第61話 どうして来なかったの
「……どうして」
声が、こぼれた。
自分の声ではないみたいだった。
細くて、高くて、ひどく幼い声だった。
林檎の木の下で、あの子の袖を引っぱっていた、七つのわたしの声。
「どうして、来なかったの」
言ってしまった。
言ってしまってから、わたしは、両手で口を押さえた。
――違う。
こんなことを、言うつもりではなかった。
訊くつもりだったのは、もっと、別のことだった。
どうして、言ってくれなかったんですか、と。
ちゃんと、大人の言葉で。
この人を、責めるつもりなんてなかった。
この人の背中の傷を、わたしは見た。
十四歳で帝都を追われて、七年も戦場にいた人だと、宰相さまから聞いた。
誰にも、痛いと言えずに。
来られなかった理由が、きっと、ちゃんとあるのだ。
分かっている。
分かっていた。
それなのに。
口から出てきたのは、あの春の庭に置き去りにしてきた、七つのわたしの声だった。
「……ご、ごめんなさい」
わたしは、口を押さえたまま、首を振った。
「違うんです。責めたかったわけじゃなくて。そうじゃなくて」
言葉が、うまく出てこなかった。
喉の奥が、熱くて、苦しくて。
「ちゃんと、分かってます。来られなかったんだって。来たくなかったわけじゃないって。分かってるんです。だから、今のは」
「謝るな」
あの人の声がした。
低くて、静かな声だった。
わたしは、顔を上げた。
あの人は、三歩よりも少しだけ遠いところに、立ったままだった。
動いていなかった。
まっすぐに、わたしを見ていた。
「それは、お前が訊いていいことだ」
あの人は、言った。
「十年前から、ずっと、訊いていいことだった」
わたしは、口を押さえていた手を、ゆっくりと下ろした。
あの人は、何の表情も浮かべていなかった。
でも、その目は、少しも逸らされていなかった。
――責めていいことだ、と。
この人は、そう言っているのだと思った。
わたしは、窓枠に背中を預けた。
膝が、震えていた。
立っていられそうに、なかった。
わたしは、その場に、ずるずるとしゃがみこんだ。
窓の下の、絨毯の上に。
あの人が、ほんのわずかに、身じろぎした。
近づきかけて、止まった。
「……座っても、いいか」
あの人が、訊いた。
「そこから、三歩、離れたところに」
わたしは、小さく頷いた。
あの人は、ゆっくりと、絨毯の上に腰を下ろした。
わたしから、三歩離れたところに。
いつもの距離。
いつもの、あの人の場所。
それなのに、今日は、そのいつもが、ひどく遠く感じられた。
それから、ひどく近くにも感じられた。
「……待っていたんです」
気がつくと、また、声が出ていた。
今度は、止めなかった。
止められなかった。
「毎日、待っていました。あなたが、塀の向こうへ行ってしまってから」
あの人は、黙っていた。
「明日は来るかもしれないって。今日は来なかったけど、明日はきっとって」
わたしは、膝を抱えた。
「ハンナがいなくなって。お母さまが、毎日来るようになって。泣きなさいって言われて。それでも、待っていました。ボタンを持っていたら、探しに来てくれるって、あなたが言ったから」
声が、震えた。
「地下に、移されてからも」
あの人の肩が、ほんのかすかに震えた。
「地下には、窓らしい窓がなかったんです。高いところに、小さな格子の窓がひとつだけ。そこから入ってくる光が、少しだけ明るくなると、春が来たんだって分かりました」
わたしは、目を閉じた。
「春が来るたびに、指を折って数えました。あの春から、何回目の春かって」
「あなたのことを考えると、泣きそうになりました」
わたしは、胸元のボタンを、ぎゅっと握りしめた。
「でも、泣いたら、石になるんです。石になったら、お母さまが拾って、売ってしまう」
あの人の手が、膝の上で、ゆっくりと握りしめられていくのが見えた。
「あなたのことを想って泣いたら、あなたとの思い出が、石になって、売られていく気がして」
声が、かすれた。
「だから、あなたのことを、あんまり考えないようにしました。考えたら、泣いてしまうから」
「……」
「それでも、春になると、数えてしまうんです。何回目の春かって」
わたしは、目を開けた。
あの人の顔を、見た。
「十回目の春に、もう、待つのをやめました」
あの人の顔から、ほんの少しだけ、血の気が引いたように見えた。
「あれは、夢だったって。そう決めたんです。待っているから苦しいんだって。信じているから、来ない日が痛いんだって。だから、最初から、何もなかったことにすれば、もう痛くないって」
わたしは、ボタンを握った手を、膝の上に下ろした。
「そう決めて、何日もしないうちに、あの鉄の扉が開きました」
部屋の中が、静かになった。
窓の外で、風が、薔薇の茂みを揺らしていた。
あの人は、動かなかった。
何も、言わなかった。
膝の上の拳が、白くなるほど握りしめられていた。
前に、机にぶつけたという傷が、まだうっすらと残っている拳。
「……あの日、鉄の扉が開いたとき」
わたしは、言った。
「知らない男の人だと、思いました」
――知らない男。
わたしは、本当に、そう思ったのだ。
「わたしを買いに来た人だと思いました。あの子が来るなんて、もう、少しも思っていなかったから」
声が、どんどん小さくなっていった。
「夢だったことに、したばかりだったから」
わたしは、俯いた。
「もしも、あと少しだけ、早かったら」
その先は、言えなかった。
もしも、あと少しだけ、早かったら。
夢だったと決める前に、あの扉が開いていたら。
わたしは、あの人の顔を見て、すぐに分かったのだろうか。
あの子だ、と。
来てくれた、と。
――分からない。
