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第62話 皇太子の失踪

スープを十口飲んで、パンをひとつ食べた。

 ふたつ目は、喉を通らなかった。

 あの人は、何も言わなかった。

 わたしが匙を置くと、あの人は窓の外から目を戻した。

 わたしは、絨毯の上の、窓の下の場所へ戻って座った。

 あの人も、三歩離れたところに、腰を下ろした。

 いつもの距離。

 あの人は、しばらく、何も言わなかった。

 膝の上で、両手を組んでいた。

 その指が、ほんのわずかに、組み直された。

 何度か。

 わたしは、あの人が話しはじめるのを、待った。

 あの人が、いつもわたしを待ってくれるように。


「……あの日」

 やがて、あの人が言った。

「お前に、帰らなければならないと言った日」

 わたしは、胸元のボタンを握りしめた。

 ――今日、帰らなきゃいけなくなった。本当のうちに。

 塀のてっぺんに現れた、旅の外套を羽織った男の子。

 泥の跳ねた裾。

 ――父上の具合が、急に悪くなったって知らせが来たんだ。

「狩猟小屋に、帝都から早馬が来た。父上の容体が急に悪くなった、すぐに戻れ、と」

 あの人の声は、低くて、平らだった。

 でも、いつもよりも、少しだけ、ゆっくりしていた。

 一つひとつの言葉を、遠いところから拾ってくるような声だった。

「すぐに発たなければならなかった。護衛の騎士たちは、もう馬の支度を終えていた。それでも、どうしても、お前にだけは言っておきたかった」

「……はい」

「だから、塀を越えた。止められたが、聞かなかった」

 あの人は、ほんの少しだけ、目を伏せた。

「あれが、最後になるとは、思っていなかった」

 わたしは、何も言えなかった。

 ――お父さま、早く、よくなるといいね。

 あのとき、わたしは、そう言った。

 一生懸命に、笑おうとしながら。


「帝都まで、馬を替えながら、三日で駆けた」

 あの人は、続けた。

「眠らずに。食べるのも、馬の上で」

 ――三日。

 この宮殿に来たとき、わたしは、四日も馬車に揺られた。

 あの距離を、十四歳の男の子が、三日で。

「帝都の門が見えたとき、門の前で、黒い旗が上がっていた」

 あの人の声が、ほんのわずかに、止まった。

「父上は、俺が着く前の夜に、亡くなっていた」

 わたしは、息を止めた。

 ――お父さま、早く、よくなるといいね。

 あの人の父さまは、よくならなかった。

 あの人は、間に合わなかった。

「……ごめんなさい」

 気がつくと、言っていた。

 あの人が、こちらを見た。

「わたし、あのとき、よくなるといいねって」

「お前が謝ることじゃない」

 あの人は、静かに言った。

「あのとき、お前がそう言ってくれたのを、俺は、帝都までの三日間、ずっと思い出していた」

 あの人は、組んだ手を、少しだけ握りしめた。

「間に合わなかったが、それでも、そう言ってもらえたのは、うれしかった」


 あの人は、しばらく黙っていた。

 窓の外で、鳥が鳴いた。

「その夜のうちに、叔父の兵が、皇太子宮を囲んだ」

 わたしは、膝の上で両手を握りしめた。

「叔父は、父上の弟だった。父上が病に倒れてから、宮廷の半分を、もう自分の手の内に収めていた。俺が帝都を離れて狩猟小屋にいたのも、そのせいだった。大人たちが、いろいろ揉めている、と。お前に、そう言ったことがあったな」

