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第60話 あなた、だったんですか

その夜、わたしは一睡もできなかった。

 寝台の上に座って、膝を抱えて、手のひらの中のボタンを見つめていた。

 月の光が、窓から斜めに差しこんでいた。

 その光の中で、黒くくすんだ銀のボタンが、かすかに鈍く光っていた。

 裏返す。

 翼を広げた鷹。その上の、小さな冠。

 ――皇太子アルフレッド殿下 御紋。

 何度見ても、同じだった。

 何度見ても、もう、打ち消せなかった。

 ――訊かなければ。

 昼間、そう決めた。

 でも、夜が深くなるにつれて、その決心が、少しずつ揺らいでいった。

 訊いたら、あの人は、何と答えるのだろう。

 ――違う。

 そう言われたら。

 わたしは、たぶん、もう立ち上がれない。

 十年かけて、夢だったことにした。夢だったことにして、やっと、痛くなくなった。

 それを、ここへ来て、もう一度掘り起こして。

 それでも、違うと言われたら。

 ――そうだ。

 そう言われたら。

 それは、それで。

 わたしは、ボタンを握りしめた。

 それは、それで、どうしていいのか分からなかった。

 うれしいのか。

 悲しいのか。

 怒っているのか。

 どの気持ちで、あの人の顔を見ればいいのか。

 分からないまま、窓の外が、少しずつ白んでいった。


   ◇ ◇ ◇


「リシェル様、少しでもお休みになれましたか」

 朝、髪を梳きに来てくれたセレナさんが、鏡越しにわたしの顔を見て、そっと訊いた。

「……いいえ」

 わたしは、正直に言った。

 セレナさんは、何も訊かなかった。

 ただ、いつもよりもゆっくりと、櫛を動かした。

 髪を梳き終えると、セレナさんは、わたしの胸元のリボンを、少しだけ整えてくれた。

 淡い青のリボン。

 その先に下がった、銀のボタン。

 セレナさんの指が、ボタンの上で、ほんの一瞬だけ止まった。

 それから、何も言わずに、手を離した。

「……セレナさん」

「はい」

「今日、お昼に、陛下がいらしたら」

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

「少しだけ、二人にしていただけますか」

 セレナさんは、鏡の中で、わたしを見た。

 穏やかな、少しだけ心配そうな目だった。

「かしこまりました」

 それから、静かに付け足した。

「わたくしは、扉の外の控えの間におります。何かございましたら、いつでも」

「……はい」


   ◇ ◇ ◇


 昼が近づくにつれて、わたしは、部屋の中を歩きまわっていた。

 窓から窓へ。

 卓から化粧台へ。

 座っていられなかった。

 何度も、胸元のボタンを握りしめた。

 何度も、言葉を、頭の中で繰り返した。

 ――あの日の男の子は。

 その先が、どうしても、頭の中でさえ、うまく続かなかった。

 扉を叩く音がした。

 低くて、重たくて、短い叩き方。

 わたしは、窓辺で足を止めた。

 心臓が、どくんと鳴った。

「入っていいか」

 いつもと、同じ声だった。

 わたしは、すぐには答えられなかった。

 扉の向こうで、あの人が待っていた。

 わたしが答えるまで、ずっと。

 あの日、地下の鉄の扉の前でも。

 この宮殿に来てからも。

 毎日、毎日。

 ――入っていいか。

 わたしは、目を閉じた。

「……はい」


 扉が開いて、あの人が入ってきた。

 銀の盆を持って。

 いつものように、部屋の中を見回して。

 窓辺に立っているわたしを見て、ほんの一瞬だけ、足を止めた。

 あの人は、何も言わなかった。

 盆を、卓の上に置いた。

 曲がった匙を手に取ろうとして。

「……あの」

 わたしは、言った。

 あの人の手が、止まった。

「今日は、先に、お話ししたいことがあって」

 声が、震えていた。

「お昼は、あとで、いただきます」

 あの人は、しばらく、わたしを見ていた。

 それから、静かに匙を盆の上に戻した。

「……分かった」

 あの人は、いつものように、部屋の真ん中の絨毯の上に腰を下ろさなかった。

 卓のそばに、立ったままだった。

