第53話 怖い噂
皇帝の休日の次の日、あの人は、昼食のときに一度だけ言った。
「今日の午後は、庭へは行けない」
昨日の午後に手をつけられなかった書類が山になっていて、夕刻には、昨日からずらした財務卿の報告も控えているのだと、ミーナさんから聞いていた。
「……はい」
わたしは頷いた。
残念だと思った。
思ってから、少しだけ驚いた。
庭へ行けないことを、残念だと思う。そんなことを思うようになったのは、いつからだったろう。
「明日は、行く」
あの人は、盆を下げながら、そう付け足した。
「……はい」
わたしは、もう一度頷いた。
あの人が出ていったあとも、その「明日は、行く」という声が、耳の奥に残っていた。
◇ ◇ ◇
午後、わたしは廊下を歩く練習をした。
部屋の中を歩くだけでは、もう物足りなくなっていた。庭へ行くたびに、石畳の小道を歩けるようになっていたから。
「廊下の突き当たりの窓まで、行ってみたいです」
そう言うと、セレナさんは少し考えてから、ミーナさんを付けてくれた。
「無理はなさいませんように。疲れたら、すぐにお戻りくださいませ」
「はい」
東の客殿の廊下は、長かった。
片側に大きな窓が並んでいて、午後の光が、床の上に四角い陽だまりをいくつも落としていた。
わたしは、その陽だまりをひとつずつ踏むようにして、ゆっくりと歩いた。
ミーナさんが、半歩後ろをついてきた。
「リシェル様、お上手です! 前に転ばれたときとは、ぜんぜん違います」
「……そう、ですか」
「はい! 足の運びが、しっかりしてらっしゃいます」
ミーナさんの声は、いつも明るかった。
その声を聞きながら歩くと、膝の震えが、少しだけ軽くなるような気がした。
突き当たりの窓まで、あと半分くらいのところで、廊下の向こうから、年配の侍女の人が小走りにやってきた。
「ミーナ、ちょっと。侍女長さまがお呼びよ。リネン室の鍵が見当たらないって」
「えっ、あ、はいっ」
ミーナさんは、困ったようにわたしを見た。
「リシェル様、すぐ戻ってまいりますから。ここで、少しだけ待っていてくださいますか」
「……はい。大丈夫です」
ミーナさんは、何度も振り返りながら、廊下の向こうへ駆けていった。
わたしは、窓辺に手をついて、少しだけ休んだ。
窓の外に、薔薇の庭が見えた。
その向こうに、林檎の木の梢が、ほんの少しだけのぞいていた。
廊下の脇に、半分開いた扉があった。
中から、声が聞こえてきた。
布をばさばさと広げる音と、何人かの女の人の、笑い声。
「――でね、また陛下のズボンが来たのよ。膝の下まで泥だらけで」
「またあ? これで何度目?」
「数えてないわよ、もう。あたし、最初に見たとき、どこかの騎士見習いのが紛れこんだのかと思ったんだから」
くすくすと、笑い声がした。
洗濯場の人たちだ、と思った。
わたしのドレスと、あの人のズボンを、何度も洗ってくれている人たち。
わたしは、窓辺に手をついたまま、少しだけ、扉のほうへ耳を傾けた。
あの人のことを、こんなふうに話す人たちがいる。
それが、なんだか、くすぐったかった。
「あの陛下がねえ。水たまりで遊んでらっしゃるなんて」
「お庭で、お昼寝もなさったって聞いたわよ。騎士団長さまが、日が暮れるまで見張ってらしたって」
「うそお」
「ほんとよ。厨房の子が、近衛の人から聞いたって」
「信じられない。あの、血も涙もない陛下が」
――血も涙もない。
わたしの指先が、窓枠の上で、ぴくりと動いた。
「ちょっと、声が大きいわよ」
別の声がした。少し低い、年かさの声だった。
「いいじゃない、誰も聞いてないわよ。それに、本当のことでしょ」
「本当のことだから、言うんじゃないの」
「……でも、あたし、正直まだ怖いわ」
若い声が、少しだけ小さくなった。
「陛下のズボン洗いながら、ふっと思うのよ。この方が、何千人も首をはねたんだって」
わたしは、息を止めた。
「何千人って、それは大げさよ」
「大げさなもんですか。あたしの叔母さん、南のほうのお屋敷で下働きしてたの。陛下が即位なさってすぐ、そこのご当主さまが捕まって。奥方さまも、坊ちゃまたちも、お屋敷ごと、一晩でいなくなったって」
「それは、簒奪者についたお家でしょう」
「そうだけど。叔母さん、言ってたわ。奥方さまが、陛下の前で泣いてすがったんだって。せめて子どもたちだけは、って。床に額をこすりつけて、泣いて泣いて」
布を広げる音が、止まった。
「でも、陛下は、眉ひとつ動かさなかったって」
誰も、何も言わなかった。
「泣いてる人を見ても、顔色ひとつ変えない方なのよ。だから、血も涙もないって」
「……西の辺境の貴族の話も、聞いた?」
年かさの声が、低く言った。
