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第59話 銀のボタンの紋章

宮廷図書館は、東の客殿から長い回廊を渡った先にあった。

「こちらでございます、リシェル様」

 扉の前で待っていたのは、背の曲がった、小柄な老人だった。

 白い髭をたくわえて、丸い眼鏡をかけている。司書のオットーさんだと、ミーナさんが教えてくれた。

「宰相閣下から、承っております。どうぞ、ごゆるりと」

 オットーさんは、わたしから少し離れたところで、ゆっくりと頭を下げた。

 近づいてこなかった。

 宰相さまが、そう言いつけてくれたのだと思った。

 扉の向こうは、高い天井の、広い部屋だった。

 壁という壁が、本で埋まっていた。

 床から天井まで、ぎっしりと。梯子をかけなければ届かないような高い棚にまで、背表紙が並んでいた。

 古い紙と、革と、乾いたインクの匂いがした。

 わたしは、扉のところで、しばらく立ちつくしていた。

 ――こんなに、たくさん。

 地下には、一冊もなかった。

 離れの部屋にも、ハンナが字を教えてくれるときに使った、薄い絵本が一冊あっただけだった。

「すごいですよねえ」

 隣で、ミーナさんが小さな声で言った。

「わたしも、初めて入ったとき、腰が抜けるかと思いました」


 窓辺の大きな机に、オットーさんが何冊かの本を運んできてくれた。

「まずは、こちらを。帝国の歴史を、なるべくやさしく書いたものでございます」

 革の表紙の、少し薄い本だった。

「内乱の記録は、こちらに。少々、難しい言葉が多うございますが」

「……ありがとうございます」

「お分かりにならない言葉がございましたら、いつでもお呼びください。わたくしは、あちらの書架におりますので」

 オットーさんは、そう言って、少し離れた書架のほうへ下がっていった。

 わたしは、薄い本の表紙を開いた。

 文字が、並んでいた。

 読めた。

 ひとつずつ、指でたどれば、読めた。

 ハンナに教わった字を、わたしの目は、まだ覚えていた。

 でも、ひとつの頁を読むのに、ずいぶん時間がかかった。

 ミーナさんが、隣の椅子で、退屈そうに足をぶらぶらさせていた。


 帝国の、長い歴史。

 何代も前の皇帝たちのこと。戦のこと。国境のこと。

 分からない言葉は、たくさんあった。

 でも、最後のほうの頁に、知っている名前が出てきた。

 ――先帝陛下、崩御。

 ――皇太子アルフレッド殿下、時に十四歳。その夜、帝都を脱す。

 わたしは、指を止めた。

 アルフレッド。

 十四歳。

 その頁には、年が書いてあった。帝国暦の数字。

 わたしには、それが何年前のことなのか、すぐには分からなかった。

「……ミーナさん」

「はい?」

「この年は、今から、何年前ですか」

 ミーナさんは、頁を覗きこんで、指を折って数えた。

「ええと……十年前、ですね。ちょうど十年」

 十年前。

「季節は、初夏、って書いてありますね」

 わたしは、本の上で、指を握りしめた。

 ――十年前の、初夏。

 あの子が塀の向こうに消えたのは、十年前の、春の終わりだった。

 ――父上の具合が、あまりよくなくて。

 ――うちの中が、ちょっとごたごたしてるから。

 あの子は、そう言っていた。

 わたしは、首を振った。

 ――関係ない。

 十年前の初夏に、亡くなった人は、きっとたくさんいる。

 具合の悪い父親を持つ男の子も、きっとたくさんいる。

 わたしは、頁をめくった。

 でも、指先が、少しだけ震えていた。


   ◇ ◇ ◇


「それから、こちらも、宰相閣下からのお言いつけで」

 しばらくして、オットーさんが、もう一冊の本を運んできた。

 大きくて、重たい本だった。

 深い赤色の革の表紙に、金の文字が押してあった。

