第48話 雨
翌日の昼、銀の盆の上には、白い陶器の皿がひとつ載っていた。
茶色い焼き菓子が、ひとつだけ。
昨日の、最後のひとつだった。
あの人は、盆を卓の上に置いて、いつものように曲がった匙でひと口ずつ確かめた。それから、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろした。
「宰相が、一晩、自分の執務室で見張っていたそうだ」
あの人は、窓の外を見たまま言った。
「誰にも食わせなかった、と言っていた」
わたしは、皿の上の焼き菓子を見つめた。
昨日よりも、少しだけ硬くなっているように見えた。
宰相さまが、一晩、この焼き菓子を見張っていた。
あの困りきった声を思い出して、口元が、またむずむずした。
わたしは、スープを十口飲んで、パンを二つ食べた。
それから、焼き菓子の皿を両手で持って、絨毯のほうへ歩いた。
昨日と同じように、あの人から三歩離れたところに座って、皿を真ん中に置いた。
「……決着を、つけるんですよね」
「ああ」
あの人は、皿を見下ろした。
わたしも、皿を見下ろした。
ひとつきりの、焼き菓子。
昨日、ひと晩じゅう考えた。どうやって言い返そうか、と。
でも、考えれば考えるほど、どう言い返しても、この人は折れない気がした。
そして、わたしも、折れない気がした。
「……あの」
「何だ」
「宰相さまに、差し上げるのは、どうでしょう」
あの人が、こちらを見た。
「一晩、見張ってくださったので」
あの人は、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「……それでいい」
低い声だった。
「あいつには、昨日、ずいぶん迷惑をかけた」
その日の午後、焼き菓子の皿は、セレナさんの手で宰相さまの執務室に届けられた。
あとでミーナさんから聞いた話では、宰相さまは皿を受け取って、長いあいだ黙りこんで、それから、指先でそっと目元を押さえていたそうだった。
◇ ◇ ◇
「庭へ、行くか」
焼き菓子の皿がなくなったあとで、あの人は一度だけ訊いた。
わたしは、窓の外を見た。
空は、少し曇っていた。
でも、まだ明るかった。
「……はい」
「今日は、人は置かない。南部の代表は、今朝帰った」
あの人は、それだけ言って立ち上がった。
庭は、静かだった。
石畳の小道を、あの人の三歩後ろを歩いた。
膝は、もうほとんど震えなかった。
林檎の木のある芝生まで、今日は休まずに歩けた。
白い花は、この前よりも少しだけ散っていた。芝生の上に、花びらが薄く積もっていた。
あの人は、林檎の木の下で足を止めた。
今日は、木には登らなかった。
ただ、幹に片手を当てて、枝を見上げていた。
「……登らないんですか」
気がつくと、訊いていた。
あの人が、こちらを振り返った。
「登ってほしいのか」
「……い、いえ」
わたしは、慌てて首を振った。
「侍従長さまが、また、倒れてしまうので」
「あれは倒れていない」
「倒れそうでした」
あの人は、少しのあいだ黙っていた。
「……そうだな」
それだけ言って、また枝を見上げた。
わたしは、唇を噛んだ。
口元が、また、むずむずしていた。
この人と話していると、最近、そういうことが多くなった。
ぽつり、と。
頬に、冷たいものが当たった。
わたしは、空を見上げた。
さっきまで薄曇りだった空が、いつの間にか、鉛のような色に変わっていた。
ぽつり。ぽつり。
石畳に、黒い染みがいくつも広がった。
それから、急に。
ざあっ、と。
空がひっくり返ったような音がした。
雨だった。
大粒の雨が、林檎の木の葉を叩いて、芝生を叩いて、石畳を叩いた。白い花びらが、雨に打たれて、ばらばらと落ちてきた。
わたしは、動けなかった。
雨の音が、耳の中いっぱいに広がっていた。
ざあざあと。
冷たい水が、髪を伝って、首筋に落ちてきた。
――冷たい。
身体が、勝手に縮こまった。
膝が、がくがくと震えはじめた。
――雨の夜。
地下の壁を、水が伝って落ちてくる音。
天井の石のすきまから、ぽたり、ぽたりと落ちてくる滴。
床に溜まっていく、冷たい水。
