↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
57/74

第57話 痛かったですか?

次の日の昼、扉を叩く音は、いつもと同じだった。

 低くて、重たくて、短い叩き方。

「入っていいか」

「……はい」

 あの人が、銀の盆を持って入ってきた。

 盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。

 それから、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろす。

 いつもと、何も変わらなかった。

 昨日のことを、あの人は何も言わなかった。

 生け垣の隙間のことも。井戸のそばのことも。

 わたしは、卓のそばでスープを飲んだ。

 十口。

 パンを、二つ。

 スープの味が、今日は、よく分からなかった。

 それから、絨毯の上の、あの人から三歩離れた場所に座った。

 あの人は、窓の外を見ていた。

「……昨日は」

 わたしは、言った。

「ごめんなさい。林檎の木の芝生までって、言われていたのに」

「謝らなくていい」

 あの人は、窓の外を見たまま言った。

「ミーナさんは、わたしが行きたいと言ったから、連れていってくれただけで」

「叱っていない」

 あの人は、短く言った。

「ガレスにも、誰にも叱らせていない。あの生け垣も、そのままにしてある」

 わたしは、少しだけ、息を吐いた。

 ミーナさんは、昨日の夜、何度もわたしに謝っていた。今朝も、目を赤くして、わたしの髪を結いながら、お叱りを受けるのはわたしだけに、と言っていた。

「……ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない」

 それきり、あの人は黙った。

 わたしも、黙った。

 窓の外で、鳥が鳴いた。


 訊こう、と思っていた。

 昨日の夜、ずっと考えていた。

 訊いてもいいのか。訊いたら、あの人は困るのではないか。

 見せたくなかったものを、見てしまったのに。

 でも、訊かないまま、明日も明後日も、三歩離れたところに座っていたら。

 あの人の背中のことを、知らないふりをしつづけることになる。

 わたしの背中のことを、あの人が知っていて、黙っていてくれるように。

 それは、やさしいことなのかもしれない。

 でも、わたしは、それだけでは、いやだった。

「……アルフレッド」

 あの人の肩が、ほんの少しだけ動いた。

「何だ」

「訊いても、いいですか」

「ああ」

 あの人は、いつものように、すぐに答えた。

「何でも訊いていい」

 わたしは、膝の上で、両手を握りしめた。

 喉が、少しだけ震えた。

「昨日、見てしまった、背中の」

 あの人は、何も言わなかった。

 窓の外を見たまま、動かなかった。

 でも、その横顔が、ほんのわずかに、固くなったのが分かった。

「……痛かったですか」


 部屋の中が、静かになった。

 あの人は、答えなかった。

 窓の外を見たまま、動かなかった。

 わたしは、待った。

 あの人が、いつもわたしを待ってくれるように。

 長い沈黙だった。

 やがて、あの人が、口を開いた。

「……」

 でも、声は出なかった。

 あの人は、また、口を閉じた。

 膝の上に置かれた手が、ゆっくりと握りしめられていった。

 わたしは、あの人の横顔を見つめていた。

 何の表情も浮かんでいない顔。

 でも、それは、いつもの顔とは、少しだけ違って見えた。

 何かを探しているような顔だった。

 どこにも見つからないものを。

「……分からない」

 ようやく、あの人が言った。

 ひどく、低い声だった。

「答え方が、分からない」


   ◇ ◇ ◇


 ――痛かったですか。

 アルフレッドは、その問いを、胸の中で繰り返した。

 答えようとした。

 だが、言葉が、どこにもなかった。

 十四の年に、初めて矢を受けた。

 右の肩だった。帝都を出て、ひと月も経たない頃だった。

 軍医は、傷口を見て、動かすなと言った。

 護衛の騎士は、まだ馬に乗れますか、と訊いた。

 自分は、乗れる、と答えた。

 それから、十年。

 背中を斬られた夜、副官は、指揮は執れますかと訊いた。

 脇腹を焼かれた日、軍医は、熱が引くまで三日はかかると言った。

 砦の落ちた朝、ガレスは、まだ立てますかと訊いた。

 帝都を取り戻したあと、クラウスは、傷の具合はと訊いた。

 誰もが、訊いた。

 動けるか。戦えるか。立てるか。治るか。

 だが。

 ――痛いか、とは。

 誰も、訊かなかった。

 訊かれなかったのではない。

 訊かせなかったのだ。

 皇太子が痛いと言えば、兵が怯える。

 将が痛いと言えば、隊が崩れる。

 皇帝が痛いと言えば、国が揺らぐ。

 だから、一度も、顔に出さなかった。

 痛みは、あった。

 あったはずだった。

 だが、感じないことにしているうちに、それが本当に痛かったのかどうか、自分でも、分からなくなっていた。

 ――痛かったですか。

 十年かけて、誰にも言わせなかった問い。

 それを、この子は、まっすぐに訊いてきた。

 動けるかでも、戦えるかでもなく。

 ただ、痛かったか、と。

 アルフレッドは、口を開こうとした。

 痛くはなかった、と言うのは、たやすい。

 十年、そう言い続けてきたのだから。

 だが、この子に、それを言うわけにはいかなかった。

 この子には、嘘をつかないと決めたのだ。

 かといって、痛かった、と言うには。

 その言葉は、あまりにも長いあいだ、使われずにいた。

 喉の奥で、錆びついたまま、動かなかった。


   ◇ ◇ ◇


 わたしは、あの人の顔を見ていた。

 ――答え方が、分からない。

 あの人は、そう言った。

 分からない、と。

 分かる気がした。

 わたしも、そうだったから。

 地下で、鞭を打たれたとき。