「つい先ごろよ。兵を挙げた貴族を四十二人。捕らえたその夜のうちに、ひとり残らず」
「やめてよ、そういうの」
「あんたが言いだしたんでしょ」
また、布を広げる音がした。
ばさり、ばさりと。
「……だからね、あたし、あの東の客殿のお嬢さまのこと、ちょっと心配なの」
若い声が、ぽつりと言った。
「陛下があんなに大事にしてらっしゃるのは、分かるわよ。でも、もしも陛下のご機嫌を損ねたら」
「縁起でもないこと言わないの」
「だって」
「ほら、手を動かして。日が暮れるわよ」
それきり、声は、布の音にまぎれていった。
わたしは、窓辺に手をついたまま、動けなかった。
――何千人も。
知っていた。
知っていたはずだった。
あの日、お屋敷から連れ出された日。この人が皇帝なのだと分かったとき。
地下の差し入れ口の向こうで、ドルフさんたちが話していた。帝都の若い皇帝。貴族の首をはねた皇帝。血も涙もない皇帝。
何百人も、何千人も殺したと噂される人。
わたしは、それを、知っていた。
馬車の中で、身体の芯が冷たくなったのを覚えている。お母さまより、お兄さまより、ずっと怖い人なのかもしれないと思ったことも。
でも。
いつの間にか、忘れていた。
毎日、お昼になると、扉を叩く人。
「入っていいか」と訊く人。
曲がった匙で、ひと口ずつ確かめてくれる人。
三歩離れて歩いて、振り返らずに待っていてくれる人。
花冠を下手くそに編んで、木に登って、頭に鳩を乗せて、水たまりに踏みこんで、芝生の上で眠ってしまう人。
その人と。
――泣いてすがった奥方さまを、眉ひとつ動かさずに。
その人が、同じ人だということを。
わたしは、いつの間にか、忘れていた。
――泣いてすがった。
その言葉が、胸の奥に、冷たく沈んでいった。
泣いている人を見ても、顔色ひとつ変えない人。
わたしの前で、あの人は、一度も泣けと言わなかった。
わたしに涙を求める者は、反逆者だという勅令まで出した。
わたしが泣きそうになったときは、いつも、目を逸らして、遠くを見ていてくれた。
それなのに。
ほかの人の涙は。
床に額をこすりつけて、子どもたちだけはと泣いた人の涙は。
――眉ひとつ、動かさなかった。
わたしは、窓の外を見た。
林檎の木の梢が、まだ、そこにのぞいていた。
昨日、あの木の向こうの池のほとりで、あの人は、眠っていた。
眉間の皺が消えて、唇がゆるんで、ずっと若く見えた寝顔。
あの寝顔と。
泣いてすがる人の前で、顔色ひとつ変えなかった顔と。
どうしても、重ならなかった。
どちらかが、嘘なのだろうか。
噂が、嘘なのだろうか。
それとも。
――わたしが見ているあの人のほうが、嘘なのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥が、ひどく痛んだ。
お母さまも、最初はやさしかった。
林檎をくれた。やさしい声で、話しかけてくれた。
そのやさしさが、何のためのものだったのか、わたしは知っている。
――違う。
わたしは、首を振った。
あの人は、違う。
宝石を断ったあの日、自分でそう言ったばかりだった。アルフレッドは、お母さまとは違う、と。
でも。
それなら、泣いてすがった人の前で、眉ひとつ動かさなかった人は、誰なのだろう。
「リシェル様っ、お待たせしました!」
ミーナさんの声がして、わたしは、びくりと顔を上げた。
廊下の向こうから、ミーナさんが、息を切らして駆けてくるところだった。
「すみません、鍵、すぐ見つかったんですけど、侍女長さまに別のことも頼まれちゃって……リシェル様?」
ミーナさんの足が、止まった。
わたしの顔を、覗きこんだ。
「お顔の色が。お疲れになりましたか」
「……いえ」
わたしは、首を振った。
「大丈夫、です。でも、今日は、もう、戻ります」
「突き当たりの窓まで、もうすぐですよ?」
「……また、今度にします」
ミーナさんは、少しだけ心配そうに眉を下げた。
それから、何も訊かずに、わたしの半歩後ろについてくれた。
半分開いた扉の前を通り過ぎるとき、中の声は、もう聞こえなかった。
ばさり、ばさりと、布を広げる音だけがしていた。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは、窓辺の皿の前にしゃがみこんでいた。
花冠が、いくつも並んでいた。
しおれて茶色くなったもの。まだ白いもの。わたしが編んだもの。あの人が編んだもの。
くいっと二度の、ほどけない輪。
わたしは、そのひとつを、指先でそっと撫でた。
あの人の編んだ花冠。
茎があちこちから飛び出していて、花の向きもばらばらな。
この花冠を編んだ手が。
何千人もの首をはねよと、命じた手。
――ほんとうに?
