第50話 褒美はいらない
「宝物庫を、開けろ」
翌朝、皇帝の執務室で、アルフレッドはそう言った。
宰相クラウスは、手にしていた書類の束から顔を上げた。
「……宝物庫、でございますか」
「ああ」
「何か、ご入り用のものが」
「礼をしたい」
アルフレッドは、窓の外を見たまま言った。
「昨日、あれが、俺の名前を呼んだ」
クラウスは、しばらく黙っていた。
それから、静かに書類を机の端に置いた。
「……お名前を」
「十二回目で、呼べた」
皇帝の声は、いつもと変わらない、低く平らな声だった。
けれど、クラウスは、その横顔を見て、何も言えなくなった。
即位して三年。この方を名前で呼ぶ者は、宮廷に一人もいない。
この方を名で呼ぶことを許されていた人々は、先帝の崩御と内乱のなかで、ひとり、またひとりといなくなった。
この方の名前は、勅令の末尾と、公文書の署名欄にしか、もう存在しなかった。
「……かしこまりました」
クラウスは、深く頭を下げた。
「ただ、陛下。ひとつだけ」
「何だ」
「青い石は、お避けになったほうが」
アルフレッドの手が、止まった。
それから、短く頷いた。
「分かっている」
宝物庫の中は、ひんやりと冷たかった。
代々の皇帝が集めてきた品々が、棚という棚に並んでいた。金の杯。銀の燭台。宝石を嵌めこんだ冠や、剣の柄。
アルフレッドは、それらのあいだを黙って歩いた。
首飾りは、やめた。
あの子の母親が、胸元に青黒い石を連ねていたと聞いている。
指輪も、やめた。あの子の指は、まだ細すぎる。右の小指は、曲がったまま治っている。
腕輪も、やめた。あの子の足首には、鉄の輪に擦られた痕が何重にも残っていると、エドガーが言っていた。輪の形をしたものは、何ひとつ、あの子に嵌めたくなかった。
最後に、小さな髪飾りの前で、足が止まった。
白い真珠を、いくつか小さな花の形に寄せた髪飾りだった。
林檎の花に、少しだけ似ていた。
アルフレッドは、それを手に取った。
軽かった。
――これなら。
セレナが毎朝、あの子の髪に櫛を入れている。その髪に、これを挿したら。
アルフレッドは、小さな天鵞絨の箱に髪飾りを収めさせた。
箱を手のひらに載せて、しばらく見下ろしていた。
十年前、自分はあの子に、何もやれなかった。
焼き菓子を一度。花冠をいくつか。それから、上着のボタンをひとつ。
それだけだった。
皇帝になった今なら、何でもやれる。
この国のどんなものでも。
アルフレッドは、天鵞絨の箱を、上着の内側にしまった。
◇ ◇ ◇
その日の昼、あの人は、いつものように銀の盆を持って来た。
「入っていいか」
「……はい」
盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。
それから、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろす。
わたしは、スープを十口飲んで、パンを二つ食べた。
それから、絨毯の上の、あの人から三歩離れた場所に座った。
「……アルフレッド」
小さな声で、呼んでみた。
昨日の夜、寝台の中で、何度も唇の形だけでなぞった名前。
まだ、少しだけ、喉の奥でつっかえた。
でも、言えた。
あの人の肩が、ほんのかすかに動いた。
「……何だ」
「いえ。練習、です」
「……そうか」
あの人は、窓の外を見た。
それから、しばらくして、上着の内側に手を入れた。
取り出したのは、小さな箱だった。
深い紺色の、天鵞絨の箱。
手のひらに収まるくらいの。
あの人は、それを、わたしとのあいだの絨毯の上に、そっと置いた。
「昨日の、礼だ」
わたしは、箱を見下ろした。
天鵞絨の、やわらかそうな手ざわり。
小さな金の留め金。
――礼。
あの人は、そう言った。
「名前を、呼んでくれた」
あの人は、窓の外を見たまま言った。
「宝物庫から選んだ。青い石は入っていない。開けてみてくれ」
わたしは、動けなかった。
宝物庫。
――宝石。
身体の奥が、すうっと冷たくなっていった。
お母さまの胸元で光っていた、青黒い石の首飾り。
一粒、また一粒と、増えていった石。
――今日は上出来ね。
わたしが泣いた日には、お母さまはそう言った。
それから、林檎をくれた。
次の日も泣いたら、焼き菓子をあげると言った。
泣けば、褒められる。
泣けば、ごほうびがもらえる。
だから、もっと泣かなければいけない。
次も。その次も。
ごほうびをもらった日の次の日が、いちばん怖かった。
――昨日は泣けたのに。今日はどうして泣けないの。
お母さまの声が、耳の奥でよみがえった。
わたしは、膝の上で両手を握りしめた。
――名前を呼んだら、ごほうびがもらえる。
それなら。
明日も、名前を呼ばなければいけない。
明後日も。
呼べなかった日には。
――昨日は呼べたのに。
わたしは、目を閉じた。
あの人は、黙っていた。
わたしが箱に手を伸ばすのを、待っていた。
わたしは、目を開けた。
箱は、まだそこにあった。
あの人の手が、その少し向こうにあった。
――開けなければ。
皇帝が、宝物庫から選んでくれたものだ。
断ったら、失礼だ。
受け取って、ありがとうございますと言って、それで。
それで、いいはずだった。
前のわたしなら、きっと、そうしていた。
でも。
――断っていい。
この人は、何度もそう言った。
嫌なら、言っていい、と。
――分からなければ、分からないと言え。
わたしは、息を吸った。
喉が、震えた。
「……アルフレッド」
あの人が、こちらを見た。
「いりません」
声が、出た。
小さくて、震えていて、でも、はっきりした声だった。
「何も、いりません」
あの人は、動かなかった。
黒い瞳が、まっすぐにわたしを見ていた。
