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第58話 救う側の孤独

その夜、北の国境から早馬が着いた。

 皇帝の執務室には、夜更けまで灯りがともっていた。

「――ロイエンの村が、焼かれました」

 伝令の言葉を、宰相クラウスは、皇帝の傍らで聞いていた。

「国境の向こうの、名のない野盗の仕業と見せかけております。ですが、使われた油と矢は、隣国の軍のものでございました」

「死者は」

「村人が、十七名。うち、子どもが五名」

 皇帝は、何も言わなかった。

 机の上に広げられた地図を、じっと見下ろしていた。

 騎士団長ガレスが、低い声で言った。

「報復の兵を出せば、隣国は、それを口実に国境を越えてまいりましょう。出さなければ、次の村が焼かれます」

「分かっている」

 皇帝の声は、平らだった。

 何の揺らぎもない、いつもの声だった。

 長い沈黙のあとで、皇帝は、地図の上の一点を指で押さえた。

「国境の砦に、第三騎兵隊を入れろ。報復はしない。だが、次に一歩でも越えてきたら、その場で叩け。隣国の使者には、明日、俺が会う」

「……かしこまりました」

「村の者には、冬を越せるだけの麦を。焼けた家は、春までに建て直させろ。死んだ者の名は、すべて俺のところへ上げろ」

「は」

 ガレスが一礼して、伝令とともに出ていった。

 クラウスも、書類をまとめて立ち上がった。

 扉の前で、ふと、振り返った。

 皇帝は、まだ、地図の上の一点を見下ろしていた。

 その指が、ロイエンという小さな村の名の上で、動かずに止まっていた。

「……陛下」

「何だ」

「少し、お休みになっては」

「もう少し、ここにいる」

 皇帝は、顔を上げなかった。

 クラウスは、しばらく扉の前に立っていた。

 何か、言うべきことがある気がした。

 だが、何を言えばいいのか、分からなかった。

 ――お辛いでしょう、とでも。

 そう言ったところで、この方は、いつものように「いや」と答えるだけだ。

 クラウスは、黙って一礼して、扉を閉めた。

 閉まる直前、扉の隙間から、皇帝が、両手で顔を覆うのが、ほんの一瞬だけ見えた。


   ◇ ◇ ◇


「宰相さまに、お話を伺うことは、できますか」

 次の日の朝、わたしは、髪を梳いてくれているセレナさんに訊いた。

 鏡の中で、セレナさんの手が、ほんの少しだけ止まった。

「宰相閣下に、でございますか」

「はい」

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

「アルフレッドの……陛下のことを、知りたくて」

 昨日、あの人に、痛かったですかと訊いた。

 あの人は、答えられなかった。

 答え方が、分からない、と言った。

 ――十年、誰にも、痛いかと訊かれずに。

 そう思ったとき、わたしは、気づいたのだ。

 わたしは、あの人のことを、何も知らない。

 あの人が、わたしのことを、たくさん知っているのに。

 わたしの背中の傷も。地下の七年も。お母さまの声も。

 あの人は、知っていて、黙っていてくれる。

 でも、わたしは。

 あの人が、どこで、どんなふうに、十年を過ごしてきたのか。

 あの人のそばに、誰がいたのか。

 今も、誰がいるのか。

 何ひとつ、知らなかった。

「宰相さまなら、ずっと、陛下のおそばにいらしたと聞いたので」

 セレナさんは、鏡越しに、わたしを見ていた。

 少しのあいだ、何も言わなかった。

「……かしこまりました」

 それから、静かに言った。

「閣下にお伝えいたします。ただし、わたくしも、同じお部屋に控えさせていただきます」

「はい。お願いします」


   ◇ ◇ ◇


 宰相さまが来たのは、その日の午前のことだった。

 あの人が来る昼より、ずっと前。

 セレナさんが扉を開けると、白髪まじりの痩せた男の人が、扉のところで足を止めて、深々と頭を下げた。

「失礼いたします、リシェル様」

 宮殿に着いた日に、玄関で出迎えてくれた人。

 焼き菓子をひと晩見張っていてくれた人。

 わたしは、化粧台の腰掛けから立ち上がった。

「……来てくださって、ありがとうございます」

「とんでもない。お呼びいただけるとは、光栄でございます」

 宰相さまは、部屋の中へは入ってこなかった。

 扉から少し入ったところで、立ち止まった。

