第54話 処刑したのですか
その夜も、あまり眠れなかった。
寝台の中で、何度も同じことを考えた。
訊いてもいいのだろうか。
訊いたら、あの人は怒るだろうか。
怒らないかもしれない。あの人は、わたしが何を訊いても、怒ったことがなかった。
でも、訊いたら、答えが返ってくる。
その答えを、わたしは、聞きたいのだろうか。
――噂は、嘘だ。
あの人がそう言ってくれたら、わたしは安心できるのかもしれない。
でも、そう言われても、きっと、信じきれない気がした。
お母さまも、嘘をつくときは、やさしい声だったから。
――噂は、本当だ。
そう言われたら。
そう言われたら、わたしは、どうするのだろう。
分からなかった。
分からないまま、窓の外が、少しずつ白くなっていった。
◇ ◇ ◇
「入っていいか」
「……はい」
次の日の昼も、あの人は、いつものように来た。
盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめて、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろした。
わたしは、卓のそばでスープを飲んだ。
十口。
パンを、二つ。
それから、化粧台の腰掛けに座った。
昨日と同じ場所に。
あの人は、何も言わなかった。
窓の外を、見ていた。
昨日、わたしが庭を断ったことも、名前を呼ばなかったことも、何ひとつ訊かなかった。
ただ、いつもと同じように、そこにいた。
わたしは、膝の上で両手を握りしめた。
――訊かなければ。
このまま黙っていたら、明日も、明後日も、わたしは、この腰掛けから動けない。
名前も、呼べない。
それは、いやだった。
「……あの」
声が、震えた。
あの人が、こちらを見た。
「訊いても、いいですか」
「ああ」
あの人は、すぐに答えた。
「何でも訊いていい」
わたしは、息を吸った。
喉の奥が、からからに乾いていた。
「一昨日、廊下で」
言葉が、つかえた。
「洗濯場の人たちが、話しているのを、聞いてしまって」
あの人は、黙っていた。
「陛下が、即位なさったとき、何千人も……」
その先が、出てこなかった。
わたしは、目を閉じた。
それから、もう一度、息を吸って、言った。
「……処刑、したのですか」
部屋の中が、静かになった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
わたしは、目を開けられなかった。
あの人の顔を、見るのが怖かった。
「した」
低い声がした。
短くて、平らな声だった。
言い訳も、ためらいも、何も混じっていなかった。
わたしは、目を開けた。
あの人は、まっすぐにわたしを見ていた。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔だった。
目を、逸らさなかった。
「何千人というのは、多すぎる」
あの人は、続けた。
「処刑したのは、三百と十二人だ。爵位を取り上げた家と、一族ごと国の外へ追った家を合わせれば、もっと多い。それが何千人に聞こえても、おかしくはない」
三百と、十二人。
あの人は、その数を、少しも迷わずに言った。
まるで、ずっと、胸の中で数えつづけてきたみたいに。
「数を、覚えているんですか」
「全員の名前を覚えている」
あの人は言った。
「処刑の命令書には、全部、俺が自分で署名した。ほかの誰にも、代わりに書かせなかった」
「……どうして」
「俺が殺すからだ」
あの人の声は、少しも揺れなかった。
「誰かに書かせれば、その誰かが殺したことになる。そうはさせなかった」
わたしは、膝の上で、手を握りしめた。
指先が、冷たくなっていた。
「……奥方さまが」
声が、かすれた。
「南のお屋敷の奥方さまが、陛下の前で、泣いてすがったって。子どもたちだけは、って」
「覚えている」
あの人は、すぐに言った。
「エーベルト家だ。当主は、簒奪者の軍に兵糧を回していた。兵糧を集めるために、自分の領地の村を三つ、干上がらせた。冬に、蔵の麦を一粒残らず持っていかせた」
