第57話 痛かったですか?
次の日の昼、扉を叩く音は、いつもと同じだった。
低くて、重たくて、短い叩き方。
「入っていいか」
「……はい」
あの人が、銀の盆を持って入ってきた。
盆を卓の上に置いて、曲がった匙でひと口ずつ確かめる。
それから、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろす。
いつもと、何も変わらなかった。
昨日のことを、あの人は何も言わなかった。
生け垣の隙間のことも。井戸のそばのことも。
わたしは、卓のそばでスープを飲んだ。
十口。
パンを、二つ。
スープの味が、今日は、よく分からなかった。
それから、絨毯の上の、あの人から三歩離れた場所に座った。
あの人は、窓の外を見ていた。
「……昨日は」
わたしは、言った。
「ごめんなさい。林檎の木の芝生までって、言われていたのに」
「謝らなくていい」
あの人は、窓の外を見たまま言った。
「ミーナさんは、わたしが行きたいと言ったから、連れていってくれただけで」
「叱っていない」
あの人は、短く言った。
「ガレスにも、誰にも叱らせていない。あの生け垣も、そのままにしてある」
わたしは、少しだけ、息を吐いた。
ミーナさんは、昨日の夜、何度もわたしに謝っていた。今朝も、目を赤くして、わたしの髪を結いながら、お叱りを受けるのはわたしだけに、と言っていた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
それきり、あの人は黙った。
わたしも、黙った。
窓の外で、鳥が鳴いた。
訊こう、と思っていた。
昨日の夜、ずっと考えていた。
訊いてもいいのか。訊いたら、あの人は困るのではないか。
見せたくなかったものを、見てしまったのに。
でも、訊かないまま、明日も明後日も、三歩離れたところに座っていたら。
あの人の背中のことを、知らないふりをしつづけることになる。
わたしの背中のことを、あの人が知っていて、黙っていてくれるように。
それは、やさしいことなのかもしれない。
でも、わたしは、それだけでは、いやだった。
「……アルフレッド」
あの人の肩が、ほんの少しだけ動いた。
「何だ」
「訊いても、いいですか」
「ああ」
あの人は、いつものように、すぐに答えた。
「何でも訊いていい」
わたしは、膝の上で、両手を握りしめた。
喉が、少しだけ震えた。
「昨日、見てしまった、背中の」
あの人は、何も言わなかった。
窓の外を見たまま、動かなかった。
でも、その横顔が、ほんのわずかに、固くなったのが分かった。
「……痛かったですか」
部屋の中が、静かになった。
あの人は、答えなかった。
窓の外を見たまま、動かなかった。
わたしは、待った。
あの人が、いつもわたしを待ってくれるように。
長い沈黙だった。
やがて、あの人が、口を開いた。
「……」
でも、声は出なかった。
あの人は、また、口を閉じた。
膝の上に置かれた手が、ゆっくりと握りしめられていった。
わたしは、あの人の横顔を見つめていた。
何の表情も浮かんでいない顔。
でも、それは、いつもの顔とは、少しだけ違って見えた。
何かを探しているような顔だった。
どこにも見つからないものを。
「……分からない」
ようやく、あの人が言った。
ひどく、低い声だった。
「答え方が、分からない」
◇ ◇ ◇
――痛かったですか。
アルフレッドは、その問いを、胸の中で繰り返した。
答えようとした。
だが、言葉が、どこにもなかった。
十四の年に、初めて矢を受けた。
右の肩だった。帝都を出て、ひと月も経たない頃だった。
軍医は、傷口を見て、動かすなと言った。
護衛の騎士は、まだ馬に乗れますか、と訊いた。
自分は、乗れる、と答えた。
それから、十年。
背中を斬られた夜、副官は、指揮は執れますかと訊いた。
脇腹を焼かれた日、軍医は、熱が引くまで三日はかかると言った。
砦の落ちた朝、ガレスは、まだ立てますかと訊いた。
帝都を取り戻したあと、クラウスは、傷の具合はと訊いた。
誰もが、訊いた。
動けるか。戦えるか。立てるか。治るか。
だが。
――痛いか、とは。
誰も、訊かなかった。
訊かれなかったのではない。
訊かせなかったのだ。
皇太子が痛いと言えば、兵が怯える。
将が痛いと言えば、隊が崩れる。
皇帝が痛いと言えば、国が揺らぐ。
だから、一度も、顔に出さなかった。
痛みは、あった。
あったはずだった。
だが、感じないことにしているうちに、それが本当に痛かったのかどうか、自分でも、分からなくなっていた。
――痛かったですか。
十年かけて、誰にも言わせなかった問い。
それを、この子は、まっすぐに訊いてきた。
動けるかでも、戦えるかでもなく。
ただ、痛かったか、と。
アルフレッドは、口を開こうとした。
痛くはなかった、と言うのは、たやすい。
十年、そう言い続けてきたのだから。
だが、この子に、それを言うわけにはいかなかった。
この子には、嘘をつかないと決めたのだ。
かといって、痛かった、と言うには。
その言葉は、あまりにも長いあいだ、使われずにいた。
喉の奥で、錆びついたまま、動かなかった。
◇ ◇ ◇
わたしは、あの人の顔を見ていた。
――答え方が、分からない。
あの人は、そう言った。
分からない、と。
分かる気がした。
わたしも、そうだったから。
地下で、鞭を打たれたとき。
