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第55話 怖いけれど

あの人が出ていったあと、わたしは、ずっと考えていた。

 午後のあいだも。夕食のあいだも。寝台に入ってからも。

 ――した。

 あの人の声が、耳の奥で、何度も繰り返された。

 三百と十二人。

 全員の名前を、覚えている。

 ――俺を、善い人間だと思う必要はない。

 わたしは、天蓋を見上げたまま、胸元のボタンを握りしめた。

 怖かった。

 本当のことを聞いても、怖さは、消えなかった。

 あの大きな手が、三百十二枚の紙に、自分の名前を書いた。

 泣いている人の前で、眉ひとつ動かさなかった。

 それは、噂ではなかった。あの人が、自分の口で、そう言ったのだ。

 でも。

 ――感じなかったわけじゃない。

 白くなるほど握りしめられていた、膝の上の拳。

 ――話してくれて、よかった。

 扉の前で、振り返らずに言った、あの低い声。

 怖いのに。

 それなのに、明日もあの人が扉を叩くのを、わたしは、待っている。

 どうしてなのか、自分でも、よく分からなかった。

 分からないまま、わたしは、ひとつだけ、決めた。

 ――明日、何かを、してみよう。

 あの人に、何かを言われるのを待つのではなくて。

 わたしのほうから。


   ◇ ◇ ◇


「お茶を」

 翌朝、髪に櫛を入れてくれているセレナさんに、わたしは言った。

 鏡の中で、セレナさんの手が、ほんの少しだけ止まった。

「お昼のあとに、お茶を、お願いしたいんです」

「……かしこまりました」

 セレナさんは、静かに言った。

 それから、少しだけ首をかしげた。

「お一人分で、よろしゅうございますか」

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

「……二人分、で」

 セレナさんの櫛が、髪の途中で、止まった。

 鏡の中で、目が合った。

 セレナさんは、何も訊かなかった。

 ただ、ほんの一瞬だけ、目を細めた。

「かしこまりました」

 それから、また、ゆっくりと櫛を動かしはじめた。

「茶葉は、いかがいたしましょう」

「……前に、ミーナさんが持ってきてくださった」

 わたしは、小さな声で言った。

「東方の、花みたいな香りがする、お茶」

 あの日、わたしは、そのお茶を断った。

 いりません、と。

 この宮殿に来て、初めて、何かを断った日だった。

 断っても、何も起きなかった。

 ミーナさんは「かしこまりました」と言ってお茶を下げていき、次の日の朝も、いつもと同じように、温かいパンが届いた。

 セレナさんは、少しのあいだ黙っていた。

「……まだ、ございますよ」

 鏡の中のセレナさんの口元が、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。

「それから、もうひとつ」

 わたしは、言った。

「化粧台の、この腰掛けを、卓のところへ、持っていってもいいですか」


   ◇ ◇ ◇


「入っていいか」

「……はい」

 扉が開いて、あの人が入ってきた。

 銀の盆を持って。

 それから、あの人の足が、扉のところで止まった。

 部屋の真ん中の、小さな円い卓。

 その上に、白い陶器の茶器が並んでいた。

 小さな茶杯が、二つ。

 卓のまわりには、あの日の、淡い緑色の布張りの椅子がひとつ。

 その向かいに、化粧台の木の腰掛けがひとつ。

 あの人は、しばらく、それを見ていた。

 それから、ゆっくりと、わたしのほうを見た。

 わたしは、窓辺に立っていた。

 胸元のボタンを、手のひらで包んでいた。

「……昼食のあとで」

 わたしは、言った。

「お茶を、用意してもらいました」

 あの人は、何も言わなかった。

「よかったら、一緒に、飲んでいただけませんか」

 声が、少しだけ震えた。

 あの人は、まだ、何も言わなかった。

 盆を持ったまま、扉の前に立っていた。

 黒い瞳が、卓の上の二つの茶杯と、わたしの顔とを、行ったり来たりしていた。

「……いいのか」

 ようやく、あの人が言った。

 低い声だった。

「昨日、俺が何を話したか」

「覚えています」

 わたしは、言った。