隅の藁が、じっとりと湿って、どこにも乾いた場所がなくなっていく。
毛布も、服も、何もかもが冷たく濡れて、朝まで、歯の根が合わなかった。
雨が何日も続くと、熱が出た。
熱が出ると、お母さまが、喜んだ。
――あら、熱があるのね。かわいそうに。
そう言って、わたしの額に手を当てて、それから、石を拾っていった。
わたしは、その場にしゃがみこんでいた。
両腕で、自分の身体を抱きしめていた。
雨の音が、怖かった。
冷たさが、怖かった。
ここは地下ではないと分かっているのに、身体が、どうしても、それを分かってくれなかった。
「――リシェル」
あの人の声がした。
雨の音の向こうから。
顔を上げると、あの人が、三歩離れたところに立っていた。
黒い髪も、白いシャツも、もうすっかり濡れていた。
「上着を、かけてもいいか」
あの人は、自分の黒い上着を、片手に持っていた。
わたしは、震えながら、首を振った。
振ってから、自分でも分からなくなった。
かけてほしくないわけではなかった。
ただ、身体が、何をされても怖かった。
あの人は、上着を差し出しかけた手を、そのまま下ろした。
「……分かった」
それから、あの人は、しばらく黙って、わたしを見下ろしていた。
雨が、あの人の顔を伝って、顎から落ちていた。
あの人は、ふと、足元を見た。
林檎の木の根元の、芝生が少しくぼんだところに、もう水が溜まりはじめていた。
茶色く濁った、小さな水たまり。
あの人は、そこへ向かって、一歩踏み出した。
ばしゃっ、と。
泥水が、跳ねた。
あの人の黒い長靴が、水たまりの真ん中に沈んでいた。
泥水が、ズボンの裾まで跳ね上がっていた。
わたしは、目を見開いた。
あの人は、もう一歩、踏みこんだ。
ばしゃっ。
また、泥が跳ねた。
あの人は、水たまりの真ん中に立ったまま、こちらを振り返った。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔だった。
雨に濡れて、裾を泥だらけにして。
「……汚れても、洗えば落ちる」
あの人は、静かに言った。
「誰も、怒らない」
――あ。
雨の音が、遠くなった。
――泥なんか、洗えば落ちるって。
声が、聞こえた。
ずっと昔の。
あの春の、ある日の午後。
離れの庭で、急に雨が降りだした日。
わたしは、林檎の木の下で、泣きそうになっていた。
ハンナが繕ってくれた服が、濡れて、泥がはねてしまったから。
汚したら、怒られる。
お母さまが来たときに、見つかったら。
そう言ったわたしの前で、あの子は、いちばん大きな水たまりに、思いきり飛びこんだのだ。
ばしゃっ、と。
頭から泥をかぶって、それから、げらげら笑った。
――ほら、僕のほうが汚い。これで、リシェルが怒られるなら、僕はもっと怒られる。
――泥なんか、洗えば落ちるって。
あの子は、そう言って、わたしに手を差し出した。
わたしは、その手につかまって、水たまりに足を入れた。
冷たかった。
でも、少しも怖くなかった。
二人で、びしょ濡れになって、泥だらけになって、笑った。
あの日、ハンナは、わたしの服を黙って洗ってくれた。
お母さまには、見つからなかった。
わたしは、水たまりの中に立っている人を、見つめていた。
雨が、まだ降っていた。
冷たかった。
でも、膝の震えが、少しずつ、おさまっていた。
あの人は、水たまりの中から、動かなかった。
手を差し出しは、しなかった。
あの子は、手を差し出した。
この人は、差し出さなかった。
ただ、そこに立って、待っていた。
わたしが、自分で来るのを。
あるいは、来ないのを。
――どちらでも、いい。
あの人の目が、そう言っているような気がした。
わたしは、ゆっくりと立ち上がった。
若草色のドレスの裾が、雨に濡れて、重くなっていた。
――汚したら。
一瞬、そう思った。
セレナさんが、選んでくれたドレス。
でも。
――誰も、怒らない。
わたしは、一歩、踏み出した。
芝生が、ぐしゅりと音を立てた。
もう一歩。
水たまりの縁まで来た。
茶色い泥水の中に、あの人の長靴が沈んでいた。
わたしは、息を吸った。
それから、右足を、水たまりの中に入れた。
ぴしゃっ。
