第56話 皇帝の傷
「今日の午後は、近衛の稽古に出る」
お茶の日から三日が経った昼、あの人は盆を下げながらそう言った。
「来週の閲兵の前に、一度、騎士たちと剣を合わせておかなければならない」
閲兵。
皇帝の休日の日に、宰相さまが来週へずらしたのだと、ミーナさんが話していた。
「……はい」
わたしは、小さく頷いた。
「庭は、ミーナとなら行っていい。セレナにも言ってある」
「ミーナさんと」
「ああ。人は遠ざけてある。林檎の木の芝生までなら、誰も来ない」
あの人は、少しだけ間を置いた。
「行きたくなければ、行かなくていい」
「……行きたい、です」
あの人は、わたしを見た。
それから、かすかに頷いた。
「そうか」
扉の前で、あの人は一度だけ足を止めた。
「明日は、俺も行く」
「……はい。アルフレッド」
あの人の肩が、ほんの少しだけ、動いた気がした。
振り返らずに、あの人は出ていった。
お茶の日から、わたしは毎日、あの人の名前を呼んでいた。
一日に一度か、二度。
まだ、喉の奥で少しだけつっかえる。
でも、もう、十二回もかからなかった。
◇ ◇ ◇
「リシェル様、こっちです、こっち」
ミーナさんは、林檎の木の芝生を通り過ぎて、薔薇の茂みの奥のほうへ、わたしを手招きした。
「ミーナさん、林檎の木までって……」
「すぐそこですから。ちょっとだけ」
ミーナさんは、そばかすの散った頬を少しだけ赤くして、声をひそめた。
「この生け垣の向こうが、近衛の方たちの稽古場なんです。いつもは近づいちゃいけないんですけど、ここの隙間から、ちょっとだけ見えるんですよ」
「……見ても、いいんですか」
「見るだけなら。侍女の子たち、みんなこっそり見に来てるんです」
ミーナさんは、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「騎士の方たち、かっこいいので」
わたしは、少し迷った。
あの人は、林檎の木の芝生までと言った。
でも、ミーナさんが、あまりにも楽しそうだったから。
それに、あの人が剣を持っているところを、わたしは、見たことがなかった。
地下の鉄の扉の前で、錠前を叩き壊したあの日を、のぞけば。
わたしは、ミーナさんのあとについて、生け垣のそばへ寄った。
緑の葉のあいだに、小さな隙間があった。
そこから、のぞいた。
広い、土の地面だった。
黒い軍装の騎士の人たちが、輪になって立っていた。
その輪の真ん中で、二人の人が、剣を交えていた。
ひとりは、騎士団長のガレスさんだった。
もうひとりは。
――あの人だった。
白いシャツの袖をまくり上げて、両手で長い剣を握っていた。
ガレスさんの剣が、空気を裂いて振り下ろされた。
あの人は、それを、ほとんど動かずに受けた。
金属のぶつかる、鋭い音がした。
わたしは、思わず、身体を縮めた。
あの人は、受けた剣を、そのまま横へ払った。
ガレスさんの身体が、わずかによろめいた。
その隙に、あの人の剣先が、ガレスさんの喉元で、ぴたりと止まった。
騎士の人たちの輪から、低いどよめきが起きた。
「……参りました」
ガレスさんが、剣を下ろして、言った。
あの人は、何も言わずに剣を引いた。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔だった。
でも、その顔は、わたしの知っている顔とは、少しだけ違って見えた。
鋭くて、冷たくて、遠かった。
――これが、戦場のあの人。
十年、こういう顔で、剣を握ってきた人。
わたしは、生け垣の葉を、指先で握りしめた。
「ね、すごいでしょう」
ミーナさんが、隣で、ため息まじりにささやいた。
「陛下に勝てる方、近衛にもいないんですって。ガレスさまでも、十本に一本取れるかどうかだって」
稽古は、それから何度か続いた。
あの人は、騎士の人たちと、ひとりずつ剣を合わせた。
誰も、あの人に剣を当てられなかった。
やがて、日が少し傾いたころ、あの人が剣を下ろした。
「今日は、ここまでだ」
