂いは、同じだった。
お母さまが話していた焼き菓子は、わたしは一度も食べたことがなかった。泣いたら、と言われて、一度ももらえなかった。
わたしが知っている蜂蜜の焼き菓子は、あの子がくれたものだけだった。
わたしは、そっと、皿のほうへ目を向けた。
「……あの」
あの人が、窓の外からこちらへ顔を向けた。
「これは」
「料理長が焼いた」
あの人は短く言った。
「街の屋台で売っているようなものを、と言った。形は悪いが、味は確かめた」
街の屋台。
――焼きたての菓子の匂いが、通りじゅうに漂ってるんだ。
あの子が、そう話してくれた。
わたしは、焼き菓子の皿を見つめた。
どうして、この人は。
どうして、こういうものを。
訊きたかった。
でも、訊いたら、また胸の奥がざわざわしてしまう気がした。
わたしは、ひとつ、手に取った。
いちばん小さくて、いちばん焦げているのを。
温かかった。
端が、あの人の割ったところだけ、少し欠けていた。
わたしは、それを、ほんの少しだけかじった。
甘かった。
蜂蜜の甘さが、舌の上でとろりと溶けた。焦げたところが少しほろ苦くて、それがかえって、甘さを引き立てていた。
――おいしい。
同じ味だった。
十年前、林檎の木の根元で食べたのと。
わたしは、ゆっくりと、ひと口ずつ食べた。
ひとつを食べ終わるまで、ずいぶん時間がかかった。
あの人は、窓の外を見ていた。
こちらを、見ないようにしているようだった。
ひとつ、食べ終えた。
皿の上には、まだ四つ残っていた。
わたしは、皿を見て、それから、あの人を見た。
あの人は、食べていなかった。
味を確かめるために割った、端のかけらだけ。
――ひとりで、全部は食べられない。
それに。
ひとりで食べるのは、なんだか違う気がした。
あの焼き菓子は、半分ずつ食べたのだ。
並んで座って。
わたしは、長いあいだ迷った。
それから、皿を両手で持った。
あの人が、こちらを見た。
わたしは、皿を持ったまま、絨毯のほうへ歩いた。
一歩。二歩。
あの人から、三歩離れたところで止まった。
そこに、そっと膝をついた。
絨毯の上に、皿を置いた。
わたしとあの人の、ちょうど真ん中に。
わたしも、その場に座った。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、黒い瞳が、ほんのかすかに見開かれていた。
「……陛下も」
わたしは、皿を少しだけ、あの人のほうへ押した。
「わたしひとりでは、多いので」
あの人は、しばらく皿を見下ろしていた。
それから、ひとつ、手に取った。
大きくて、形がいびつなのを。
かじった。
「……甘いな」
ぽつりと言った。
「はい」
わたしも、もうひとつ手に取った。
二人で、黙って、焼き菓子を食べた。
窓から、昼下がりの光が差しこんでいた。
あの人は、ひとつを、わたしよりもずっと早く食べ終えた。
それでも、次には手を伸ばさなかった。
わたしが食べ終わるのを、待っていた。
わたしが二つ目を食べ終えて、皿を見下ろすと、焼き菓子は、ひとつだけ残っていた。
五つあって、わたしが二つ、あの人がひとつ。
あの人が割った端のかけらの分を足しても、ちょうどひとつ、余っていた。
――最後の、ひと切れ。
わたしは、皿の上の焼き菓子を見つめた。
あの人も、同じものを見ていた。
「……陛下が」
わたしは言った。
「陛下が、どうぞ。わたしは、二つも、いただいたので」
「いい。お前が食べろ」
あの人は、すぐに言った。
「俺はひとつで足りる」
「わたしも、足ります」
「お前のほうが、食べたほうがいい」
「陛下のほうが、お身体が大きいので」
あの人の眉が、ほんのかすかに寄った。
「身体の大きさは関係ない」
「あります。お身体が大きいほうが、たくさん食べないといけないと、エドガー先生が」
言ってから、自分で驚いた。
わたし、今、言い返した。
皇帝に。
でも、あの人は、怒らなかった。
眉を寄せたまま、少しのあいだ黙っていた。
「……エドガーは、お前にもっと食べさせろと言っていた」
「わたしには、少しずつ、と言いました」
「少しずつ増やせ、という意味だ」
「今日はもう、増えました。焼き菓子が、二つ」
あの人が、口をつぐんだ。
わたしも、口をつぐんだ。
皿の上で、最後の焼き菓子が、まだ少しだけ温かそうにしていた。
――最後のひと切れをどちらが食べるかで、言いあいになって。
十年前も、そうだった。
林檎の木の根元で、あの子とわたしは、紙の包みの上に残ったひと切れを、押しつけあった。
――リシェルが食べなよ。
――あなたが持ってきたんだから、あなたが食べて。
――いいから、食べなって。
――いや。
それで、最後には、あの子がしびれを切らして、わたしの口に押しこんだのだ。
わたしはむせて、怒って、あの子は笑い転げた。
わたしは、あの人の手を見た。
大きな手。
膝の上に置かれたまま、動かなかった。
この人は、押しこんだりしない。
わたしに触れるときは、いつも訊く。触れてもいいか、と。
だから、この言いあいには、終わりがない。
どちらかが、折れるまで。
「……半分に、しましょうか」
わたしは、小さく言った。
あの人が、こちらを見た。
「半分にすれば、二人とも、食べられます」
「半分にしたら、また、どちらの半分が大きいかで揉めるぞ」
あの人は、真顔で言った。
