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第52話 皇帝の休日

翌朝、宰相クラウスは、夜明け前から執務室に詰めていた。

 机の上には、書き直した予定表が三枚、並んでいた。

 北部諸侯との協議は、明後日の午前へ。諸侯はすでに帝都入りしているから、二日延びれば宿代がかさむと文句が出るだろう。宿代は宮廷持ちにするとして、その分の手当てを財務卿に頼まねばならない。

 その財務卿の報告は、明日の夕刻へ。財務卿は夕刻の会議を嫌う。若い頃から夕食の時刻にうるさい男だ。軽食を用意させて、なだめるしかない。

 近衛の閲兵は、来週へ。閲兵のために磨き上げた鎧を、騎士たちはもう一週間磨き続けることになる。

 クラウスは、ペンを置いて、こめかみを押さえた。

「……宰相閣下」

 扉のところに、近衛騎士団長のガレスが立っていた。

「閲兵の件、伺いました」

「申し訳ない、ガレス殿」

「いや」

 ガレスは、部屋に入ってきて、机の上の予定表を見下ろした。

 三枚とも、びっしりと書き直しの跡が残っていた。

「……理由は」

「約束した、と」

 クラウスは、ため息まじりに言った。

「明日も庭へ行きたいと、あの方が言ったそうです。それで、陛下は、雨が降っても行くとお答えになった」

 ガレスは、しばらく黙っていた。

 それから、ぽつりと言った。

「雨が降っても、ですか」

「水たまりがある、とも」

 ガレスが、天井を見上げた。

 クラウスも、窓の外を見た。

 空は、雲ひとつなく晴れていた。

「……ガレス殿」

「は」

「わたくしは、先帝陛下の代から宮廷に仕えて、三十年になります」

「存じております」

「内乱のさなかには、陛下を密かにお支えして、何度も首が飛ぶかと思いました。帝都を奪還した日には、生きているうちにこの日を迎えられたことを、神に感謝いたしました」

「はい」

「あの方は、帝国を救った。十年かけて、血と泥の中から、この国を取り戻した」

 クラウスは、書き直しだらけの予定表を、指先で叩いた。

「その帝国を救った男が、少女一人との散歩のために、国政を調整する日が来るとは」

 ガレスは、何も言わなかった。

 クラウスも、それ以上は言わなかった。

 しばらくして、ガレスが、低い声で言った。

「……お嫌ですか」

 クラウスは、少しのあいだ考えた。

 それから、もう一度、深々とため息をついた。

「いいえ」

 宰相は、新しい紙を取り出して、ペンを握った。

「財務卿をなだめる軽食の献立を、料理長に相談せねばなりませんな」


   ◇ ◇ ◇


「リシェル様、聞いてくださいっ」

 朝の支度のときに、ミーナさんが、そばかすの散った頬を上気させて言った。

「陛下が、今日の午後のご予定を、ぜんぶお取りやめになったんですって!」

 わたしは、化粧台の腰掛けの上で、身体を固くした。

「……ぜんぶ、ですか」

「はい! 北のほうの偉い方たちとのお話し合いも、お金のことの会議も、騎士の方たちのなんとか式も、ぜんぶ! 宰相さまが、朝からずうっと書き直してらっしゃるって」

「ミーナ」

 セレナさんが、静かに名前を呼んだ。

 ミーナさんは、はっとして口を押さえた。

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

 ――ぜんぶ。

 昨日、わたしが言ったからだ。

 明日も庭へ行きたい、と。

 あの人は、嫌なわけがないと言った。雨が降っても行く、と。

 でも、そのために、そんなにたくさんのことを。

 宰相さまが、朝からずっと。

 胸の奥が、冷たくなった。

 ――わたしの、せいだ。

 言わなければよかった。

 ほしいものなんて、言わなければよかった。

 わたしが何かをほしがると、そのぶん、誰かが困る。

 お屋敷では、それが当たり前だった。

「……リシェル様」

 セレナさんが、わたしの髪に櫛を入れながら、静かに言った。

「陛下が、ご自分でお決めになったことでございます」

 わたしは、鏡の中のセレナさんを見た。

「宰相閣下も、騎士団長さまも、お困りではございますでしょう。ですが」

 セレナさんの櫛が、わたしの髪を、ゆっくりと梳いていった。

「わたくしが侍女として宮殿に上がって二十五年。陛下がご自分のために予定をお空けになったのは、一度も見たことがございません」

「……ご自分の、ために」

「はい」

 セレナさんは、鏡越しに、わたしを見た。

「リシェル様のためではなく、陛下ご自身のために、お空けになったのだと、わたくしは思っております」


   ◇ ◇ ◇


 昼食のあと、あの人は、いつものように一度だけ訊いた。

「庭へ、行くか」

「……はい」

 わたしは、頷いた。

 それから、少しだけ迷って、言った。

「……あの、アルフレッド」

「何だ」