「帝国貴族紋章録でございます。宮廷にお住まいでしたら、ひととおり目を通しておかれると、何かと便利でございましょう」

「……紋章録」

「はい。家々の紋章を、絵とともに収めたものでございます」

 オットーさんは、本を机の上に置いて、また下がっていった。

 わたしは、その表紙を見つめていた。

 ――紋章。

 宰相さまから、その言葉を聞いたときにも、胸の奥で、何かが小さく引っかかった。

 今も、引っかかっていた。

 わたしは、表紙を開いた。

 頁いっぱいに、色鮮やかな絵が描かれていた。

 盾の形の中に、獅子や、狼や、薔薇や、塔や、星。

 その下に、細かい字で、家の名前と、由来が書いてあった。

「わあ、きれい」

 ミーナさんが、身を乗り出した。

「こういうの、お屋敷の門とか、馬車の扉とかに付いてるやつですよね」

「……はい」

 わたしは、頁をめくった。

 次の頁にも、紋章。その次にも。

 いろいろな家の、いろいろな紋章。

 鳥の紋章も、たくさんあった。

 鷲。鷺。白鳥。梟。

 わたしは、そのひとつひとつを、なぜだか、じっと見てしまった。

 翼を広げた鳥の紋章を見るたびに、手が止まった。

 ――どうして。

 自分でも、分からなかった。

 胸元のボタンが、服の下で、ひどく重たく感じられた。


 気がつくと、わたしは、ボタンを取り出していた。

 淡い青のリボンに通した、黒くくすんだ銀のボタン。

 縁が、少しだけ欠けている。

 わたしは、それを、裏返した。

 小さな模様が、刻まれていた。

 翼を広げた鳥みたいな、花みたいな、細い線の図柄。

 その上に、ちいさな冠。

 七つのときから、ずっと見てきた模様だった。

 地下の暗闇の中で、見えなくても、指先でなぞってきた模様。

 でも、それが何なのか、わたしは、一度も考えたことがなかった。

 考える方法が、なかった。

 地下には、紋章を教えてくれる人も、本も、なかったから。

 ――あの子の、上着のボタン。

 それだけで、よかった。

 それだけで、十分だった。

 わたしは、ボタンを手のひらに載せたまま、紋章録の頁を、ゆっくりとめくっていった。

 鳥の紋章を探して。

 翼を広げた鳥と、その上の、小さな冠を。

 鷲の紋章には、冠がなかった。

 鷺の紋章は、翼を閉じていた。

 梟の紋章は、正面を向いていた。

 どれも、違った。

 頁をめくるたびに、少しだけ、ほっとした。

 それから、また、少しだけ、胸が苦しくなった。

 何を探しているのか、自分でも、もう、分かっていた。

 分かっていて、見つからなければいいと思っていた。


 最後のほうの頁で、紋章録の紙の色が変わった。

 少しだけ厚くて、縁に金の線が引かれた頁。

 その一枚目に、大きな紋章が描かれていた。

 交差する、二振りの剣。その上に、帝冠。

 ――帝国の、紋章。

 宮殿の門にも、あの人の馬車にも、近衛の人たちの胸にも、付いていた。

 その下に、細かい字で、書いてあった。

 ――皇室御紋。

 わたしは、息を止めた。

 次の頁をめくる指が、震えていた。

 次の頁には、いくつかの小さな紋章が、並んでいた。

 ――皇族各位の御紋。

 先帝陛下の御紋。

 先帝の弟君の御紋には、上から黒い線が引かれていた。

 それから。

 その下に。

 翼を広げた、鳥。

 細い線で描かれた、鷹。

 花のようにも見える、広げた翼の羽根。

 その上に、ちいさな冠。


 ――皇太子アルフレッド殿下 御紋。

 ――鷹は殿下の御手の鷹に因む。冠は皇位を継ぐ者の印。即位以前に用いられたもの。


 わたしは、動けなかった。

 手のひらの上のボタンと、頁の上の紋章を、何度も見比べた。

 何度見ても、同じだった。

 翼の羽根の数も。

 首のかしげ方も。

 冠の、小さな三つの突起も。

 黒くくすんで、縁が欠けていても。

 十年、握りしめてきた模様と、同じだった。

 ――鷹は、殿下の御手の鷹に因む。