 わたしとのあいだに、三歩よりも少しだけ遠い距離を残して。

 窓の外を、見なかった。

 わたしを、見ていた。

 何の表情も浮かんでいない、いつもの顔で。

 でも、その黒い瞳が、いつもよりも、ずっと静かだった。

 何かを、覚悟している人の目だった。


 ――知っている。

 ふいに、そう思った。

 この人は、わたしが何を訊こうとしているのか、知っている。

 昨日、図書館で、わたしが紋章録を見ていたことを。

 きっと、誰かから聞いたのだ。

 それでも、この人は、今日も扉を叩いた。

 入っていいか、と訊いた。

 逃げずに。

 わたしは、胸元のボタンを、リボンごと手のひらに載せた。

 黒くくすんだ、縁の欠けた、銀のボタン。

 それを、あの人に見えるように、そっと差し出した。

 あの人の目が、ボタンの上で、止まった。

 ほんのかすかに、喉が動いた。

「昨日」

 わたしは、言った。

「図書館で、紋章録を、見ました」

 あの人は、何も言わなかった。

「皇族の方の、紋章の頁に」

 声が、かすれた。

「このボタンの裏と、同じ模様が、ありました」

 あの人は、まだ、何も言わなかった。

 ただ、わたしを見ていた。

 まっすぐに。

 目を、逸らさずに。

「翼を広げた、鷹と。その上の、小さな冠」

 わたしは、ボタンを握りしめた。

「皇太子、アルフレッド殿下の、御紋だって」


 部屋の中が、しんと静かになった。

 窓の外で、鳥が鳴いた。

 遠くで、薔薇の茂みが、風に揺れる音がした。

 わたしは、息を吸った。

 喉が、ひりひりと痛かった。

 言わなければ。

 ここまで来て、言わないわけにはいかなかった。

 十年。

 十年、ずっと、胸の奥にしまってきた、たったひとつの問い。

 夢だったことにして、それでも捨てられなかった問い。

「……アルフレッド」

 あの人の肩が、ほんのわずかに、震えた。

「あの日の」

 声が、途切れた。

 わたしは、ぎゅっと目を閉じた。

 それから、開けた。

 あの人の黒い瞳を、まっすぐに見た。

「あの日の男の子は……」

 震えていた。

 声も、手も、膝も。

 全部が、震えていた。

「あなた、だったんですか」


   ◇ ◇ ◇


 アルフレッドは、動かなかった。

 ――あなた、だったんですか。

 あの子の声が、部屋の中に、ほどけるように消えていった。

 灰色がかった青い瞳が、まっすぐに、こちらを見ていた。

 震えていた。

 怯えていた。

 それでも、目を逸らさなかった。

 その手のひらの上に、黒くくすんだ、銀のボタンが載っていた。

 十年前、自分が、上着から外して、小さな手に握らせたボタン。

 ――このボタンを持っていてくれたら、僕は絶対に、欠けたボタンを探しに行く。

 十四の自分が、そう言った。

 探した。

 十年かけて。

 死亡届の上に、墓石の上に、何度も絶望を塗り重ねて。

 それでも、探した。

 そして、見つけた。

 地下の、鉄の扉の向こうで。

 あの日から、何度、言おうと思ったか分からない。

 あの日の男の子は、俺だ、と。

 迎えに来た、と。

 遅くなったが、約束どおり、迎えに来た、と。

 だが、言えなかった。

 怯えきったあの子に、それを告げることは、もう一度、扉をこじ開けることだった。

 十年分の痛みを、まだ立ち上がることもできない身体に、いちどきに背負わせることだった。

 だから、待った。

 あの子が、自分で扉を開けるまで。

 ――あなた、だったんですか。

 あの子は、自分で、扉を開けた。

 震えながら。

 ボタンを握りしめて。

 アルフレッドは、ゆっくりと、息を吸った。

 嘘はつかない。

 それだけは、決めていた。

 喉の奥が、焼けるように熱かった。

 目の奥も。

 ――泣くな。

 自分に、言い聞かせた。

 ここで泣くのは、自分ではない。

 十年、待たせたのは、自分なのだから。

「……そうだ」

 低い声だった。

 静かな声だった。

 ほんのわずかに、かすれていた。

「あの日の、林檎の木の下の男の子は」

 アルフレッドは、あの子の手のひらの上のボタンを見た。

 それから、あの子の目を見た。