わたしは、自分の手のひらを見下ろした。
あの人の手を、思い出した。
大きな手。剣を握るための手。錠前を叩き壊した手。
あの夜、わたしの冷たい手を、そっと包んでくれた手。
触れてもいいか、と訊いてから。
同じ手だった。
どちらも、同じ、あの人の手だった。
わたしは、胸元のボタンを握りしめた。
――泣かないで。
遠い声が、聞こえた。
林檎の木の下で、泣いているわたしのそばにしゃがみこんで、そう言ってくれた男の子。
泣いている人を見て、放っておけなかった男の子。
その子と。
泣いている人の前で、眉ひとつ動かさなかった皇帝と。
――関係ない。
わたしは、首を振った。
あの子と、あの人は、関係ない。
関係ないはずなのに、どうして今、あの子のことを思い出すのだろう。
◇ ◇ ◇
翌日の昼、扉を叩く音がした。
低くて、重たくて、短い叩き方。
「入っていいか」
わたしは、すぐには答えられなかった。
扉の向こうで、あの人が待っていた。
「……はい」
ようやく、そう言った。
あの人が、銀の盆を持って入ってきた。
いつものように、盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。
わたしは、その手を見ていた。
匙を持つ、大きな手。
昨日の夜、ずっと考えていた手。
あの人は、いつものように、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろした。
わたしは、卓のそばでスープを飲んだ。
十口。
パンを、二つ。
いつもと同じように食べられた。
でも、食べ終わってから、絨毯のほうへ行けなかった。
あの人から三歩離れた、いつもの場所へ。
わたしは、化粧台の腰掛けに座った。
焼き菓子の日より前の場所に。
あの人が、こちらを見た。
ほんの一瞬だけ。
それから、何も言わずに、窓の外へ目を戻した。
「……今日は、晴れている」
あの人が、言った。
「庭へ、行くか」
昨日、明日は行くと言った人。
約束を、守ろうとしている人。
わたしは、膝の上で両手を握りしめた。
「……今日は」
声が、かすれた。
「今日は、やめておきます」
あの人は、しばらく黙っていた。
「……そうか」
それだけだった。
理由は、訊かなかった。
あの人は、いつもそうだった。断っていい、と言った人は、断られても、理由を訊かない。
あの人は、立ち上がった。
扉のほうへ歩いていく。
その背中を見ながら、わたしは、口を開きかけた。
――アルフレッド。
呼ぼうとした。
でも、声が、出なかった。
昨日まで、呼べていた名前が。
十二回目でやっと呼べて、それから毎日、練習してきた名前が。
喉の奥で、つかえたまま、出てこなかった。
扉の前で、あの人の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
振り返らなかった。
それから、静かに扉を開けて、出ていった。
扉の閉まる音がした。
わたしは、化粧台の腰掛けの上で、両手で顔を覆った。
――呼べなかった。
怖かったわけでは、なかった。
あの人が、わたしに何かをするとは、思わなかった。
ただ、分からなかった。
わたしが呼ぼうとしている名前の人が、誰なのか。
花冠を編む人なのか。
泣いてすがる人の前で、眉ひとつ動かさない人なのか。
どちらも、同じ人なのか。
それが分からないまま、名前を呼ぶことが、どうしてもできなかった。
窓の外で、風が吹いた。
薔薇の茂みが、かさかさと鳴った。
その向こうで、林檎の木の梢が、静かに揺れていた。
――訊いても、いいのだろうか。
あの人に。
直接。
わたしは、顔を覆った手の下で、ぎゅっと目を閉じた。




