第49話 名前で呼ぶ練習
その日は、朝から雨だった。
この前のような、急に降りだす激しい雨ではなかった。細くて静かな雨が、窓の硝子を音もなく濡らしていた。
庭には行けなかった。
昼食のあと、あの人は「庭へ行くか」とは訊かなかった。
代わりに、部屋の真ん中の絨毯の上に座ったまま、窓の外の雨を見ていた。
わたしは、あの人から三歩離れた絨毯の上に座っていた。
焼き菓子の日から、食事のあとはここに座るようになっていた。化粧台の腰掛けよりも、少しだけ、あの人に近い場所。
雨の音が、かすかに聞こえていた。
怖くはなかった。
この部屋の窓は、雨を通さない。壁を伝って落ちてくる水も、床に溜まる水もない。
それに、この前の水たまりのことを思い出すと、雨の音が、少しだけ違って聞こえた。
ぴしゃっ、と。
ばしゃっ、と。
あの人の長靴の中に、水が入っていたこと。
わたしは、膝を抱えて、窓の外を見ていた。
「……リシェル」
あの人が、言った。
「はい」
「ひとつ、頼みがある」
わたしは、顔を上げた。
頼み。
この人が、わたしに何かを頼むのは、初めてのような気がした。
身体が、ほんの少しだけ硬くなった。
あの人は、窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
言葉を選んでいるようだった。
「断っていい」
先に、それを言った。
「命令ではない。勅令にも、何にも関わりはない。お前が嫌なら、それで終わりだ。二度と言わない」
「……はい」
あの人は、ようやく、こちらを見た。
「二人きりのときだけでいい」
低い声だった。
「名前で、呼んでくれないか」
わたしは、まばたきをした。
「……名前」
「ああ」
「陛下の、ですか」
「そうだ」
わたしは、あの人の顔を見つめた。
それから、ふいに、気がついた。
――わたしは、この人の名前を、知らない。
皇帝陛下。陛下。あの人。
ずっと、そう呼んできた。心の中でも、口に出すときも。
ミーナさんも、セレナさんも、エドガー先生も、みんな陛下と呼んでいた。宰相さまも、騎士団長さまも。
この人の名前を口にする人を、わたしは一度も見たことがなかった。
皇帝にも、名前があるのだ。
そんな当たり前のことを、わたしは今まで、考えたこともなかった。
「……あの」
わたしは、膝の上で手を握りしめた。
「ごめんなさい。わたし、陛下のお名前を、知らなくて」
あの人の黒い瞳が、ほんのかすかに揺れた。
それから、あの人は、少しだけ目を伏せた。
「……そうか」
長い、沈黙があった。
雨の音だけが、部屋の中に満ちていた。
「アルフレッドだ」
あの人は、言った。
静かな声だった。
何かを、ひとつずつ、確かめながら置いていくような声だった。
「アルフレッド。それが、俺の名前だ」
――アルフレッド。
わたしは、その名前を、胸の中でそっと繰り返した。
アルフレッド。
知らない名前だった。
どこにでもありそうで、でも、この人のためだけにあるような名前だった。
――次に会うときは、ちゃんと名前を教える。
ふいに、遠い声が浮かんだ。
林檎の木の下で。塀の上へ登る前の、あの子の声。
――今は言えないけど、そのときは、ちゃんと。
あの子は、名前を教えてくれなかった。
次は、来なかったから。
だから、わたしは、あの子の名前を知らない。
十年経っても、知らないままだった。
わたしは、胸元のボタンを握りしめた。
――関係ない。
この人が、名前を教えてくれた。
それだけのことだ。
あの子とは、関係ない。
そう思おうとした。
でも、胸の奥で、何かがひどく痛んでいた。
名前を教えてもらうということが、こんなにも、胸に響くものだとは知らなかった。
「……呼んで、いいんですか」
わたしは、小さな声で訊いた。
「陛下の、お名前を。わたしが」
「頼んでいるのは、俺のほうだ」
あの人は言った。
「嫌なら、断っていい」
嫌、ではなかった。
ただ、怖かった。
皇帝の名前を、わたしが呼ぶ。
お屋敷では、お父さまのことを、名前で呼んだことはなかった。お母さまのことも。お兄さまのことも。
お父さま、お母さま、お兄さま。それ以外の呼び方は、許されていなかった。
目上の人を名前で呼ぶなんて。
それも、この国でいちばん上にいる人を。
――でも、この人は、頼んでいる。
命令ではなく。
断っていい、と言いながら。
わたしは、長いあいだ、黙っていた。
あの人も、黙って待っていた。
「……やって、みます」
ようやく、それだけ言えた。
「でも、うまく、言えないかもしれません」
「それでいい」
あの人は、静かに言った。
「言えなくても、いい」
わたしは、息を吸った。
「……ア」
声が、そこで止まった。
喉の奥で、何かがつかえていた。
次の音が、どうしても出てこなかった。
「……ごめんなさい」
「いい」
わたしは、もう一度、息を吸った。
「……陛下」
口から出たのは、いつもの呼び方だった。
わたしは、慌てて口を押さえた。
「ち、違います。今のは、その」
「分かっている」
あの人の声は、少しも怒っていなかった。
三度目。
「アル……」
そこで、また止まった。
その先を言ったら、何かが変わってしまう気がした。
四度目。
「アルフレッド、陛下」
あの人が、ほんのわずかに眉を寄せた。
「陛下は、いらない」
「……はい」
五度目。
「アルフレッド……さま」
「さまも、いらない」
「……はい」
わたしは、俯いた。
頬が、熱くなっていた。
六度目は、口を開けたまま、何も出てこなかった。
七度目は、声が小さすぎて、自分でも聞こえなかった。
八度目は、「ア」まで言って、雨の音にかき消された。
九度目は、また「陛下」と言ってしまった。
わたしは、両手で顔を覆った。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「でも、九回も」
「数えていたのか」