わたしは、俯きそうになるのを、必死でこらえた。
――言ってしまった。
皇帝に。
いりません、と。
お屋敷では、お母さまがくれるものを断ったことは、一度もなかった。
断ったら、もう二度ともらえなくなる。それどころか、もっとひどいことになる。
だから、何をもらっても、ありがとうございますと言った。
林檎も。固いパンも。
でも、今は。
「……ごめんなさい」
わたしは、膝の上の手を見下ろした。
「せっかく、選んでくださったのに」
「謝らなくていい」
あの人の声は、低かった。
「理由を、訊いてもいいか」
わたしは、しばらく黙っていた。
言葉にするのが、難しかった。
でも、この人は、待ってくれる。
ちゃんと、最後まで。
「……名前を呼んで、ごほうびをもらったら」
わたしは、ゆっくりと言った。
「次も、呼ばなければいけない気がして」
あの人の手が、膝の上で、かすかに動いた。
「お母さまは、わたしが泣いたら、林檎をくれました。上出来ね、って。それで、次の日も泣かなきゃいけなくて。泣けなかった日は、昨日は泣けたのに、って」
声が、少しずつ小さくなっていった。
「昨日、アルフレッドの名前を呼んだのは、ごほうびがほしかったからじゃなくて」
わたしは、胸元のボタンを、手のひらで包んだ。
「……呼びたかったから、です」
言ってから、頬が熱くなった。
「だから、ごほうびをもらったら、それが、違うものになってしまう気がして」
わたしは、箱を見た。
「それに、宝石は」
その先は、言えなかった。
あの人には、分かったようだった。
長い沈黙があった。
あの人は、絨毯の上の箱を見下ろしていた。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔だった。
でも、その手が、白くなるほど握りしめられていた。
「……すまない」
あの人が、言った。
ひどく、低い声だった。
「俺は、お前の母親と、同じことをしようとした」
「ち、違います」
わたしは、慌てて首を振った。
「違います。アルフレッドは、お母さまとは、違います」
「何が違う」
「お母さまは、わたしを泣かせるために、ものをくれました」
わたしは、言った。
「アルフレッドは、そうじゃない。それは、分かってます」
あの人が、こちらを見た。
「分かってるんです。でも、身体が、勝手に怖くなって」
わたしは、胸元のボタンを握りしめた。
「だから、アルフレッドが悪いんじゃなくて。わたしが、まだ、うまく受け取れないだけで」
あの人は、しばらく、わたしの顔を見ていた。
それから、ゆっくりと、絨毯の上の箱に手を伸ばした。
箱を取り上げて、上着の内側にしまった。
「……分かった」
あの人は言った。
「これは、しまっておく」
「……捨てないで、ください」
気がつくと、そう言っていた。
あの人の手が、止まった。
「せっかく、選んでくださったので」
わたしは、俯いた。
「いつか、ごほうびじゃなくて、ただ、もらえるようになったら」
その先は、自分でも、何を言いたいのか分からなくなった。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、上着の内側の箱に、手を当てたまま、しばらく動かなかった。
「……ああ」
ようやく、それだけ言った。
「それまで、持っておく」
◇ ◇ ◇
部屋に戻る廊下で、アルフレッドは足を止めた。
壁に、手をついた。
――アルフレッドは、お母さまとは、違います。
あの子は、そう言った。
自分を、かばった。
自分が差し出したもので、あの子を怯えさせたのに。
上着の内側で、天鵞絨の箱が、ひどく重たく感じられた。
勅令第一七号。
与えておいて、見返りに涙を期待することを、自分は大逆と定めた。
涙ではなかった。期待もしていなかった。
ただ、礼をしたかっただけだった。
だが、あの子にとっては、同じことだったのだ。
何かをしたら、何かが与えられる。
与えられたら、また、しなければならない。
その鎖の形を、あの子の身体は、十年かけて覚えこまされている。
――呼びたかったから、です。
アルフレッドは、目を閉じた。
あの子は、そう言った。
ほしかったからではなく。命じられたからでもなく。
呼びたかったから、呼んだのだと。
それを、自分は、宝石ひとつで、取引に変えてしまうところだった。
――止めてくれた。
あの子が、自分で。
「いりません」と。
この宮殿に来てから、あの子が、自分から何かを止めたのは、初めてだった。
お茶を断ったことはあった。首を振ったことも、何度もあった。
けれど、こちらが差し出そうとしているものを、自分の言葉で、理由をつけて、止めたのは。
しかも、名前を呼んで。
アルフレッドは、壁から手を離した。
胸の奥が、痛かった。
けれど、その痛みの底に、ほんのかすかに、温かいものがあった。
◇ ◇ ◇
その夜、アルフレッドは、執務室の机の引き出しを開けた。
紺色の、小さな上着。
その隣に、天鵞絨の箱を、そっと置いた。
――いつか、ごほうびじゃなくて、ただ、もらえるようになったら。
あの子の声を、思い出した。
アルフレッドは、引き出しを閉めて、鍵をかけた。
それから、窓辺に立って、東の客殿のほうを見た。
――何も、いりません。
何もいらない、と、あの子は言った。
それは、本当だろうか。
あの子は、ほしいと言うことを、知らないだけではないのか。
ほしいと言ったら取り上げられる場所で、十年を過ごしてきたのだから。
宝石ではない。
褒美でもない。
それなら、あの子は、何がほしいのだろう。
アルフレッドは、窓の向こうの小さな灯りを見つめた。
――訊いてみよう。
明日。
答えなくてもいい、と、先に言ってから。