騎士の人たちが、いっせいに頭を下げた。
あの人は、稽古場の隅の、井戸のほうへ歩いていった。
白いシャツは、汗でぐっしょりと濡れて、背中に貼りついていた。
井戸のそばで、あの人は、シャツの裾に手をかけた。
そのまま、頭から、脱いだ。
「――っ」
ミーナさんが、隣で小さく息を呑んだ。
顔を真っ赤にして、両手で目を覆いかけて、それから、その手が、途中で止まった。
わたしも、息を止めていた。
でも、たぶん、ミーナさんとは、違う理由で。
あの人の背中が、見えた。
井戸の釣瓶を引き上げて、頭から水をかぶっている、あの人の背中。
広い背中だった。
その背中に。
――傷が。
数えきれないほどの、傷があった。
肩から腰にかけて、斜めに走る、長い白い線。
右の肩甲骨の下に、丸く引きつれた痕。
脇腹のあたりに、皮膚が赤黒く盛り上がった、大きな痕。
細い線。太い線。古くて白くなったもの。まだ少しだけ赤みの残っているもの。
それが、背中じゅうに、重なりあって、刻まれていた。
水が、その傷の上を流れ落ちていった。
あの人は、何でもないように、また釣瓶を引き上げて、水をかぶった。
まるで、その背中に何もないかのように。
わたしは、動けなかった。
自分の背中が、ひどく熱くなった気がした。
――お兄さまは、泣かないときだけ、打ちました。
あの日、セレナさんにそう言った。
わたしの背中にも、傷がある。
鞭の痕。細くて、白い、何本もの線。
自分では、見たことがなかった。
見たくなかった。
セレナさんが見てくれたあの日、セレナさんは何も言わずに、わたしの背中に上着をかけてくれた。
あの日の夜、あの人は、わたしの部屋に来て、ただ黙って座っていた。
あの人は、きっと、わたしの背中の傷のことを、知っている。
でも、わたしは。
あの人の背中のことを、何も知らなかった。
――十四の年から、戦場で。
あの人は、そう言っていた。
十年、戦をした、と。
命乞いを聞き入れた指揮官は、寝首をかかれた。哀れんで足を止めた部隊は、全員死んだ、と。
あの人は、そういう場所にいたのだ。
十四歳で。
わたしが、暗闇の中で、鞭の痛みに耐えていたころ。
あの人は、どこかの戦場で、剣に斬られて、矢に射られて、火に焼かれていた。
その痕が、全部、あの背中に残っていた。
「……陛下、あんなに」
ミーナさんが、目を覆いかけた手を下ろして、小さな声で言った。
声が、震えていた。
「噂では、聞いてたんです。陛下は、戦場で何度も死にかけたって。矢を三本受けても、馬から降りなかったとか、燃える砦から、最後に出てきたとか」
ミーナさんは、唇を噛んだ。
「でも、そんなの、物語みたいな話だと思ってて」
わたしは、何も言えなかった。
生け垣の葉を握りしめた指先が、冷たくなっていた。
――物語みたいな話。
わたしも、そうだった。
血も涙もない皇帝。何千人も殺した皇帝。
帝国を救った皇帝。
どれも、遠くの、物語みたいな話だった。
あの人の口から、三百十二人という数を聞くまでは。
そして、今。
あの背中を見るまでは。
殺した人の数を、全部覚えている人は。
自分が斬られた傷の数も、覚えているのだろうか。
それとも、そちらは、数えもしなかったのだろうか。
あの人が、釣瓶を置いた。
濡れた髪をかき上げて、ふと、顔を上げた。
こちらを、見た。
生け垣の、隙間のほうを。
わたしは、息を止めた。
目が、合った。
黒い瞳が、ほんのわずかに、見開かれた。
ミーナさんが、隣で、ひゅっと喉を鳴らした。
「み、見つかっ……」
あの人は、動かなかった。
ほんの一瞬だけ、わたしを見ていた。
それから、ゆっくりと、井戸のそばに置いてあった乾いたシャツを手に取った。
急がずに、それを着た。
背中の傷が、白い布の下に、隠れていった。
あの人は、何も言わなかった。
怒った顔もしなかった。
ただ、シャツを着終えると、もう一度だけ、こちらを見た。
それから、ガレスさんに何か短く言って、稽古場の向こうへ歩いていった。