「俺だ」


   ◇ ◇ ◇


 ――そうだ。

 あの人の声が、耳の中で、何度も、何度も響いていた。

 ――俺だ。

 わたしは、動けなかった。

 手のひらの上のボタンが、ひどく熱かった。

 分かっていた。

 昨日、図書館で、紋章録の頁を見たときから。

 ううん。

 本当は、もっと前から。

 くいっと二度の花冠を見たときから。

 林檎の木の低い枝の上で、ここからだと違って見えるな、と言われたときから。

 水たまりに、迷わず踏みこんだ長靴を見たときから。

 分かっていて、ずっと、打ち消してきた。

 それなのに。

 あの人の口から、その言葉を聞いた瞬間。

 足元の床が、ぐらりと傾いた気がした。

 わたしは、窓枠に手をついた。

 ――あの子が。

 林檎の木の下で、泣いているわたしのそばに座ってくれた男の子が。

 花冠を編んでくれた男の子が。

 焼き菓子を、半分こしてくれた男の子が。

 泥の水たまりに、飛びこんでくれた男の子が。

 ボタンを、握らせてくれた男の子が。

 必ず迎えに来ると言って、塀の向こうへ消えた男の子が。

 今、わたしの目の前に、立っていた。

 三歩よりも、少しだけ遠いところに。

 背が、ずっと高くなって。

 声が、ずっと低くなって。

 あの頃の、太陽みたいな笑い声は、どこにもなくなって。

 何の表情も浮かべられない顔で。

 背中に、数えきれないほどの傷を負って。

 それでも。

 あの子は、ここにいた。


「……やっぱり」

 声が、こぼれた。

 自分でも、何を言っているのか、よく分からなかった。

「やっぱり、そうだったんですね」

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、そこに立っていた。

 わたしに、近づこうとはしなかった。

 手を伸ばそうとも、しなかった。

 三歩よりも少しだけ遠いところで、わたしが何かを言うのを、待っていた。

 いつもと、同じように。

 十年前の、あの子とは違って。

 あの子なら、きっと、駆け寄ってきた。

 わたしの手を取って、振り回して、笑って。

 でも、この人は、動かなかった。

 わたしが、触れられることを怖がっているのを、知っているから。

 そのことが。

 なぜだか、胸の奥を、ひどく締めつけた。

「……いつから」

 わたしは、窓枠に手をついたまま、訊いた。

「いつから、分かっていたんですか」

 あの人は、少しだけ目を伏せた。

「地下の扉の前に立ったときから」

 低い声だった。

「扉の向こうに、お前がいると分かった。名前を呼んで、お前が返事をしたとき、確かになった」

 ――リシェル。

 あの日、鉄の扉が開いて、知らない男の人が、わたしの名前を呼んだ。

 どうしてこの人は、わたしの名前を知っているのだろう、と思った。

 ――知っていたのだ。

 最初から。

 ずっと、知っていたのだ。


 わたしは、ボタンを握りしめた。

 喉の奥から、何かが、せり上がってきた。

 熱くて、苦くて、重たいものが。

 十年分の。

 ずっと、胸の底に押しこめてきた。

 夢だったことにして、蓋をしてきた。

 あの問いが。

 ――どうして。

 訊いてはいけない、と思った。

 この人は、背中に、あんなにたくさんの傷を負っていた。

 十四歳で帝都を追われて、七年も戦場にいた。

 誰にも、痛いと言えずに。

 それを、わたしは知っている。

 知っているのに。

 それでも、その問いは、止まらなかった。

 喉の奥から、勝手に、せり上がってきて。

 わたしは、唇を噛んだ。

 目の奥が、焼けるように熱かった。

 ――泣いては、いけない。

 ここで泣いたら、石が落ちる。

 この人の目の前で。

 わたしは、ボタンを握った手を、胸に押し当てた。

 息を止めた。

 あの人は、動かなかった。

 ただ、まっすぐに、わたしを見ていた。

 どんな問いが来ても、逃げないという目で。

 わたしは、ゆっくりと、息を吐いた。

 それから、唇を開いた。

 十年、言えなかった言葉が、そこまで来ていた。

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