「ぜんぶ、覚えています」


 昼食は、いつもと同じだった。

 あの人が盆を卓の端に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。

 わたしは、卓のそばでスープを飲んで、パンを食べた。

 あの人は、今日は、絨毯の上に座らなかった。

 卓から少し離れたところに、立ったまま、窓の外を見ていた。

 わたしが食べ終わるのを、待っていた。

 セレナさんが、湯の入った小さな壺を持って入ってきた。

 茶器に、湯を注ぐ。

 花のような香りが、ふわりと部屋に広がった。

 あの日と、同じ香りだった。

 セレナさんは、茶杯を二つ満たすと、一礼して出ていった。

 扉が閉まるとき、ほんの一瞬だけ、セレナさんがあの人のほうを見たのが分かった。

 何も言わなかった。

 でも、あの人は、その視線を受けて、かすかに顎を引いた。


 わたしは、木の腰掛けに座った。

 あの人は、まだ立っていた。

「……座っても、いいか」

 あの人が、訊いた。

「向かいに」

「……はい」

 あの人は、淡い緑色の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。

 大きな身体が、柔らかい座面に、ずぶりと沈んだ。

 あの人の眉が、ほんのかすかに寄った。

 それから、ぽつりと言った。

「……柔らかすぎるな」

 わたしは、息を止めた。

 ――柔らかすぎる。

 この宮殿に来た日、わたしがあの椅子から飛び上がって、そう言った。

 セレナさんから、聞いていたのだろうか。

 あの人は、何でもない顔をして、柔らかすぎる椅子の上で、居心地悪そうに座り直していた。

 口元が、むずむずした。

 わたしは、慌てて、茶杯に目を落とした。


 小さな円い卓だった。

 向かいに座ると、あの人との距離は、三歩よりも、ずっと近かった。

 手を伸ばせば、届いてしまいそうなくらい。

 わたしは、それを、自分で選んだ。

 膝の上で、両手を握りしめた。

 怖くないと言えば、嘘になる。

 でも、選んだのは、わたしだった。

 あの人は、自分の茶杯を手に取った。

 ひと口飲んで、少しだけ間を置いた。

 それから、わたしの茶杯にも、曲がった匙を入れて、ひと口ずつ確かめた。

「大丈夫だ」

「……はい」

 わたしは、茶杯を両手で持った。

 温かかった。

 白い陶器の内側で、淡い琥珀色のお茶が、かすかに揺れていた。

 花の香りがした。

 わたしは、そっと口をつけた。

 熱かった。

 少しだけ、渋かった。

 それから、喉の奥に、ふわりと甘い香りが残った。

 ――これが、お茶。

 生まれて初めて、飲んだ。

 お屋敷では、お母さまがいつも、誰かと飲んでいた。地下には、水しかなかった。

「……熱いです」

「熱いな」

「それに、少し、苦いです」

「砂糖を入れるか」

 あの人が、小さな砂糖壺を、わたしのほうへ少しだけ押した。

 わたしは、少し迷ってから、ひとさじだけ、入れてみた。

 かき混ぜて、もう一度、口をつけた。

 苦いのが、少しだけ、やわらいでいた。

「……おいしい、です」

「そうか」

 あの人は、自分の茶杯に目を落とした。

 砂糖は、入れなかった。


 しばらく、二人とも黙って、お茶を飲んだ。

 窓の外で、鳥が鳴いた。

 わたしは、茶杯を卓の上に置いた。

 それから、息を吸った。

「……あの」

 あの人が、顔を上げた。

「昨日のこと、考えました」

 あの人は、黙って待っていた。

「ずっと、考えてて。でも、うまく、まとまらなくて」

 わたしは、卓の上の茶杯を見つめた。

「だから、思ったことを、そのまま、言ってもいいですか」

「ああ」

 わたしは、膝の上で、両手を握りしめた。

「……まだ、少し、怖いです」

 あの人の手が、茶杯の縁で、止まった。

「三百十二人のこと、聞いて。怖いと思いました。今も、思っています」

 声が、少しずつ小さくなった。

「たぶん、すぐには、怖くなくならないと思います」

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、わたしを見ていた。

 何の表情も浮かんでいない、いつもの顔で。