振り返らなかった。
「ど、どうしましょう、リシェル様」
ミーナさんが、真っ青な顔で言った。
「わたしが、こんなところに連れてきたから。陛下、怒ってらっしゃるかも。お、お叱りを受けるのは、わたしだけにしていただかないと」
「……怒っては、いなかったと思います」
わたしは、小さく言った。
「え」
「怒っている顔では、なかったので」
あの人の、あの顔。
見開かれた目。
それから、ゆっくりとシャツを着た手。
あれは、怒っている人の手つきではなかった。
隠そうとしていた。
急がずに。わたしを驚かせないように。
でも、確かに、隠そうとしていた。
――見せたく、なかったのだ。
わたしが、自分の背中を、誰にも見せたくなかったのと、同じように。
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
「……戻りましょう、ミーナさん」
「は、はい」
わたしは、生け垣から離れた。
林檎の木の芝生を通り過ぎて、石畳の小道を歩いた。
ミーナさんは、半歩後ろで、ずっと何かを謝っていた。
わたしは、ほとんど聞いていなかった。
あの背中が、目の奥に焼きついて、離れなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは、寝台の中で、自分の背中に手を回してみた。
届く範囲は、少しだけだった。
指先に、細い、盛り上がった線が触れた。
鞭の痕。
まだ、少しだけ、ひきつれる。
――痛かった。
あのときは、ずっと、痛かった。
でも、痛いと言ったことは、一度もなかった。
言っても、誰も、何も変わらなかったから。
お兄さまは、痛いかとは訊かなかった。お母さまも、訊かなかった。
泣いたか、とだけ。
石は落ちたか、とだけ。
わたしは、手を下ろした。
天蓋を見上げた。
――あの人は。
あの背中の傷を、誰かに、痛いかと訊かれたことがあるのだろうか。
戦場で。帝都に戻ってから。皇帝になってから。
宰相さまは。ガレスさんは。
誰かが、あの人に。
――痛かったですか、と。
わたしは、胸元のボタンを、手のひらで包んだ。
明日、あの人は、庭へ行くと言った。
訊いても、いいのだろうか。
訊いたら、あの人は、困るだろうか。
見せたくなかったものを、見てしまったのに。
それでも。
わたしは、目を閉じた。
まぶたの裏に、水が流れ落ちていく、あの広い背中が浮かんだ。
数えきれない傷の上を、冷たい水が、何でもないことのように、流れていった。
◇ ◇ ◇
皇帝の執務室で、アルフレッドは、机に両手をついていた。
――見られた。
生け垣の隙間の、灰色がかった青い瞳。
大きく見開かれて、まっすぐに、こちらを見ていた。
傷を見られたことを、恥じているわけではなかった。
ただ、あの子にだけは、見せたくなかった。
あの子は、自分の背中を、誰にも見せたがらなかった。
エドガーから傷の報告を聞いた日、アルフレッドは、何もできなかった。机を割って、それから、あの子の部屋で黙って座っていることしか。
傷のある背中を見れば、あの子は、自分の背中を思い出す。
鞭の痕を。
地下の暗闇を。
それだけは、させたくなかった。
「……陛下」
扉のところで、ガレスが、遠慮がちに咳払いをした。
「あの生け垣のこと、侍女たちのあいだでは、昔から……」
「分かっている」
アルフレッドは、机から手を離した。
「叱るな。ミーナにも、誰にも」
「は」
「生け垣も、そのままにしておけ」
ガレスは、少しのあいだ、主君の顔を見ていた。
それから、黙って一礼した。
扉が閉まった。
アルフレッドは、窓の外を見た。
東の客殿の、小さな灯り。
――明日は、俺も行く。
そう言った。
あの子は、来るだろうか。
傷だらけの背中を見たあとで。
アルフレッドは、自分の右肩に、そっと手を当てた。
古い矢傷の痕が、シャツ越しに、指先に触れた。
とうに、痛みなど感じなくなっている傷だった。
それなのに、今夜は、なぜだか、そこが、かすかに疼いた。