小さな音だった。
あの人の、ばしゃっ、という音とは、比べものにならないくらい小さな。
でも、冷たい泥水が、靴の中にじわりと染みこんできた。
ドレスの裾に、茶色い染みが、ぽつぽつと散った。
わたしは、足元を見下ろした。
汚れていた。
濡れていた。
――でも、怖くない。
あの日と同じだった。
冷たいのに。汚れているのに。
少しも、怖くなかった。
わたしは、もう片方の足も、水たまりに入れた。
ぴしゃっ。
あの人と、二歩くらいの距離だった。
いつもより、一歩近かった。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ、目を細めた。
「……陛下」
「何だ」
「長靴の中、水が入っていませんか」
あの人は、自分の足元を見下ろした。
「……入っている」
「わたしも、です」
「そうか」
「冷たいです」
「冷たいな」
雨の音の中で、二人とも、水たまりの真ん中に立ったまま、しばらく黙っていた。
それから、あの人が、ぽつりと言った。
「戻ったら、湯を沸かさせる」
「……はい」
「ドレスは、セレナが洗う」
「……怒られませんか」
「怒らない」
あの人は、きっぱりと言った。
「怒ったら、俺も一緒に怒られる。俺のほうが汚い」
わたしは、あの人のズボンを見た。
膝の下まで、泥だらけだった。
わたしのドレスの、小さな染みとは、比べものにならなかった。
――ほら、僕のほうが汚い。
胸の奥が、きゅうっと鳴った。
わたしは、俯いた。
雨の滴が、まつげから落ちた。
雨だった。
ただの、雨だった。
頬を伝って落ちていくのは、空から降ってきた水だけだった。
わたしは、それを確かめるように、そっと頬に手を当てた。
冷たかった。
でも、胸の奥は、ずっと温かかった。
◇ ◇ ◇
その日、皇宮の侍従たちは、ずぶ濡れの皇帝が泥だらけの長靴で東の客殿の廊下を歩いていくのを、口を開けて見送った。
その三歩後ろを、同じように濡れた若草色のドレスの少女が、裾を少し持ち上げて歩いていた。
侍従長は、廊下の柱の陰で、ふらりと壁に手をついたという。
◇ ◇ ◇
それから、そういう日が少しずつ増えていった。
セレナは、その様子を、毎日少し離れた場所から見ていた。
昼食のあと、皇帝が「庭へ行くか」と一度だけ訊く。
リシェル様が頷く日もあれば、首を振る日もある。
首を振った日には、皇帝は何も言わずに、部屋の真ん中の絨毯の上で、窓の外を見て過ごした。
頷いた日には、二人で庭へ出た。
林檎の木の下で花冠を編んだ日があった。
二人とも、くいっと二度、同じ手つきで。
皇帝の花冠は、相変わらずあちこちから茎が飛び出していた。リシェル様の花冠は、日に日に大きくなっていった。
雨上がりの日には、二人で水たまりを探して歩いた。
皇帝が先に踏みこんで、リシェル様が、そのあとから小さく踏みこむ。
ある日、リシェル様は、皇帝よりも先に、水たまりに踏みこんだ。
ぴしゃっ、という小さな音がした。
皇帝は、少しのあいだ立ち止まって、それから、同じ水たまりに、ばしゃっと踏みこんだ。
泥が、二人の足元に跳ねた。
セレナは、洗濯場の娘たちに、若草色のドレスと皇帝のズボンを、何度も洗わせることになった。
洗濯場の娘たちは、最初こそ目を白黒させていたが、そのうち、泥のついた皇帝のズボンが届くと、こっそり顔を見合わせて、くすくす笑うようになった。
ある夕方、セレナは、執務室に戻る皇帝と、廊下ですれ違った。
皇帝の髪には、林檎の花びらが一枚、ついたままだった。
セレナは、それを指摘しなかった。
皇帝も、気づいていないようだった。
代わりに、皇帝は、ふと足を止めて言った。
「……セレナ」
「はい、陛下」
「あれは、俺のことを、何と呼んでいる」
セレナは、少しだけ考えた。
「陛下、と。いつも」
「そうか」
皇帝は、それだけ言って、また歩きだした。
セレナは、その背中を見送った。
帝国の皇帝の背中。
けれど、あの庭で水たまりに踏みこんでいるときの、あの方の背中は、セレナの目には、もっとずっと若く見えた。
陛下ではない、誰か。
まだ名前を呼ばれたことのない、ひとりの青年の背中に。