 お兄さまは、泣いたかと訊いた。

 お母さまは、石は落ちたかと訊いた。

 ドルフさんは、今日は何粒だと訊いた。

 誰も、痛いかとは訊かなかった。

 だから、わたしも、痛いと言ったことがなかった。

 言う相手が、いなかった。

 言っても、何も変わらなかった。

 そのうちに、痛いのかどうかも、よく分からなくなっていった。

 身体のどこかが痛くても、それは、ただ、そういうものなのだと思うようになった。

 あの人も、きっと、同じだったのだ。

 十年、誰にも、痛いかと訊かれずに。

 痛いと言う相手も、いないまま。

 わたしは、膝の上の手を、ゆっくりとほどいた。

 それから、小さな声で、言った。

「……痛かった、ですよね」

 あの人の肩が、震えた。

 わたしは、答えを求めなかった。

 ただ、言った。

 あの人の代わりに。

 あの人が、言えないことを。

「あんなに、たくさん」

 声が、かすれた。

「痛かったですよね」


 あの人は、動かなかった。

 窓の外を見たまま、じっとしていた。

 でも、膝の上の拳が、白くなるほど握りしめられていた。

 喉が、一度だけ、ごくりと動いた。

 わたしは、それ以上、何も言わなかった。

 あの人が、いつもそうしてくれるように。

 ただ、そこにいた。

 三歩離れたところで。

 長い、長い時間が過ぎた。

 窓から差しこむ光が、絨毯の上を、少しずつ動いていった。

 やがて、あの人が、ほんのかすかに、頷いた。

 声は、出さなかった。

 ただ、一度だけ。

 ほとんど、分からないくらい小さく。

 わたしは、それを見ていた。

 胸の奥が、きゅうっと痛んだ。

 ――この人も、ずっと。

 ずっと、ひとりで。


「……わたしも」

 気がつくと、言っていた。

「わたしも、痛かったです」

 あの人が、こちらを見た。

 初めて、窓の外から目を離して、わたしを見た。

 黒い瞳が、揺れていた。

「背中。お兄さまに、打たれたとき」

 わたしは、言った。

「誰にも、言ったことがなかったんです。痛かったって。言っても、仕方がなかったので」

 声が、震えた。

 喉の奥が、熱くなった。

 ――泣いては、いけない。

 わたしは、唇を噛んだ。

 ここで泣いたら、石が落ちる。

 でも、目の奥が、じんわりと熱くて。

「でも、痛かったです」

 それだけ、言った。

 それ以上は、言えなかった。

 あの人は、しばらく、わたしを見ていた。

 何も言わなかった。

 それから、低い声で、言った。

「……ああ」

 かすれた声だった。

「痛かったな」

 わたしは、息を止めた。

 ――痛かったな。

 わたしの痛みを、あの人が、言った。

 あの人は、自分の痛みは、言えなかったのに。

 わたしの痛みだけは、ちゃんと、言葉にしてくれた。

 わたしは、俯いた。

 膝の上に、ぽたりと、何かが落ちそうになった。

 わたしは、慌てて、目元を手の甲で押さえた。

 濡れていた。

 でも、落ちなかった。

 わたしは、ぎゅっと目を閉じて、息を整えた。

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、窓の外へ、目を戻していた。

 わたしが顔を上げるまで、ずっと、遠くを見ていてくれた。


   ◇ ◇ ◇


「……庭へ、行くか」

 しばらくして、あの人が言った。

 いつもの、一度だけの問い。

 でも、声が、いつもよりも、少しだけ低かった。

 わたしは、顔を上げた。

 目元は、もう、乾いていた。

「……はい」

 わたしは、頷いた。

「行きたいです」

 あの人が、立ち上がった。

 わたしも、立ち上がった。

 扉の前で、あの人は、いつものように、少しだけ足を止めた。

 振り返らずに、言った。

「……リシェル」

「はい」

「昨日、見られたのが」

 あの人は、そこで、少しだけ言葉を探した。

「お前で、よかったのかもしれない」

 わたしは、まばたきをした。

 あの人は、それきり、何も言わなかった。

 扉を開けて、廊下へ出ていった。

 わたしは、その三歩後ろを、ついていった。

 石畳の小道を歩いた。

 林檎の木の芝生へ。

 あの人の背中が、三歩先にあった。

 白いシャツの下に、あの傷が、全部隠れている背中。

 わたしは、その背中を、見つめていた。

 ――痛かったですよね。

 言えて、よかったと思った。

 答えは、もらえなかったけれど。

 あの小さな頷きだけで、十分だった。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、皇帝の執務室で、アルフレッドは、机の前に座っていた。

 書類は、一枚もめくられていなかった。

 ――痛かったですよね。

 あの子の声が、耳の奥で、何度も繰り返されていた。

 答えられなかった。

 頷くことしか、できなかった。

 だが、あの子は、それでいいというような顔をしていた。

 ――わたしも、痛かったです。

 あの子は、そう言った。

 誰にも言ったことがなかった、と。

 その言葉を、あの子は、自分に差し出した。

 自分が、何も言えなかったその後で。

 ――痛かったな。

 あの子の痛みなら、言えた。

 自分の痛みは、言えなかったのに。

 アルフレッドは、右肩に、手を当てた。

 十四の年の、最初の矢傷。

 昨夜、なぜだか疼いた場所。

 今夜は、もう、疼かなかった。

 代わりに、胸の奥が、ひどく痛かった。

 十年、どこかに置き去りにしてきたものが、少しずつ、戻ってくるような痛みだった。

 アルフレッドは、目を閉じた。

 ――痛かった。

 声には、しなかった。

 唇の形だけで、その言葉をなぞった。

 十年ぶりに。

 誰もいない部屋で。

 それでも、あの子に訊かれなければ、きっと一生、その言葉を思い出すこともなかっただろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。