あの人は、窓の外を見なかった。
わたしを見たまま、話していた。
「その冬、村で、子どもが何人死んだか、あの家の者は数えもしなかった」
わたしは、息を止めた。
「当主は、首をはねた。奥方と子どもたちは、北の修道院へ送った。殺してはいない。だが、家も、名も、財産も、何ひとつ残さなかった」
「……奥方さまが、泣いていたのに」
「泣いていた」
あの人は、静かに言った。
「床に額をこすりつけて、泣いていた。俺は、眉ひとつ動かさなかった。噂のとおりだ」
わたしは、あの人の顔を見つめた。
その顔は、本当に、何ひとつ動いていなかった。
「どうして、ですか」
気がつくと、訊いていた。
「どうして、何も感じないような顔が、できたんですか」
あの人は、少しのあいだ黙っていた。
それから、言った。
「感じなかったわけじゃない」
低い声だった。
「だが、あそこで少しでも顔を動かせば、次の日から、帝都じゅうの家が泣きに来る」
わたしは、まばたきをした。
「簒奪者についた家は、百を超えていた。どの家にも、妻がいて、子どもがいて、泣く者がいた。一人の涙で手を緩めれば、次の涙でも緩めなければならない。緩めた家は、生き残って、また兵を集める」
あの人は、自分の膝の上の手を見下ろした。
「戦場で、そういうのを何度も見た。命乞いを聞き入れた指揮官は、その夜のうちに寝首をかかれた。焼け出された村人を哀れんで足を止めた部隊は、追いつかれて、全員死んだ」
「……」
「十年、そういう戦をした。帝都を取り戻したとき、俺は、もう二度と、あの戦を繰り返させないと決めた。そのためには、簒奪者の根を残すわけにはいかなかった」
あの人は、顔を上げた。
「それで、この三年、帝国の中で戦は起きていない」
淡々とした声だった。
「村は焼かれていない。冬に蔵を空にされることもない。西の辺境で兵を挙げた貴族もいたが、四十二人、捕らえたその夜のうちに片をつけた。だから、戦にはならなかった」
四十二人。
洗濯場の人たちも、その数を言っていた。
「それが、俺のしたことの結果だ」
あの人は言った。
「理由も、結果も、今話したとおりだ。だが」
少しだけ、間があった。
「それで、俺が正しかったとは言わない」
わたしは、あの人を見た。
「三百十二人のうち、一人も間違えなかったとは、言えない。証拠は揃えた。だが、揃えた証拠の中に、嘘が混じっていなかったとは、誰にも言いきれない」
あの人の声は、変わらなかった。
平らで、低くて、少しも揺れていなかった。
でも、膝の上の手が、白くなるほど握りしめられていた。
「北の修道院に送った子どもたちは、父親を殺した男の名前を、一生覚えているだろう。それも、俺のしたことだ」
わたしは、何も言えなかった。
喉の奥が、ひどく痛かった。
「リシェル」
あの人が、わたしの名前を呼んだ。
「俺を、善い人間だと思う必要はない」
わたしは、息を止めた。
「お前の前で、俺は、お前の嫌がることはしない。それは本当だ。これからも変わらない」
あの人は、まっすぐにわたしを見ていた。
「だが、泣いてすがる奥方の前で眉ひとつ動かさなかったのも、俺だ。どちらかが嘘なわけじゃない。どちらも、同じ俺だ」
――どちらも、同じ。
昨日の夜、わたしが考えていたことと、同じだった。
花冠を編む人と。
泣いてすがる人の前で、眉ひとつ動かさない人と。
どちらも、同じ人なのか、と。
あの人は、それを、自分の口で言った。
ごまかさずに。
美しい言葉で、包みもせずに。
「怖いなら、怖がっていい」
あの人は言った。
「庭へ行きたくなければ、行かなくていい。名前を呼びたくなければ、呼ばなくていい。それで、俺がお前にすることは、何も変わらない」
それだけ言って、あの人は口を閉じた。
わたしは、長いあいだ、黙っていた。
あの人も、黙っていた。
窓の外で、風が吹いて、薔薇の茂みが、かさかさと鳴った。
――した。
あの人は、そう言った。
噂は嘘だ、とは言わなかった。
仕方がなかった、とも言わなかった。
自分は正しかった、とも。
お母さまは、いつも、自分は正しいと言った。