「……はい」

 覚えていた。

 林檎の枝の上で。

 ――大人たちが、いろいろ揉めてるんだよ。

 そう言って、あの子は、少しだけ唇を噛んでいた。

 いつもの笑っている顔とは、まるで違う横顔で。

「父上が亡くなった夜に、叔父は、触れを出した」

 あの人の声は、変わらなかった。

 平らで、静かで、少しも揺れていなかった。

「皇太子が、父帝に毒を盛った、と」

 わたしは、目を見開いた。

「……そんな」

「狩猟小屋から急に戻ってきたのは、父帝の死を確かめるためだった、と。叔父の手の者が、そういう話を作った。証人も、証拠も、全部用意されていた」

 あの人は、組んだ手を、膝の上でほどいた。

「俺は、父親殺しの謀反人として、捕らえられることになった」

「……」

「捕らえられれば、その夜のうちに首をはねられていた」


 わたしは、何も言えなかった。

 喉の奥が、からからに乾いていた。

 十四歳。

 お父さまが亡くなった、その夜に。

 お父さまを殺したと言われて。

 自分の家だった場所を、兵に囲まれて。

「……どうやって、逃げたんですか」

 声が、かすれた。

「乳母が、いた」

 あの人は、言った。

「皇太子宮の裏に、古い抜け道があった。俺が生まれる前から、乳母はそれを知っていた。近衛の騎士が、四人。乳母と、その四人が、俺を連れ出した」

 あの人の目が、ほんの少しだけ、遠くを見た。

「着替える暇も、なかった。着の身着のまま、抜け道の暗い中を走った」

 それから、あの人は、わたしの手の中のボタンを見た。

「そのとき、着ていたのが、あの上着だった」

 わたしは、息を止めた。

 ――紺色の、上着。

 胸元に、銀のボタンが一列に並んでいて。

 真ん中のひとつだけが、欠けていて。

 ――残りのひとつは、リシェルが持ってるから。

「……まだ」

 わたしは、言った。

「まだ、あるんですか。あの上着」

 あの人は、少しのあいだ、黙っていた。

 それから、静かに頷いた。

「ある」

 低い声だった。

「真ん中のボタンは、欠けたままだ」


 胸の奥が、ぎゅうっと痛くなった。

 わたしは、手のひらの中のボタンを、強く握りしめた。

 欠けた縁が、手のひらに食いこんだ。

 ――これからもずっと、付けさせない。

 あの子は、そう言った。

 十年経っても。

 付けさせなかったのだ。

「……乳母さんは」

 わたしは、言った。

「今も、どこかに」

 あの人は、答えなかった。

 膝の上の手が、ゆっくりと握りしめられた。

 長い沈黙のあとで、あの人は、短く言った。

「……その話は、また、いつか話す」

 それだけだった。

 わたしは、それ以上、訊かなかった。

 訊いてはいけない、と思った。

 あの人の横顔が、ひどく遠くを見ていたから。


「帝都を出てからは、追っ手が来た」

 しばらくして、あの人は、また話しはじめた。

「叔父は、皇太子を逃がしたと知って、帝国じゅうに触れを回した。父親殺しの謀反人を見つけた者には、金貨千枚を与える、と」

 金貨、千枚。

 十四歳の男の子の、命の値段。

「街道は、使えなかった。宿にも、泊まれなかった。昼は森に隠れて、夜に動いた」

 あの人の声は、まだ、平らだった。

「最初の矢を受けたのは、帝都を出てひと月も経たない頃だ。右の肩だった」

 ――右の肩。

 あの背中の、丸く引きつれた痕。

「それから半年ほどして、叔父は、宮廷で、皇太子は国外へ逃げて行方知れずになった、と言いだした。そのうちに、死んだことにされた」

 あの人は、わたしを見た。

「帝都の人間にとって、俺は、父親を殺して逃げた末に、どこかで野垂れ死んだ皇太子になった」

 わたしは、両手で口を押さえた。

 ――死んだことに、された。

 十四歳の男の子が。

 森の中で、生きているのに。

 誰からも、もういない人として、忘れられていく。

 それがどんなに寒いことか、わたしには、少しだけ分かる気がした。


「……それでも」

 あの人は、言った。

「それでも、俺は、お前のところへ行こうと思えば、行けたのかもしれない」

 わたしは、顔を上げた。

 あの人は、まっすぐにわたしを見ていた。

「ヴァレンティアの屋敷は、狩猟小屋から近かった。抜け道を出て、森づたいに北へ向かえば、半月で着いたかもしれない」

 あの人の声は、少しも揺れなかった。

 でも、膝の上の拳は、白くなるほど握りしめられていた。

「だが、行かなかった」

「……」

「謀反人の皇太子が、ある日、侯爵家の庭に現れたら、どうなるか。叔父の手の者は、俺の行く先を、血眼で探していた。俺が少しでも誰かと関わったと知れれば、その誰かも、同じように狙われる」