お兄さまは、泣いたかと訊いた。
お母さまは、石は落ちたかと訊いた。
ドルフさんは、今日は何粒だと訊いた。
誰も、痛いかとは訊かなかった。
だから、わたしも、痛いと言ったことがなかった。
言う相手が、いなかった。
言っても、何も変わらなかった。
そのうちに、痛いのかどうかも、よく分からなくなっていった。
身体のどこかが痛くても、それは、ただ、そういうものなのだと思うようになった。
あの人も、きっと、同じだったのだ。
十年、誰にも、痛いかと訊かれずに。
痛いと言う相手も、いないまま。
わたしは、膝の上の手を、ゆっくりとほどいた。
それから、小さな声で、言った。
「……痛かった、ですよね」
あの人の肩が、震えた。
わたしは、答えを求めなかった。
ただ、言った。
あの人の代わりに。
あの人が、言えないことを。
「あんなに、たくさん」
声が、かすれた。
「痛かったですよね」
あの人は、動かなかった。
窓の外を見たまま、じっとしていた。
でも、膝の上の拳が、白くなるほど握りしめられていた。
喉が、一度だけ、ごくりと動いた。
わたしは、それ以上、何も言わなかった。
あの人が、いつもそうしてくれるように。
ただ、そこにいた。
三歩離れたところで。
長い、長い時間が過ぎた。
窓から差しこむ光が、絨毯の上を、少しずつ動いていった。
やがて、あの人が、ほんのかすかに、頷いた。
声は、出さなかった。
ただ、一度だけ。
ほとんど、分からないくらい小さく。
わたしは、それを見ていた。
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
――この人も、ずっと。
ずっと、ひとりで。
「……わたしも」
気がつくと、言っていた。
「わたしも、痛かったです」
あの人が、こちらを見た。
初めて、窓の外から目を離して、わたしを見た。
黒い瞳が、揺れていた。
「背中。お兄さまに、打たれたとき」
わたしは、言った。
「誰にも、言ったことがなかったんです。痛かったって。言っても、仕方がなかったので」
声が、震えた。
喉の奥が、熱くなった。
――泣いては、いけない。
わたしは、唇を噛んだ。
ここで泣いたら、石が落ちる。
でも、目の奥が、じんわりと熱くて。
「でも、痛かったです」
それだけ、言った。
それ以上は、言えなかった。
あの人は、しばらく、わたしを見ていた。
何も言わなかった。
それから、低い声で、言った。
「……ああ」
かすれた声だった。
「痛かったな」
わたしは、息を止めた。
――痛かったな。
わたしの痛みを、あの人が、言った。
あの人は、自分の痛みは、言えなかったのに。
わたしの痛みだけは、ちゃんと、言葉にしてくれた。
わたしは、俯いた。
膝の上に、ぽたりと、何かが落ちそうになった。
わたしは、慌てて、目元を手の甲で押さえた。
濡れていた。
でも、落ちなかった。
わたしは、ぎゅっと目を閉じて、息を整えた。
あの人は、何も言わなかった。
ただ、窓の外へ、目を戻していた。
わたしが顔を上げるまで、ずっと、遠くを見ていてくれた。
◇ ◇ ◇
「……庭へ、行くか」
しばらくして、あの人が言った。
いつもの、一度だけの問い。
でも、声が、いつもよりも、少しだけ低かった。
わたしは、顔を上げた。
目元は、もう、乾いていた。
「……はい」
わたしは、頷いた。
「行きたいです」
あの人が、立ち上がった。
わたしも、立ち上がった。
扉の前で、あの人は、いつものように、少しだけ足を止めた。
振り返らずに、言った。
「……リシェル」
「はい」
「昨日、見られたのが」
あの人は、そこで、少しだけ言葉を探した。
「お前で、よかったのかもしれない」
わたしは、まばたきをした。
あの人は、それきり、何も言わなかった。
扉を開けて、廊下へ出ていった。
わたしは、その三歩後ろを、ついていった。
石畳の小道を歩いた。
林檎の木の芝生へ。
あの人の背中が、三歩先にあった。
白いシャツの下に、あの傷が、全部隠れている背中。
わたしは、その背中を、見つめていた。
――痛かったですよね。
言えて、よかったと思った。
答えは、もらえなかったけれど。
あの小さな頷きだけで、十分だった。
◇ ◇ ◇
その夜、皇帝の執務室で、アルフレッドは、机の前に座っていた。
書類は、一枚もめくられていなかった。
――痛かったですよね。
あの子の声が、耳の奥で、何度も繰り返されていた。
答えられなかった。
頷くことしか、できなかった。
だが、あの子は、それでいいというような顔をしていた。
――わたしも、痛かったです。
あの子は、そう言った。
誰にも言ったことがなかった、と。
その言葉を、あの子は、自分に差し出した。
自分が、何も言えなかったその後で。
――痛かったな。
あの子の痛みなら、言えた。
自分の痛みは、言えなかったのに。
アルフレッドは、右肩に、手を当てた。
十四の年の、最初の矢傷。
昨夜、なぜだか疼いた場所。
今夜は、もう、疼かなかった。
代わりに、胸の奥が、ひどく痛かった。
十年、どこかに置き去りにしてきたものが、少しずつ、戻ってくるような痛みだった。
アルフレッドは、目を閉じた。
――痛かった。
声には、しなかった。
唇の形だけで、その言葉をなぞった。
十年ぶりに。
誰もいない部屋で。
それでも、あの子に訊かれなければ、きっと一生、その言葉を思い出すこともなかっただろう。