「今日の午後の、ご予定を」

 あの人の動きが、ほんのわずかに止まった。

「ミーナさんから、聞きました。ぜんぶ、お取りやめになったって」

 あの人は、何も言わなかった。

「わたしが、明日も行きたいなんて、言ったから」

「違う」

 あの人は、すぐに言った。

「俺が、行きたかった」

 わたしは、顔を上げた。

「お前が言わなくても、俺は、今日も庭へ行くつもりだった」

 あの人は、窓の外を見ていた。

「お前が言ってくれたから、それを、口実にした」

「……口実」

「ああ」

 あの人は、立ち上がった。

「それに、今日は休みだ」

「お休み」

「宰相がそう決めた。午後は、何もするなと」

 わたしは、まばたきをした。

 ――皇帝にも、お休みがあるのだ。

 そんなことを、考えたこともなかった。

「……お休みは、いつぶりですか」

 気がつくと、訊いていた。

 あの人は、少しのあいだ、考えるような顔をした。

「……覚えていない」


   ◇ ◇ ◇


 今日の庭は、いつもより長かった。

 林檎の木のある芝生を過ぎて、さらに奥へ。

 小さな池があった。

 水面に、丸い葉がいくつも浮かんでいた。その上を、細い脚の虫が、すいすいと滑っていた。

 あの人は、池のほとりで足を止めた。

 わたしも、三歩後ろで足を止めた。

 二人で、しばらく、池を見ていた。

 何も話さなかった。

 それから、あの人が、ぽつりと言った。

「……休みの日に、何をするのか、分からない」

 わたしは、あの人の横顔を見た。

「戦場では、休みなどなかった。帝都に戻ってからも、そうだ」

 あの人は、池を見たまま言った。

「午後を空けろと言ったのは、俺だ。だが、空けてみたら、何をすればいいのか分からない」

 わたしは、少しだけ、考えた。

 ――休みの日に、何をするのか。

 わたしにも、分からなかった。

 地下には、休みの日なんてなかった。毎日が同じで、毎日が、何もない日だった。

 何もしない日と、休みの日は、たぶん、違うのだと思う。

 でも、その違いが、わたしにはよく分からなかった。

「……わたしも、分かりません」

 わたしは、小さく言った。

 あの人が、こちらを見た。

「休みの日に何をするのか、知らないので」

 あの人は、しばらく黙っていた。

 それから、ほんのかすかに、息を吐いた。

「……似た者同士だな」

 わたしは、目を見開いた。

 似た者同士。

 その言葉が、なぜだか、すとんと胸の奥に落ちた。

 笑い方を知らない二人。

 休み方を知らない二人。

 わたしは、俯いた。

 口元が、また、むずむずした。


「……昔」

 わたしは、言った。

「昔、一度だけ、休みの日みたいな日が、あったような気がします」

「……どんな日だ」

「何も、しなかったんです」

 わたしは、池の水面を見た。

「花冠を作って、それにも飽きて。草の上に、寝転がって。空を、見てました」

 あの人は、何も言わなかった。

「雲が、流れていくのを、ずっと見てて。あれは羊みたい、とか、あれはパンみたい、とか。そういうことを、言ってただけで」

 ――あれ、パンに似てる。

 ――リシェルは、なんでも食べ物に見えるんだな。

 あの子の笑い声が、耳の奥で、かすかに聞こえた気がした。

「何もしなかったのに、とても、楽しかったんです」

 わたしは、そこで、口をつぐんだ。

 話しすぎた、と思った。

 あの人は、黙って、池を見ていた。

 長い沈黙だった。

 それから、あの人は、池のほとりの芝生に、腰を下ろした。

 そのまま、仰向けに、寝転がった。

 わたしは、息を呑んだ。

 皇帝が。

 芝生の上に、大の字に。

 短く刈りこんだ黒い髪に、草の葉先が触れていた。

「……やってみる」

 あの人は、空を見上げたまま言った。

「何もしない、というのを」


 わたしは、しばらく、立ったまま動けなかった。

 それから、そっと、芝生に膝をついた。

 あの人から、三歩離れたところに。

 少しだけ迷ってから、わたしも、仰向けに寝転がった。

 草が、背中にやわらかかった。

 空が、広かった。

 青くて、どこまでも高くて、白い雲が、ゆっくりと流れていた。

 最初は、怖かった。

 広すぎて、吸いこまれてしまいそうで。

 あの日、お屋敷の玄関で見上げた夜明けの空のように、自分がひどく小さくなった気がした。

 でも、隣に、あの人がいた。

 三歩向こうで、同じ空を見ていた。

 だから、少しずつ、怖くなくなった。

「……あれは」

 あの人が、言った。

「何に見える」

 わたしは、あの人の視線の先を見た。

 ふっくらとした、丸い雲が浮かんでいた。

 端のほうが、少しだけ、ちぎれていた。

「……パン、です」

「パンか」

「ちぎったあとの、パンです」

 あの人は、しばらく黙っていた。