 でも、茶杯を持つ指が、ほんの少しだけ、白くなっていた。

「でも」

 わたしは、顔を上げた。

「怖いけれど、ここにいたいです」

 あの人の黒い瞳が、揺れた。

「怖いけれど、あなたと、お茶を飲みたいと思いました」

 言ってしまってから、頬が、熱くなった。

「それが、どうしてなのか、まだ、よく分からないんです。でも、昨日、あなたは、本当のことを言ってくれたから」

 わたしは、胸元のボタンを、服の上から握りしめた。

「お母さまは、いつも、やさしい嘘をつきました。あなたのためなのよ、って。だから、わたしは、やさしい声が、いちばん怖かったんです」

 あの人は、黙っていた。

「でも、あなたは、怖いことを、怖いまま、話してくれました。きれいな言葉で、包まないで」

 わたしは、息を吸った。

「だから、怖いけど、あなたの言うことは、信じられる気がします」

 部屋の中が、静かになった。

 あの人は、長いあいだ、何も言わなかった。

 茶杯を持ったまま、動かなかった。

 わたしは、俯いた。

 話しすぎた、と思った。

 それから、もうひとつだけ、言わなければいけないことを、思い出した。

「……アルフレッド」

 あの人の肩が、ほんのかすかに震えた。

「昨日、呼べなくて、ごめんなさい」


   ◇ ◇ ◇


 アルフレッドは、動けなかった。

 手の中の茶杯が、ひどく重たかった。

 ――アルフレッド。

 何日ぶりかの、名前だった。

 もう聞けないかもしれないと、覚悟した声だった。

 ――まだ、少し、怖いです。

 あの子は、そう言った。

 嘘をつかなかった。

 怖くない、とは言わなかった。

 自分が、あの子に本当のことを話したように、あの子も、本当のことを返してきた。

 ――怖いけれど、ここにいたいです。

 目の前の小さな卓。

 手を伸ばせば届いてしまう距離。

 三歩よりも、ずっと近い。

 この距離を、あの子は、自分で選んだ。

 三百十二人を殺した男だと知ったうえで。

 泣いてすがる奥方の前で、眉ひとつ動かさなかった男だと知ったうえで。

 怖いと言いながら、それでも、向かいの腰掛けを、自分で運んできて。

 ――生まれて初めて、お茶を飲んだ。

 たぶん、そうなのだろう。

 熱い、苦い、と言いながら、両手で茶杯を包んで飲んでいた。

 以前、この子が一度だけ断ったお茶だと、セレナから聞いていた。この宮殿で、初めて、何かを断った日のお茶だと。

 その茶を、あの子は、自分で選んで、自分で頼んで、自分と飲むために用意した。

 アルフレッドは、茶杯を卓の上に置いた。

 帝国のどんな宝物よりも。

 玉座よりも。

 十年かけて取り戻した帝都よりも。

 今、この小さな卓の上にあるものが、重かった。

 あの子の、小さな信頼。

 怖いまま、それでも差し出された、ほんのわずかな信頼。

 それを、自分は、決して取りこぼしてはならない。

「……謝らなくていい」

 ようやく、声が出た。

 かすれていた。

「呼べない日があっても、いい。怖い日があっても、いい」

 あの子が、顔を上げた。

「お前が、怖いと言ってくれるほうが、怖くないと言われるより、ずっといい」

 あの子は、少しのあいだ、何も言わなかった。

 それから、小さく頷いた。

「……はい」

 そして、また、茶杯を両手で持った。

 ひと口、飲んだ。

「……少し、冷めてきました」

「冷めたな」

「でも、冷めても、おいしいです」

「……そうか」

 アルフレッドは、柔らかすぎる椅子の上で、もう一度座り直した。

 どうにも、尻の落ち着かない椅子だった。

 あの日のあの子も、こんな気持ちだったのだろうか、と思った。

 卓の向かいで、あの子が、茶杯の陰で、ほんの少しだけ、口元をゆるめたような気がした。


   ◇ ◇ ◇


 その日の夕刻、侍女長セレナは、下げてきた茶器を、厨房の洗い場で自分の手で洗った。

 茶杯が二つ。

 どちらも、底まで、きれいに空になっていた。

 片方の受け皿には、砂糖の粒が、ほんの少しだけ残っていた。

 セレナは、それを、しばらく見つめていた。

 それから、ほかの侍女たちに見られないように、そっと目元を指で押さえた。

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