第51話 それなら嬉しい
次の日の昼も、あの人はいつものように来た。
銀の盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。それから、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろす。
わたしは、スープを十口飲んで、パンを二つ食べた。
それから、あの人から三歩離れた絨毯の上に座った。
昨日のことを、少しだけ思い出していた。
天鵞絨の小さな箱。
――いりません。
わたしが、そう言ったこと。
あの人が、箱を上着の内側にしまったこと。
昨日の夜は、なかなか眠れなかった。
言ってしまったことが、怖かった。
でも、それと同じくらい、言えたことが、胸の奥で小さく光っているような気がした。
「……アルフレッド」
わたしは、小さく呼んだ。
三日目の名前は、昨日よりも少しだけ、喉の奥でつっかえなかった。
「何だ」
「昨日は、ごめんなさい」
「謝ることじゃないと言った」
「……はい」
あの人は、窓の外を見ていた。
それから、しばらくして、こちらへ顔を向けた。
「リシェル」
「はい」
「ひとつ、訊いてもいいか」
わたしは、あの人の顔を見た。
「答えなくていい」
あの人は、先にそう言った。
「答えられなくても、それでいい。答えなかったからといって、何も変わらない」
「……はい」
あの人は、少しのあいだ黙っていた。
それから、静かに言った。
「では、何がほしい」
わたしは、まばたきをした。
「……ほしい、もの」
「ああ」
「ごほうび、ですか」
「違う」
あの人は、すぐに首を振った。
「褒美じゃない。礼でもない。取引でもない。お前が何かをしたから訊いているわけじゃない」
あの人の声は、低くて、ゆっくりしていた。
一つひとつ、言葉を選んで、置いていくような声だった。
「ただ、お前が何をほしいと思っているのか、知りたい」
わたしは、膝の上で手を握りしめた。
――何が、ほしい。
そんなことを、訊かれたことがなかった。
お屋敷では、ほしいものを言ったことがなかった。
言えば、それが、取り上げられる理由になった。
林檎がほしいと思えば、林檎は、泣いたあとにしかもらえなくなった。
あたたかい毛布がほしいと言ったら、その冬は、毛布が一枚減った。
だから、ほしいと思うことを、やめた。
ほしいと思わなければ、取り上げられることもない。
地下では、それがいちばん、痛くない生き方だった。
「……分かりません」
わたしは、正直に言った。
「ほしいと思うのを、ずっと、やめていたので」
あの人の手が、膝の上で、かすかに動いた。
「何がほしいのか、考えようとしても、何も、出てこなくて」
「……そうか」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
あの人は、また窓の外を見た。
「今日でなくていい。明日でも、いつでもいい。出てこなければ、それでいい」
わたしは、俯いた。
答えられなかった。
せっかく、訊いてくれたのに。
ほしいものが、何も思い浮かばない自分が、少しだけ、悲しかった。
◇ ◇ ◇
「庭へ、行くか」
しばらくして、あの人は、いつものように一度だけ訊いた。
「……はい」
今日は、よく晴れていた。
石畳の小道を、あの人の三歩後ろを歩いた。
林檎の木の白い花は、もうだいぶ散っていた。枝のあちこちに、小さな緑の葉が増えていた。
――秋には、実がなる。
この前、あの人がそう言っていた。
芝生の上に、二人で座った。
いつものように、少し離れて。
あの人は、白い花を摘んで、花冠を編みはじめた。
くいっと、二度。
わたしも、隣で、同じように編んだ。
くいっと、二度。
何も話さなかった。
風が吹いて、葉がさわさわと鳴った。
お日さまが、背中にあたたかかった。
わたしは、手を止めて、林檎の木を見上げた。
――何が、ほしい。
あの人の声が、まだ耳の奥に残っていた。
ほしいもの。
地下にいたときには、ほしいものが、たくさんあったはずだった。
あたたかい場所。
明るい場所。
お腹いっぱいのパン。
誰かが、来てくれること。
――全部、もう、ある。
あたたかい部屋も。明るい窓も。スープもパンも。
毎日、お昼になると、扉を叩いてくれる人も。
ほしかったものは、みんな、ここにあった。
それなら、わたしは、もう何もほしくないのだろうか。
わたしは、手の中の作りかけの花冠を見下ろした。
白い花。
くいっと二度の、ほどけない輪。
隣で、あの人の大きな手が、相変わらず不器用に、茎を巻きつけていた。
――ずっと、こうしていたい。
ふいに、そう思った。
思ってしまってから、胸の奥が、ひやりとした。
――ずっと。
そんな言葉を、思い浮かべたのは、いつ以来だろう。
地下には、ずっと、なんてなかった。
あったのは、今日だけだった。
今日、お母さまが来るかどうか。今日、パンがもらえるかどうか。今日、泣けるかどうか。
明日のことは、考えなかった。
考えても、明日は、今日と同じか、今日よりも悪いかのどちらかだったから。
明日を楽しみにしたのは、たった一度だけだった。
十年前の春。
離れの庭で、あの子と過ごした、あの何日か。
明日もあの子が来る。明日も、花冠を作れる。明日も、木に登れる。
毎晩、そう思いながら眠った。
明日が来るのが、待ち遠しくてたまらなかった。
そして、ある日、明日は来なくなった。
あの子は、必ず迎えに来ると言って塀の向こうに消えて、それきり、二度と来なかった。
――明日を楽しみにしたら、明日はなくなる。
地下で、わたしはそれを覚えた。
だから、明日のことは、考えないようにしてきた。