 わたしから、ずっと離れた場所で。

「こちらで、よろしゅうございますかな」

 わたしは、少しだけ、息を吐いた。

 あの人と、同じだった。

 近づかない。

 わたしが決めるのを、待つ。

「……あの、卓のところへ、どうぞ」

 わたしは、言った。

「わたしは、こちらに座っているので」

 宰相さまは、少しだけ目を見開いた。

 それから、静かに頷いて、卓のそばの、淡い緑色の椅子に腰を下ろした。

 大きく沈みこんだ座面に、宰相さまは、ほんのかすかに眉を寄せた。

 あの人と、同じ顔だった。

 わたしは、慌てて、口元を押さえた。


「陛下のことを、お知りになりたいと伺いました」

 宰相さまは、膝の上で手を組んで、穏やかに言った。

「わたくしにお答えできることでしたら、何なりと」

 わたしは、少しのあいだ、言葉を探した。

 何から訊けばいいのか、分からなかった。

 訊きたいことは、たくさんあった。

 でも、いちばん訊きたいことは、ひとつだけだった。

「……陛下には」

 声が、少しだけ震えた。

「誰か、いるんですか」

「誰か、と申しますと」

「痛いとか、つらいとか、そういうことを、言える人が」

 宰相さまの、組んだ手が、止まった。

「昨日、陛下に、背中の傷のことを訊きました。痛かったですか、って」

 わたしは、膝の上の手を見下ろした。

「陛下は、答え方が分からない、とおっしゃいました」

 宰相さまは、何も言わなかった。

「十年、誰にも、そんなことを訊かれなかったみたいで」

 わたしは、顔を上げた。

「だから、思ったんです。陛下には、そういうことを言える人が、いないのかもしれないって」


 宰相さまは、長いあいだ、黙っていた。

 卓の上の、硝子の花瓶に挿された白い花を、じっと見ていた。

 それから、ゆっくりと、口を開いた。

「……おりません」

 静かな声だった。

「わたくしの知るかぎり、ただのひとりも」

 わたしは、息を止めた。

「先帝陛下が崩御されたのは、陛下が十四のときでございました。その夜のうちに、陛下は帝都を追われました」

 宰相さまは、花瓶を見たまま、話しつづけた。

「それから七年、陛下は戦場におられました。わたくしは帝都に残り、簒奪者の宮廷で、陛下のために密かに動いておりました。ですから、戦場での陛下のお姿を、この目で見たわけではございません」

「……はい」

「ですが、ガレス殿から、何度も聞きました」

 宰相さまの声が、少しだけ低くなった。

「陛下は、一度も、弱音を吐かれなかったと」

 わたしは、膝の上で、手を握りしめた。

「十四の少年が、でございます。矢を受けても、熱に倒れても、乗っていた馬を射られて泥の中に投げ出されても。まだ戦えるか、と訊かれれば、戦えると。立てるか、と訊かれれば、立てると」

 宰相さまは、目を閉じた。

「陛下のまわりにいたのは、みな、陛下に従う者でございました。陛下を担いで戦う者。陛下のために死ぬ者。陛下に、救われることを願う者」

「救われる、ことを」

「はい。この国を、取り戻してくださる方として。簒奪者から、自分たちを救い出してくださる方として」

 宰相さまは、目を開けた。

「救う側の方に、救ってくれと言う者は、おりません」


 ――救う側。

 わたしは、その言葉を、胸の中で繰り返した。

「帝都を奪還した夜のことを、今でも覚えております」

 宰相さまは、静かに言った。

「街じゅうが、祝いの酒に酔っておりました。皇帝陛下万歳、と、誰もが叫んでおりました。わたくしも、ガレス殿も、生きてこの日を迎えられたことを、泣いて喜びました」

「……」

「ですが、陛下は、その夜、ひとりで執務室におられました」

 宰相さまの声が、かすかに揺れた。

「祝いの席には、ほんの少し顔を出されただけで。あとは、ずっと、ひとりで。わたくしが様子を伺いに参ると、陛下は、窓の外の街の灯りを、何の表情もなく見ておられました」

 わたしは、あの人の横顔を思い浮かべた。

 窓の外を見ている、いつもの横顔。

「わたくしは、そのとき、陛下にお声をおかけすることができませんでした」

 宰相さまは、組んだ手に、少しだけ力をこめた。

「わたくしも、ガレス殿も、陛下に仕える者でございます。仕える者が、主君に、お辛いでしょうとは申し上げられない。申し上げたところで、陛下は、いや、と答えられるだけです。陛下に、いや、と言わせてしまうだけなのです」