「……はい」
あの人は、少しのあいだ黙っていた。
「俺も、数えていた」
わたしは、指のすきまから、あの人を見た。
あの人は、窓の外を見ていた。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔だった。
でも、口元が、ほんの少しだけ、引き結ばれていた。
――この人も、何かをこらえている。
なぜだか、そう思った。
「……今日でなくていい」
あの人が言った。
「明日でも、十日先でも。一年先でもいい。一度も呼べなくても、それはそれでいい」
「……いいえ」
気がつくと、首を振っていた。
自分でも驚いた。
でも、言葉が、勝手に出てきた。
「今日、言いたいです」
あの人が、こちらを見た。
わたしは、膝の上で両手を握りしめた。
どうしてだろう。
どうして、今日でなければいけないと思うのだろう。
――次に会うときは、ちゃんと名前を教える。
あの子は、名前を教えてくれなかった。
だから、わたしは、あの子の名前を一度も呼べなかった。
地下の暗闇の中で、呼びたくても、呼ぶ名前がなかった。
――あの子。
それしか、なかった。
今、目の前の人は、名前を教えてくれた。
呼んでいい、と言ってくれた。
それなのに、呼べないまま、明日になって、十日先になって、一年先になって。
もしも、また。
また、次が来なかったら。
そう思ったら、胸の奥が、冷たくなった。
――呼べるときに、呼ばなきゃ。
わたしは、顔を上げた。
十度目。
「アルフ……」
また、止まった。
十一度目。
「アル、フ、レ……」
一音ずつ、確かめるように。
でも、最後の音の前で、喉が震えた。
わたしは、目を閉じた。
息を吸った。
雨の音が、聞こえた。
静かな、細い雨の音。
地下の雨とは違う。
この前、二人で水たまりに立ったときの、雨の音。
――誰も、怒らない。
あの人の声が、耳の奥でよみがえった。
わたしは、目を開けた。
あの人が、三歩離れたところに座っていた。
黒い瞳で、まっすぐに、わたしを見ていた。
待っていた。
ずっと、待っていた。
十二度目。
「……アルフレッド」
声が、出た。
小さな声だった。
かすれて、震えて、雨の音にかき消されそうなほど、小さな声だった。
でも、最後の音まで、ちゃんと出た。
「アルフレッド」
もう一度、言った。
今度は、少しだけ、はっきりと。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、動けなかった。
――アルフレッド。
あの子の声で。
十年前、言えなかった名前を。
――次に会うときは、ちゃんと名前を教える。
林檎の木の下で、そう約束した。
皇太子だと知られるわけにはいかなかった。叔父の手の者が、どこに潜んでいるか分からなかった。だから、名前ひとつ、教えられなかった。
次に会ったら、と思っていた。
次に会ったら、真っ先に名前を教えて、呼んでもらおう、と。
その「次」が、十年かかった。
そして今も、自分は、半分しか約束を果たしていない。
名前は教えた。
けれど、あのときの少年が自分だとは、言っていない。
あの子は、あの子に教えてもらえなかった名前を、見知らぬ皇帝の名前として呼んでいる。
それでも。
――アルフレッド。
かすれて、震えて、それでも最後まで言いきった声が、胸の奥で何度も響いていた。
アルフレッドは、膝の上で、拳を握りしめた。
喉の奥が、熱かった。
目の奥も。
――泣くな。
この子の前で、泣くわけにはいかない。
アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ああ」
ようやく、それだけ言えた。
ひどく、低い声になった。
「ありがとう、リシェル」
◇ ◇ ◇
わたしは、あの人の顔を見ていた。
――ありがとう。
この人に、お礼を言われた。
名前を呼んだだけなのに。
あの人は、何の表情も浮かべていなかった。
でも、膝の上の拳が、白くなるほど握りしめられていた。
わたしは、それを見て、なぜだか胸の奥が苦しくなった。
この人は、ずっと、誰かに名前を呼んでほしかったのだろうか。
陛下ではなく。
皇帝ではなく。
ただの、アルフレッドとして。
「……アルフレッド」
わたしは、もう一度だけ、呼んでみた。
さっきよりも、少しだけ、自然に言えた。
あの人の拳が、ほんのかすかに震えた。
「……何だ」
「いえ」
わたしは、首を振った。
「呼んでみた、だけです」
「……そうか」
あの人は、窓の外を見た。
わたしのほうを、見ないようにしているようだった。
「……忘れないように」
わたしは、小さく付け足した。
「明日になっても、忘れないように。練習です」
あの人は、しばらく何も言わなかった。
それから、窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「……いくらでも、練習すればいい」
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは寝台の中で、天蓋を見上げていた。
雨は、まだ降っていた。
細くて、静かな雨。
――アルフレッド。
声には出さずに、唇の形だけで、その名前をなぞった。
アルフレッド。
十二回目で、やっと言えた名前。
胸の奥が、まだ少しだけ、熱かった。
わたしは、胸元のボタンを、手のひらで包みこんだ。
――あの子の名前は、何だったのだろう。
ふと、そう思った。
十年間、考えないようにしてきたこと。
知らないままでいいと、自分に言い聞かせてきたこと。
もしも、あの子の名前を知っていたら。
地下の暗闇の中で、何度でも呼べたのに。
わたしは、ボタンを握りしめた。
――アルフレッド。
もう一度、唇の形だけで、なぞった。
それから、目を閉じた。
雨の音が、子守唄のように、静かに部屋を満たしていた。