ずっと、なんて、願わないようにしてきた。
わたしは、花冠を握りしめた。
茎が、少しだけ、指に食いこんだ。
「……リシェル」
あの人の声がした。
顔を上げると、あの人が、こちらを見ていた。
「茎が、折れる」
わたしは、自分の手を見下ろした。
作りかけの花冠が、手の中で、少しだけ歪んでいた。
「……あ」
わたしは、慌てて手の力を抜いた。
茎は、折れていなかった。
くいっと二度押しこんだところは、ちゃんと、ほどけずに残っていた。
「……大丈夫です」
「そうか」
あの人は、それ以上何も訊かなかった。
また、自分の花冠を編みはじめた。
わたしは、歪んだ花冠を、指先でそっと直した。
――ほどけない。
くいっと二度押しこんだら、ほどけない。
あの子が、そう教えてくれた。
わたしは、隣の人の手元を見た。
くいっと、二度。
この人の花冠も、相変わらず不格好だけれど、ほどけてはいなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道、石畳の小道を、あの人の三歩後ろを歩いた。
手には、今日編んだ花冠を持っていた。
窓辺の皿の上に、また一つ増える。
薔薇の茂みが、近づいてきた。
あの茂みを抜けたら、もう、東の客殿の入口が見える。
今日の庭が、終わる。
わたしは、足を止めた。
あの人も、三歩先で足を止めた。
振り返らずに、待っていた。
わたしは、花冠を、胸に押し当てた。
――明日を楽しみにしたら、明日はなくなる。
怖かった。
口に出したら、本当になくなってしまうような気がした。
でも。
――答えなくていい。答えなかったからといって、何も変わらない。
この人は、そう言った。
それなら、答えても、何も変わらないのかもしれない。
答えたからといって、取り上げられることも、ないのかもしれない。
「……アルフレッド」
あの人が、振り返った。
「さっきの」
喉が、震えた。
「さっきの、ほしいもの、なんですけど」
あの人は、何も言わなかった。
ただ、じっと、わたしを見ていた。
待っていた。
わたしは、息を吸った。
「……明日も」
声が、かすれた。
「明日も、庭へ、行きたいです」
言ってしまった。
明日。
十年ぶりに、明日のことを、口にした。
わたしは、花冠を握りしめたまま、俯いた。
膝が、少しだけ震えていた。
あの人は、しばらく、何も言わなかった。
風が吹いて、薔薇の茂みが、かさかさと鳴った。
長い、長い沈黙だった。
わたしは、怖くなって、顔を上げた。
あの人は、三歩先で、わたしを見ていた。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔。
でも、その黒い瞳が、ほんのかすかに、揺れていた。
「……それで、いいのか」
あの人の声は、低かった。
「宝石でも、ドレスでもなく。そんなことで」
「……はい」
わたしは、小さく頷いた。
「それが、いいです」
それから、言葉を足した。
「アルフレッドが、嫌でなければ」
「嫌なわけがない」
あの人は、すぐに言った。
いつもよりも、少しだけ、早い声だった。
「明日も行く。雨が降っても行く」
「雨が降ったら……」
「水たまりがある」
あの人は、真顔で言った。
わたしは、まばたきをした。
それから、口元が、むずむずした。
「……それなら」
わたしは、花冠を胸に抱いたまま、小さな声で言った。
「それなら、嬉しいです」
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、三歩先で、あの子を見ていた。
――明日も、庭へ、行きたいです。
明日。
あの子が、明日のことを口にした。
この宮殿に来てから、あの子が口にしたのは、いつも今日のことだけだった。今日のスープ。今日のパン。今日、庭へ行くかどうか。
明日のことを訊けば、あの子は、いつも困ったように黙った。
――分かりません。
そう言って。
その子が、明日を望んだ。
――それなら、嬉しいです。
嬉しい、と言った。
あの子の口から、その言葉を聞いたのは、十年ぶりだった。
十年前の春、あの子は、毎日、別れぎわに言った。
――明日も、来てくれる?
自分は、そのたびに、うんと頷いた。
明日も来る。必ず来る。
そして、別れの日に、必ず迎えに来ると約束した。
その明日を、自分は、十年も先にしてしまった。
アルフレッドは、拳を握りしめた。
――今度は、必ず。
明日も。その次の明日も。
あの子が望むかぎり、何度でも。
「……戻るぞ」
「はい」
アルフレッドは、前を向いて、歩きだした。
三歩後ろから、あの子の小さな足音がついてきた。
振り返らなかった。
振り返れば、今の自分の顔を、あの子に見せてしまいそうだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、皇帝の執務室の扉が叩かれた。
宰相クラウスが入ってくると、皇帝は机の上に、明日の予定表を広げていた。
「クラウス」
「は」
「明日の午後を、空けろ」
クラウスは、予定表を覗きこんだ。
明日の午後には、北部諸侯との協議と、財務卿の報告と、近衛の閲兵が入っていた。
「……陛下。明日の午後は」
「分かっている。全部、ずらせ」
「理由を、伺っても」
皇帝は、窓の外を見た。
東の客殿のほうを。
「約束した」
それだけだった。
クラウスは、しばらく、主君の横顔を見つめていた。
それから、深々と、深々とため息をついた。
「……かしこまりました」
クラウスは、予定表を手に取った。
皇帝の横顔は、いつもと同じだった。
けれど、その目が、ほんの少しだけ、遠い春を見ているように、クラウスには思えた。