 ――いや。

 昨日の夜も、と、宰相さまは、ほとんど聞こえないくらいの声で付け足した。

 北の国境の村が焼かれた、と。

 子どもが、五人、死んだ、と。

 陛下は、何もおっしゃらずに、ひとりで、地図を見ておられた、と。

 わたしは、胸の奥が、冷たくなっていくのを感じた。

 昨日の昼、わたしは、あの人に、痛かったですかと訊いた。

 あの人は、小さく頷いた。

 それから、庭へ行って、林檎の木の下で、いつものように花冠を編んだ。

 そして、その夜。

 あの人は、ひとりで、子どもが五人死んだという知らせを聞いていたのだ。


「……わたしを」

 気がつくと、声が出ていた。

「わたしを、地下から出してくれたのは、陛下でした」

 宰相さまが、こちらを見た。

「鉄の扉を開けて。鎖を外して。わたしが嫌がることはしない、と言って」

 声が、少しずつ、かすれていった。

「毎日、扉を叩いて、入っていいかと訊いて。スープを確かめて。わたしが何を言っても、待ってくれて」

 わたしは、胸元のボタンを、手のひらで包んだ。

「わたし、ずっと、救われてばかりで」

 喉の奥が、熱くなった。

「陛下は、わたしを救ってくれたのに。陛下のことは、誰も」

 その先は、言えなかった。

 ――誰も、救っていなかった。

 十四歳で、帝都を追われた少年を。

 矢を受けても、戦えると言い続けた少年を。

 ひとりで、窓の外の祝いの灯りを見ていた青年を。

 誰も。

 宰相さまは、何も言わなかった。

 ただ、わたしを見ていた。

 穏やかな、少しだけ悲しそうな目で。

 セレナさんも、扉のそばで、黙って控えていた。


「……リシェル様」

 しばらくして、宰相さまが言った。

「ひとつだけ、申し上げてもよろしいですかな」

「……はい」

「先日、陛下が、庭の芝生でお休みになりました」

 わたしは、まばたきをした。

「ガレス殿から聞きました。日が傾くまで、深くお眠りになっていたと」

 宰相さまは、少しだけ、口元をゆるめた。

「陛下が、あのように眠られたのは、わたくしの知るかぎり、十年ぶりのことでございます」

「……十年」

「はい。戦場では、小さな物音ひとつで目を覚まされる方でした。帝都に戻られてからも、剣を手の届くところに置かずに眠られたことは、ございません」

 宰相さまは、まっすぐにわたしを見た。

「その方が、リシェル様のお隣で、剣も持たずに、お眠りになった」

 わたしは、何も言えなかった。

「わたくしにも、ガレス殿にも、できなかったことでございます」

 宰相さまの声は、静かだった。

「救われてばかり、と、リシェル様はおっしゃいました。ですが、わたくしには、そうは見えません」


   ◇ ◇ ◇


 宰相さまが帰る前に、わたしは、もうひとつだけ、お願いをした。

「陛下のことを、もっと、知りたいんです」

 わたしは言った。

「陛下が戦っていた、十年のこと。この国のこと。わたし、何も知らなくて」

 地下には、本がなかった。

 ハンナに、少しだけ字を教わったことはあった。でも、それも、離れにいた頃の、ずっと昔のことだった。

「読むのは、まだ、遅いと思います。でも、少しずつなら」

 宰相さまは、少しのあいだ考えて、それから、穏やかに頷いた。

「宮廷図書館をお使いになれるよう、手配いたしましょう。帝国の歴史の書も、内乱の記録もございます。それから」

 宰相さまは、ふと、言葉を足した。

「宮廷にいらっしゃるのでしたら、貴族の家々の紋章録も、ご覧になっておくとよろしいかと。どの家がどの紋を掲げているか、知っておかれて損はございません」

「紋章、録」

「はい。図書館の司書に、案内させましょう」

 わたしは、頷いた。

 紋章。

 その言葉が、胸の奥で、かすかに引っかかった。

 なぜなのかは、分からなかった。

 わたしは、胸元のボタンを、指先でそっと撫でた。


   ◇ ◇ ◇


 その日の昼、扉を叩く音がした。

「入っていいか」

「……はい」

 あの人が、銀の盆を持って入ってきた。

 いつものように盆を置いて、匙で確かめて、絨毯の上に腰を下ろした。

 いつもと、同じ顔だった。

 昨日の夜、ひとりで地図を見ていた人だとは、とても思えないくらい。

 わたしは、スープを飲んで、パンを食べた。

 それから、あの人から三歩離れた絨毯の上に座った。

 あの人は、窓の外を見ていた。

 わたしは、その横顔を見つめた。

 ――救う側の方に、救ってくれと言う者は、おりません。

 宰相さまの声が、耳の奥に残っていた。

 この人は、わたしを救ってくれた。

 でも、この人を、救った人はいない。

 十年。

 ひとりで。

 わたしは、膝の上で、両手を握りしめた。

 わたしに、何ができるのだろう。

 何も持っていない。

 剣も、お金も、言葉も、うまく使えない。

 この人を救うなんて、できるはずがない。

 それでも。

「……アルフレッド」

「何だ」

「昨日の夜は、眠れましたか」

 あの人の肩が、ほんのかすかに、動いた。

 しばらく、何も言わなかった。

 それから、窓の外を見たまま、低い声で言った。

「……あまり」

 わたしは、息を止めた。

 ――あまり。

 いや、ではなかった。

 眠れた、でもなかった。

 あまり、と。

 宰相さまが、十年、一度も聞けなかった種類の答え。

「……そうですか」

 わたしは、小さく言った。

 それ以上は、何も訊かなかった。

 何があったのかも。北の村のことも。

 ただ、そこに座っていた。

 三歩離れたところで。

 あの人が、いつも、わたしにそうしてくれるように。

「……庭へ、行くか」

 しばらくして、あの人が言った。

「はい」

 わたしは、頷いた。

 それから、ほんの少しだけ迷って、付け足した。

「今日は、芝生で、少し、休みませんか」

 あの人が、こちらを見た。

「この前みたいに。何もしないで」

 あの人は、しばらく、わたしを見ていた。

 黒い瞳が、ほんのかすかに、揺れていた。

「……ああ」

 低い声だった。

「そうしよう」

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