わたしは、まばたきをした。
皿の上の焼き菓子は、形がいびつだった。どこで割っても、きっと片方が大きくなる。
「……そう、ですね」
「そうだ」
「では、小さいほうを、わたしが」
「それは駄目だ」
「どうしてですか」
「お前が小さいほうを取ると分かっていて、割れるわけがない」
わたしは、言葉に詰まった。
あの人も、黙った。
皿の上の焼き菓子を、二人で、じっと見下ろしていた。
どちらも、手を伸ばさなかった。
口元が、むずむずした。
昨日の、鳩のときみたいに。
――おかしい。
皇帝と、わたしが、焼き菓子ひとつを前にして、真剣な顔で、にらみあっている。
わたしは、唇をきゅっと噛んだ。
あの人も、なぜだか、ほんの少しだけ、口元を引き結んでいた。
◇ ◇ ◇
帝国会議の間では、重臣たちが長い卓を囲んで、すでに半刻近く待たされていた。
玉座の脇の椅子は、空のままだった。
宰相クラウスは、手元の議題表を三度読み直し、四度目に目を落としかけて、やめた。
即位して三年、皇帝が会議に遅れたことは一度もない。
謁見を蹴って庭へ行ったことは、つい先日あった。だが、それは前もって告げられていた。
今日は、何の知らせもない。
「……様子を見てまいります」
クラウスは、重臣たちに一礼して、席を立った。
皇帝の執務室には、いなかった。
廊下で行き会ったガレスに訊くと、近衛騎士団長は、なぜだか目を逸らした。
「東の客殿だ」
「昼食は、とうに終わっている時刻のはずですが」
「終わっている」
「では、なぜ」
ガレスは、しばらく黙ってから、ひどく言いにくそうに言った。
「……扉の前の騎士が言うには、焼き菓子が、ひとつ余っているそうだ」
クラウスは、ガレスの顔を見た。
ガレスは、天井を見ていた。
東の客殿の扉の前で、クラウスは軽く扉を叩いた。
「陛下。クラウスでございます。帝国会議が――」
「入るな」
中から、低い声がした。
「そこで話せ」
「……陛下。重臣一同が、半刻ほどお待ちしております」
「分かっている」
「でしたら」
「まだ、決着がついていない」
クラウスは、扉の前で固まった。
「……決着、でございますか」
「焼き菓子が、ひとつ残っている」
皇帝の声は、戦場で軍を率いていたときと、何ひとつ変わらない、重々しい声だった。
「どちらが食べるかで、まだ話がついていない」
クラウスは、扉に額を押し当てた。
それから、両手で頭を抱えた。
帝国の重臣が十二人、会議の間で待っている。南部三州の問題も、北の国境の件も、来年度の税の割り当ても、すべて今日の議題に載っている。
その皇帝が、焼き菓子ひとつで、半刻、動かない。
「……陛下」
クラウスは、声を絞り出した。
「でしたら、陛下が召し上がればよろしいのでは」
「それが駄目だから、揉めている」
扉の向こうで、ほんのかすかに、息が漏れる音がした。
くすっ、と。
皇帝のものではない、細くて、少しかすれた声だった。
クラウスは、顔を上げた。
扉の向こうは、それきり静かになった。
しばらくして、皇帝の声がした。
「……クラウス」
「はい」
「預かっておけ」
扉が細く開いた。
皇帝の大きな手が、白い陶器の皿を差し出した。
その上に、茶色い焼き菓子が、ひとつ載っていた。
「決着は、明日つける。それまで、誰にも食わせるな」
「……は」
クラウスは、皿を受け取った。
扉が閉まった。
ほどなくして、もう一度開いて、皇帝が出てきた。
いつもの、何の表情も浮かんでいない顔だった。
「行くぞ。会議だ」
皇帝は、すたすたと廊下を歩きだした。
クラウスは、両手で皿を捧げ持ったまま、そのあとを追った。
帝国宰相が、焼き菓子をひとつ載せた皿を持って、会議の間に入る。
重臣たちが、いっせいに目を丸くするのが、今から目に浮かぶようだった。
「……陛下」
「何だ」
「会議の遅刻の理由を、重臣方に何とご説明いたしましょうか」
皇帝は、足を止めずに言った。
「菓子の奪い合いだと言え」
「言えるわけがございませんでしょう」
「事実だ」
クラウスは、天を仰いだ。
ふと、皇帝の横顔を見た。
いつもの顔だった。
だが、ほんの一瞬、その口の端が、錆びついた蝶番がわずかに軋むように、動きかけたような気がした。
クラウスは、目をこすった。
次に見たときには、もう、いつもの顔に戻っていた。
◇ ◇ ◇
あの人が出ていったあと、わたしは、絨毯の上に座ったまま、しばらく動けなかった。
さっき、笑いかけた。
宰相さまの、困りきった声を聞いて。
――でしたら、陛下が召し上がればよろしいのでは。
――それが駄目だから、揉めている。
あの人の、あまりにも真剣な声を聞いて。
息が漏れてしまった。
慌てて口を押さえたけれど、きっと、聞こえていた。
わたしは、両手で頬を包んだ。
熱かった。
――決着は、明日つける。
明日。
明日も、あの人は来るのだ。
あの焼き菓子を持って。
わたしは、胸元のボタンを握りしめた。
十年前、最後のひと切れは、あの子がわたしの口に押しこんだ。
この人は、押しこまなかった。
代わりに、明日まで、待つことにした。
それが、おかしくて。
それが、なぜだか、胸の奥をきゅうっと締めつけて。
わたしは、絨毯の上で、膝を抱えた。
明日は、どうやって言い返そう。
そんなことを考えている自分に気づいて、わたしは、もう一度、頬を包んだ。
手のひらの中で、頬が、ずっと熱いままだった。