 ――鷹だよ。狩りの練習をさせてたら、急に逃げ出しちゃって。

 あの子の声が、聞こえた。

 林檎の木のいちばん高い枝に、腕を伸ばして。

 鷹が、その腕に、ひょいと飛び乗った。

 ――ずっと追いかけてきたら、ここまで来ちゃった。

 わたしは、目を閉じた。


 何もかもが、いっぺんに、押し寄せてきた。

 ――次に会うときは、ちゃんと名前を教える。

 ――アルフレッドだ。それが、俺の名前だ。

 くいっと二度、親指で押しこむ花冠の編み方。

 ――乳母に教わった。

 林檎の木のいちばん低い枝の上で。

 ――ここからだと、違って見えるな。

 泥の水たまりに、迷わず踏みこんだ長靴。

 ――汚れても、洗えば落ちる。

 ――怒ったら、俺も一緒に怒られる。俺のほうが汚い。

 ちぎれたパンの雲。

 ――お前は、なんでも食べ物に見えるんだな。

 焼き菓子を五つ。最後のひとつを、押しこまずに、明日まで待った人。

 ――昔より、下手になった。

 ――ずいぶん昔に、作ったことがある。

 ひとつひとつ、打ち消してきた。

 偶然だと。

 関係ないと。

 期待してはいけないと。

 考えては、いけないと。

 その全部が。

 頁の上の、小さな鷹の紋章ひとつで。

 もう、打ち消せなくなっていた。


「……リシェル様?」

 ミーナさんの声が、ひどく遠くに聞こえた。

「リシェル様、お顔が、真っ白……」

 わたしは、答えられなかった。

 手のひらの上のボタンを、ぎゅっと握りしめた。

 欠けた縁が、手のひらに食いこんだ。

 ――あの人だった。

 あの子は。

 林檎の木の下で、花冠を編んでくれた男の子は。

 泣かないでと言ってくれた男の子は。

 上着のボタンをちぎって、わたしの手に握らせてくれた男の子は。

 必ず迎えに来ると言って、塀の向こうへ消えた男の子は。

 あの人だった。

 ――どうして。

 喉の奥から、声にならない声がせり上がってきた。

 どうして、言ってくれなかったの。

 地下で、初めて会ったあの日に。

 鉄の扉を開けたあの日に。

 毎日、扉を叩いて、入っていいかと訊いて。

 毎日、わたしのそばにいて。

 花冠を編んで、木に登って、水たまりに踏みこんで。

 あの子と同じことを、何度も、何度もしながら。

 どうして、一度も。

 ――それに。

 もうひとつの問いが、胸の底から、浮かび上がってきた。

 ずっと、押しこめてきた問い。

 ――どうして、来なかったの。

 十年前の初夏に、帝都を追われた皇太子。

 七年、戦場にいた皇太子。

 三年前に、帝都を取り戻した皇帝。

 三年前に。

 それなら、どうして。

 この三年、どうして。

 目の奥が、焼けるように熱くなった。

 ――泣いては、いけない。

 わたしは、唇を噛んだ。

 ここで泣いたら、石が落ちる。

 図書館の机の上に、ミーナさんの目の前に、青黒い石が転がる。

 わたしは、ボタンを握った手を、胸に押し当てた。

 息を、止めた。

 ゆっくりと、吐いた。

 もう一度、止めた。

 七年、地下でそうしてきたように。


「リシェル様、お部屋に戻りましょう。お医者さまを――」

「……大丈夫、です」

 声が、かすれていた。

「大丈夫です。少し、疲れただけで」

 わたしは、紋章録を、そっと閉じた。

 深い赤色の表紙。金の文字。

 閉じても、頁の上の小さな鷹が、目の奥に焼きついて離れなかった。

「……オットーさん」

 書架のほうから、オットーさんが、ゆっくりと歩いてきた。

「この本を、また、見に来てもいいですか」

 オットーさんは、丸い眼鏡の奥で、わたしの顔を見た。

 それから、閉じられた紋章録の表紙を見た。

「もちろんでございます。いつなりと」

 穏やかな声だった。

 オットーさんは、それ以上、何も訊かなかった。


   ◇ ◇ ◇