十年は、長すぎた。
あの子の顔も、声も、少しずつ、暗闇の中で溶けていった。
覚えているのは、笑い声と、袖を引っぱったときの感触と、くいっと二度の親指だけだった。
「……ごめんなさい」
わたしは、また、謝っていた。
「あなたを、分からなくて」
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、息ができなかった。
――十回目の春に、もう、待つのをやめました。
――そう決めて、何日もしないうちに、あの鉄の扉が開きました。
何日も、しないうちに。
あと、少しだった。
あと、ほんの少しだけ、早ければ。
いや。
早ければ、ではない。
三年。
帝都を取り戻してから、三年。
死亡届を握りしめて、墓の前に膝をついて、それでも諦めきれずに、あの家を探りつづけて。
その三年のあいだ、あの子は、すぐそこにいた。
地下の暗闇の中で、春を数えていた。
自分を想って泣けば、その思い出が石になって売られていくからと。
自分のことを、考えないようにして。
――あなたのことを想って泣いたら、あなたとの思い出が、石になって、売られていく気がして。
アルフレッドは、目を閉じた。
あの石。
帝国じゅうに出回っていた、青黒い石。
反乱の軍資金になり、貴族の屋敷を建て、商会の魔導炉を燃やしていた石。
その中に。
この子が、自分を想って流した涙が、あったのだ。
自分は、それを、指先でつまみ上げて、光にかざしたことがある。
奇妙な石だ、と、クラウスは言った。眺めていると、胸の奥が冷えるようだ、と。
――あの石は。
膝の上の拳が、震えた。
――あなたを、分からなくて。ごめんなさい。
謝るのは、この子ではない。
謝らなければならないのは。
アルフレッドは、目を開けた。
あの子は、窓の下で、膝を抱えて、小さくなっていた。
俯いた顔を、灰色がかった金色の髪が隠していた。
胸元で、黒くくすんだボタンを、両手で握りしめていた。
十年前と、同じように。
――どうして、来なかったの。
七つの子の声だった。
あの子の中で、ずっと、ずっと、その問いは、七つのまま置き去りにされていたのだ。
答えなければならなかった。
言い訳をするつもりは、なかった。
来られなかった理由は、ある。
だが、それを並べたところで、この子の十年が戻ってくるわけではない。
この子が地下で数えた十回の春が、なかったことになるわけではない。
それでも。
この子は、知る権利がある。
自分が、どこで、何をしていたのか。
なぜ、来られなかったのか。
なぜ、三年もかかったのか。
そして、なぜ、今まで名乗らなかったのか。
全部。
ひとつ残らず。
都合のいいところだけではなく、自分が恥じていることも、悔やんでいることも、全部。
「……リシェル」
あの子が、顔を上げた。
灰色がかった青い瞳が、うっすらと濡れていた。
でも、まだ、こぼれてはいなかった。
「謝るのは、お前じゃない」
アルフレッドは、言った。
声が、思っていたよりも、かすれていた。
「お前が俺を分からなかったのは、当たり前だ。十年も経っていた。俺は、あの頃とは、何もかも変わっていた」
「……」
「それに、お前が待つのをやめたのは、お前のせいじゃない。待たせたのは、俺だ」
あの子の唇が、かすかに震えた。
「言い訳は、しない」
アルフレッドは、まっすぐに、あの子を見た。
「来られなかった理由は、ある。だが、それで、お前が待った十年が、少しでも軽くなるとは思わない」
あの子は、何も言わなかった。
「それでも、聞いてほしい」
アルフレッドは、膝の上の拳を、ゆっくりとほどいた。
「お前と別れたあの日から、地下の扉を開けたあの日まで。俺が、どこで、何をしていたのか」
少しだけ、間を置いた。
「なぜ、三年もかかったのか。なぜ、今まで、名乗らなかったのか」
あの子の目が、ほんのわずかに、見開かれた。
「全部、話す」
アルフレッドは言った。
「いいことも、悪いことも。お前に知られたくないことも。全部」
それから、付け足した。
「お前が、聞きたくなければ、聞かなくていい。途中で、もういいと言ってもいい」
あの子は、長いあいだ、黙っていた。
胸元のボタンを、握りしめたまま。
それから、小さく、頷いた。
「……聞きたいです」
かすれた声だった。
「全部、聞きたいです」
アルフレッドは、静かに頷いた。
それから、卓の上の、手つかずの銀の盆を見た。
スープは、とうに冷めかけていた。
「……長い話になる」
アルフレッドは、言った。
「その前に、少しでいい。食べてくれ」
あの子は、まばたきをした。
「話の途中で、お前が倒れたら、困る」
あの子は、しばらく、アルフレッドの顔を見ていた。
それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……はい」
あの子は、ゆっくりと立ち上がった。
卓のそばへ行った。
アルフレッドは、立ち上がって、盆のそばへ行った。
曲がった匙を手に取った。
冷めかけたスープを、ひと口ずつ、確かめた。
いつものように。
毎日、そうしてきたように。
「……大丈夫だ」
「はい」
あの子は、スープに口をつけた。
ひと口。
ふた口。
アルフレッドは、窓の外を見ていた。
どこから話せばいいのか、考えていた。
十年前の春の終わり。
狩猟小屋に届いた、早馬の知らせ。
――父上が。
あの日から、始めよう。
アルフレッドは、目を閉じた。
十年、誰にも話したことのない話だった。
クラウスにも。ガレスにも。
自分自身にさえ、まともに思い出すことを許してこなかった話だった。
それを、今、この子に話す。
この子にだけは、話さなければならなかった。