――あなたのためなのよ、リシェル。
――ヴァレンティア家のためなの。
――泣いてくれたら、みんなが幸せになるのよ。
わたしを地下に閉じこめて、お兄さまの鞭を止めもせずに、熱の出るスープを飲ませながら、お母さまは、一度も、自分が悪いとは言わなかった。
でも、この人は。
人を殺したことを、殺したと言った。
数を、覚えていた。名前を、覚えていた。
自分が正しかったとは、言わなかった。
――善い人間だと思う必要はない。
わたしは、あの人の顔を見た。
何の表情も浮かんでいない顔。
眉ひとつ、動いていない顔。
でも、膝の上の手は、まだ、白くなるほど握りしめられていた。
――感じなかったわけじゃない。
あの人は、そう言った。
感じていたのに、顔に出さなかったのだ。
出したら、もっとたくさんの人が死ぬから。
わたしは、ふと、自分のことを思った。
地下で、泣かないと決めた日のことを。
泣いたら、石になる。石になったら、お母さまが喜ぶ。
だから、どんなに痛くても、どんなに悲しくても、顔に出さないようにした。
感じなかったわけではなかった。
感じていたのに、出さなかった。
出したら、もっとひどいことになるから。
――同じ、なのだろうか。
わたしは、慌てて、その考えを打ち消した。
違う。
わたしは、誰も殺していない。
でも。
感じているのに、何も感じていないような顔をしつづけることが、どれほど苦しいか。
それだけは、わたしにも、分かる気がした。
「……もう少し」
わたしは、小さな声で言った。
「もう少しだけ、考えても、いいですか」
「ああ」
あの人は、頷いた。
「好きなだけ考えればいい」
それから、立ち上がった。
扉のほうへ歩いていった。
今日は、「庭へ行くか」とは、訊かなかった。
扉の前で、あの人は、足を止めた。
振り返らずに、言った。
「話してくれて、よかった」
低い声だった。
「噂だけで、俺を怖がられるよりは、ずっといい」
扉が開いて、閉まった。
わたしは、化粧台の腰掛けの上で、閉まった扉を、長いあいだ見つめていた。
◇ ◇ ◇
廊下に出たアルフレッドは、そのまま、しばらく歩いた。
東の客殿の角を曲がって、誰もいない回廊まで来て、ようやく足を止めた。
柱に、背中を預けた。
――処刑、したのですか。
あの子の声が、耳の奥に残っていた。
震えていた。
それでも、目を逸らさずに、訊いてきた。
いつか、訊かれる日が来ると思っていた。
噂は、宮殿のどこにでも転がっている。あの子の耳に入らないはずがなかった。
ごまかすことは、できた。
噂は大げさだ、と言えば、あの子は、たぶん、それを信じようとしただろう。
あの子は、信じたいほうを信じようとする子だ。
十年前、迎えに来るという約束を、ボタンひとつ握りしめて、信じて待っていた子だ。
だからこそ、ごまかすわけにはいかなかった。
あの子は、やさしい嘘を、いやというほど聞かされて育った。
――あなたのためなのよ。
その言葉が何を意味していたのか、アルフレッドは知っている。地下の鉄の扉の前で、その証を見た。
自分まで、あの子にやさしい嘘をつくわけにはいかなかった。
たとえ、それで、あの子が二度と庭へ来なくなっても。
二度と、名前を呼んでくれなくなっても。
アルフレッドは、目を閉じた。
――アルフレッド。
十二回目で、やっと呼べた声。
それを、もう聞けないかもしれない。
胸の奥が、きしむように痛んだ。
それでも。
――話してくれて、よかった。
あの子に言ったその言葉は、本当だった。
噂のまま、何も訊かずに、静かに遠ざかっていかれるよりは。
あの子が、自分の口で訊いてくれた。
怖いのに、震えながら、目を逸らさずに。
それは、あの子が、自分と向き合おうとしてくれたということだった。
アルフレッドは、柱から背中を離した。
執務室へ戻らなければならない。
午後の執務が、山のように待っている。
回廊を歩きだしながら、アルフレッドは、一度だけ、東の客殿のほうを振り返った。
――好きなだけ、考えればいい。
待つことには、慣れていた。
十年、待ったのだから。