 あの人は、目を伏せた。

「ヴァレンティア家が、叔父の側につくのか、そうでないのかも、俺には分からなかった。分かったのは、俺がお前に近づけば、お前まで危うくなるということだけだった」

「……」

「それに、十四の俺は、何も持っていなかった」

 あの人は、言った。

「剣も、まともに振れなかった。兵もいなかった。金もなかった。自分の身ひとつ、乳母と四人の騎士に守られなければ、守れなかった」

 ――僕は、今はまだ子どもだ。何もできない。

 あの日、林檎の木の下で、あの子はそう言った。

「そんな俺が、お前のところへ行って、何ができた。お前をあの家から連れ出して、どこへ連れていけた。追っ手の来る森の中へか」

 あの人は、少しだけ、黙った。

「だから、行かなかった」

 静かな声だった。

「言い訳に聞こえるだろう。だが、それが、あの夜から、俺がお前のところへ行かなかった、最初の理由だ」


 部屋の中が、静かになった。

 わたしは、あの人の顔を見ていた。

 何の表情も浮かんでいない、いつもの顔。

 でも、その顔の向こうに、もうひとつの顔が見えた気がした。

 旅の外套を羽織って、頬を真っ赤にして、塀のてっぺんで叫んでいた男の子の顔。

 ――泣くなよ! 約束だからな!

 あの子は、あのあと、三日で帝都まで駆けて。

 お父さまの死を、黒い旗で知って。

 その夜のうちに、お父さま殺しの謀反人にされて。

 暗い抜け道を、着の身着のままで走って。

 森の中で、矢を受けて。

 死んだことに、されて。

 それでも、あの上着の、真ん中のボタンだけは、付けさせなかった。

「……言い訳には、聞こえません」

 わたしは、言った。

 声が、震えていた。

 あの人が、こちらを見た。

「あのとき、来てくれていたら、わたしは、きっと、うれしかったと思います」

 わたしは、ボタンを握りしめた。

「でも、あなたが、そのせいで死んでしまっていたら」

 喉の奥が、熱くなった。

「わたしは、それよりも、ずっと、いやです」

 あの人の肩が、震えた。

 わたしは、俯いた。

 目の奥が、焼けるように熱かった。

 でも、まだ、こぼれなかった。

 わたしは、唇を噛んだ。

「……続きを」

 かすれた声で、わたしは言った。

「続きを、聞かせてください」


   ◇ ◇ ◇


 アルフレッドは、あの子の俯いた顔を見ていた。

 ――でも、あなたが、そのせいで死んでしまっていたら。

 ――わたしは、それよりも、ずっと、いやです。

 責められると思っていた。

 責められて当然だと思っていた。

 それなのに、この子は。

 十年、地下で春を数えたこの子は。

 自分が来なかったことよりも、自分が死なずにいたことを、選んでくれた。

 アルフレッドは、組んだ手に力をこめた。

 喉の奥が、熱かった。

 ――泣くな。

 まだ、話は終わっていない。

 話さなければならないことは、まだ、山ほどある。

 森の中で過ごした最初の冬のこと。

 初めて剣を握って、初めて人を斬った夜のこと。

 七年の戦のこと。

 そして、帝都を取り戻したあとの、三年のこと。

 あの一枚の紙のこと。

 アルフレッドは、ゆっくりと、息を吐いた。

「……分かった」

 低い声で、言った。

「続きを話す」

 窓の外で、陽が、少しだけ傾きはじめていた。

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