 部屋に戻ってから、わたしは、窓辺にしゃがみこんでいた。

 窓辺の皿の上に、花冠が、いくつも並んでいた。

 あの人が編んだもの。わたしが編んだもの。

 くいっと二度の、ほどけない輪。

 ――乳母に教わった。

 あの人は、そう言った。

 嘘ではなかったのかもしれない。花冠の作り方は、乳母に教わったのかもしれない。

 でも、くいっと二度は、あの子が考えたやり方だった。

 あの人は、知っていたのだ。

 最初から。

 地下で、わたしを見つけたあの日から。

 ううん。

 ――探していた。

 ふいに、その言葉が浮かんだ。

 帝国の皇帝が、どうして、ヴァレンティアのお屋敷に来たのか。

 どうして、地下の扉を開けろと言ったのか。

 どうして、わたしの名前を、最初から知っていたのか。

 ――このボタンを持っていてくれたら、僕は絶対に、欠けたボタンを探しに行く。

 わたしは、手のひらの中のボタンを見下ろした。

 探しに、来たのだ。

 十年かかって。

 それなのに。

 どうして、言ってくれなかったの。

 どうして、三年も、来なかったの。

 分からなかった。

 うれしいのか、悲しいのか、怒っているのか、怖いのか。

 全部が、いっぺんに胸の中でぶつかりあって、どれが本当の気持ちなのか、少しも分からなかった。

 ただ、ひとつだけ、分かっていた。

 ――訊かなければ。

 あの人に。

 直接。

 噂のことを訊いたときと、同じように。

 怖くても。

 あの人は、訊けば、本当のことを言う人だから。


   ◇ ◇ ◇


 その日の夕刻、宰相クラウスは、図書館の司書から短い報告を受けた。

 東の客殿のお嬢さまが、紋章録の、皇族の御紋の頁で、長いあいだ手を止めておられたこと。

 お顔の色が、真っ白になっておられたこと。

 その手に、何か小さな、銀色のものを握っておられたこと。

 クラウスは、報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。

 それから、皇帝の執務室へ向かった。

「……陛下」

 アルフレッドは、窓辺に立っていた。

 クラウスの報告を、黙って聞いた。

 聞き終えても、振り返らなかった。

「……そうか」

 ただ、それだけ言った。

 クラウスは、主君の背中を見ていた。

 その肩が、ほんのわずかに、強張っているのが見えた。

「陛下。あの方の握っておられた銀色のものというのは」

「下がっていい、クラウス」

 低い声だった。

 クラウスは、口をつぐんだ。

 それから、黙って一礼して、扉を閉めた。


 ひとりになった執務室で、アルフレッドは、机の引き出しの鍵を開けた。

 紺色の、子ども用の上着。

 胸元に一列に並んだ銀のボタンの、真ん中のひとつだけが、欠けている。

 その欠けた場所を、指でなぞった。

 ――気づいた。

 あの子が。

 いつか、こうなる日が来ると思っていた。

 来てほしいと、思っていた。

 来ないでほしいとも、思っていた。

 自分から言うことは、できなかった。

 言えば、あの子は、十年かけて閉じた扉を、むりやりこじ開けられることになる。

 それに、言えば、訊かれる。

 ――どうして、来なかったの、と。

 その答えを、自分は、まだ、あの子に渡せるだけの言葉にできていなかった。

 アルフレッドは、上着を、そっと引き出しに戻した。

 鍵をかけた。

 窓の外を見た。

 東の客殿の、小さな灯り。

 明日の昼、自分は、いつものように扉を叩くだろう。

 入っていいか、と訊くだろう。

 あの子は、何と答えるだろうか。

 入っていい、と言ってくれるだろうか。

 アルフレッドは、窓枠を握りしめた。

 どんな問いが来ても、嘘はつかない。

 それだけは、決めていた。

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