「……お前は、なんでも食べ物に見えるんだな」

 わたしは、息を止めた。

 ――リシェルは、なんでも食べ物に見えるんだな。

 同じだった。

 言葉も。言い方も。

 わたしは、あの人のほうを見た。

 あの人は、空を見上げたままだった。

 何の表情も浮かんでいない、いつもの横顔。

 ――偶然。

 きっと、偶然だ。

 パンに見えると言われたら、誰だって、同じことを言う。

 わたしは、胸元のボタンを、服の上から握りしめた。

 それから、また、空を見上げた。

 雲は、もう、形を変えていた。

 ちぎれたパンは、どこかへ流れていってしまった。


   ◇ ◇ ◇


 どれくらい、そうしていたのだろう。

 空の色が、少しだけ、やわらかくなっていた。

「……アルフレッド」

 呼んでみた。

 返事がなかった。

 わたしは、そっと、首を横に向けた。

 あの人は、目を閉じていた。

 胸が、ゆっくりと上下していた。

 ――眠っている。

 わたしは、身体を起こしかけて、やめた。

 物音を立てたら、起こしてしまう。

 わたしは、寝転がったまま、あの人の顔を見ていた。

 眠っている顔は、起きているときよりも、ずっと若く見えた。

 眉間に、いつもうっすらと刻まれている皺が、消えていた。

 引き結ばれている唇が、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。

 短い黒い髪に、芝生の草の切れ端が、いくつかくっついていた。

 ――この人は、眠れていなかったのだ。

 ふいに、そう思った。

 わたしが悪い夢を見た夜、あの人は、すぐに来てくれた。あんな夜更けだったのに。

 いつも、窓の外を見ていた。

 何かを、ずっと、見張っているみたいに。

 戦場では、休みなどなかった、と、さっき言っていた。

 十年。

 十年、ずっと、こうして眠ることもできずに。

 わたしは、手の中に、さっき林檎の木の下で編みかけて、そのまま持ってきた小さな花冠があるのに気がついた。

 あの人の頭に、載せようかと思った。

 手を伸ばしかけて、止めた。

 ――触れてもいいか。

 あの人は、いつも、そう訊く。

 わたしに触れる前に、必ず。

 眠っている人には、訊くことができない。

 だから、触れては、いけない。

 わたしは、花冠を、あの人の手のそばの芝生の上に、そっと置いた。

 頭ではなく。

 手の、すぐそばに。

 起きたときに、すぐ見つけられるように。

 それから、また、仰向けになって、空を見上げた。

 雲が、ゆっくりと流れていた。

 隣から、あの人の寝息が、かすかに聞こえていた。

 ――何もしないのに、楽しい。

 十年前と、同じだった。


   ◇ ◇ ◇


 池から少し離れた木立の陰で、近衛騎士団長ガレスは、腕を組んで立っていた。

 皇帝は、人を遠ざけろと言った。

 だから、見える場所には立たなかった。

 ただ、いざというときに駆けつけられる距離には、いた。

 ガレスは、芝生の上の二人を見ていた。

 皇帝が、眠っていた。

 昼日中に。芝生の上で。剣も持たずに。

 戦場でこの方の傍らに仕えるようになってから、十年近く。

 ガレスは、この方が深く眠っているところを、ほとんど見たことがなかった。

 野営の夜も、帝都に戻ってからも、この方は、小さな物音ひとつで目を覚ました。眠るときも、剣を手の届くところに置いていた。

 その方が、今、少女の隣で、寝息を立てている。

 少女は、皇帝の手のそばに、何かを置いていた。

 白い、小さな輪。

 花冠だった。

 ガレスは、天を仰いだ。

 それから、木立の陰に、静かに腰を下ろした。

 日が傾くまで、ここで待とう、と思った。

 誰にも、あの眠りを邪魔させない。


   ◇ ◇ ◇


 その日の夕刻、宰相クラウスは、騎士団長から報告を受けた。

「……お休みに、なっていた」

「はい。日が傾くまで」

「芝生の上で」

「はい」

「陛下が」

「はい」

 クラウスは、書き直しだらけの予定表を見下ろした。

 北部諸侯。財務卿。近衛の閲兵。

 すべて、この午後のために動かした。

「……起きられたとき、陛下は、何と」

 ガレスは、少しのあいだ黙っていた。

「何も、おっしゃいませんでした」

 それから、言いにくそうに付け足した。

「ただ、手のそばに置かれていた花冠を、しばらく見ておられて。それを持ったまま、お戻りになりました」

 クラウスは、目を閉じた。

 それから、ゆっくりと、ペンを手に取った。

「……ガレス殿」

「は」

「来月の予定にも、どこかに、午後をひとつ空けておきましょう」

 ガレスは、何も言わなかった。

 ただ、黙って、深く一礼した。

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