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第63話 戦場の少年

扉を、控えめに叩く音がした。

「……陛下。セレナでございます」

 あの人が、扉のほうへ顔を向けた。

「宰相閣下から、午後の謁見のお時間だと」

 あの人は、少しのあいだ黙っていた。

 それから、扉越しに言った。

「今日の午後は、何も入れるなと伝えろ。全部、ずらせと」

 扉の向こうで、ほんの一瞬、間があった。

「……かしこまりました」

 足音が、静かに遠ざかっていった。

 わたしは、あの人を見た。

「……いいんですか」

「いい」

 あの人は、短く言った。

「今日は、これより大事なことはない」

 それから、あの人は、窓の外を見た。

 傾きはじめた陽が、絨毯の上に、長い四角い光を落としていた。

「どこまで話した」

「……追っ手から、逃げて。森の中で、矢を受けて」

「ああ」

 あの人は、頷いた。

「最初の冬の話をする」


   ◇ ◇ ◇


「帝都を出て、半年近く、森から森へ逃げた」

 あの人は、膝の上で手を組んだ。

「秋の終わりに、東の辺境に着いた。父上に恩のある辺境伯がいて、乳母が、そこなら匿ってもらえるかもしれないと言った」

「……匿って、もらえたんですか」

「ああ。城の奥の、物置のような部屋だった。窓もなかった」

 あの人は、ほんの少しだけ、わたしを見た。

「お前の地下ほどではないが」

 わたしは、何も言えなかった。

「その冬は、ひどく寒かった。辺境伯の城でも、薪は足りなかった。俺は、あの上着を着て、その上から毛布を巻いて眠った」

 ――あの上着。

 紺色の。真ん中のボタンが欠けた。

「眠れない夜は、ボタンの欠けたところを、指でなぞった」

 あの人の声は、平らだった。

「残りのひとつが、どこにあるのか、忘れないように」

 わたしは、手のひらの中のボタンを、ぎゅっと握りしめた。

 ――その冬。

 わたしは、まだ、離れの部屋にいた。

 ハンナは、もういなかった。

 お母さまが、毎日、泣きなさいと言いに来ていた。

 夜になると、わたしも、このボタンを握りしめて眠った。

 同じ冬だった。

 同じように、寒かった。

 同じように、ボタンを。


「春になって、辺境伯が、兵を貸すと言ってきた」

 あの人は、続けた。

「叔父の治世に、辺境は、ひどく苦しめられていた。重い税をかけられて、逆らった村がいくつも焼かれていた。皇太子を旗に立てれば、兵が集まる、と」

「……旗に」

「ああ。俺は、旗だった」

 あの人は、静かに言った。

「十五の子どもに、兵を率いる力などない。辺境伯も、それは分かっていた。必要だったのは、正統の皇太子が生きている、という事実だけだ」

「……」

「だが、旗でも、戦場には立たなければならなかった。旗が、後ろに隠れていたら、誰もついてこない」

 あの人は、組んだ手を、ゆっくりと握りしめた。

「十五の夏に、初めて、人を斬った」

 わたしは、息を止めた。

「叔父の軍の、斥候だった。夜の森で、出くわした。向こうが、先に剣を抜いた」

 あの人の声は、変わらなかった。

 平らで、静かで、少しも揺れていなかった。

「俺と、そう年の変わらない男だった」

 わたしは、膝の上の手を、握りしめた。

「その夜も、あの上着を着ていた」

 あの人は、言った。

「血が、袖についた。乳母が、川で、ひと晩かけて洗ってくれた。完全には、落ちなかった」

 ――袖の、血。

 わたしは、あの人の顔を見た。

 何の表情も浮かんでいない顔。

 でも、その目が、ずっと遠くを見ていた。

 十五歳の夏の、夜の森を。

「その夜は、眠れなかった。朝まで、上着の袖を見ていた」

「……」

「それから、何人斬ったか、もう、覚えていない」

 あの人は、目を伏せた。

「処刑した者の名は、全員覚えている。だが、戦場で斬った者の数は、覚えていない。覚えていられなかった」


 わたしは、何も言えなかった。

 喉の奥が、ひどく痛かった。

 ――覚えていられなかった。

 この人は、そう言った。

 三百十二人の名前を全部覚えている人が。

 戦場で斬った人の数は、覚えていられなかった。

 それほど、たくさん。

 それほど、毎日。

 十五歳から。

「……怖く、なかったんですか」

 気がつくと、訊いていた。

 あの人は、少しのあいだ、黙っていた。

「怖かった」

 短い答えだった。

 嘘のない声だった。

「最初の一年は、毎晩、怖かった。剣を握る手が、震えて止まらなかった。乳母に見られないように、毛布の中で、手を握りしめていた」

 その手が、今、膝の上で、白くなるほど握りしめられていた。

「だが、そのうちに、震えなくなった」

 あの人は、言った。

「震えていたら、死ぬ。俺が死ねば、旗が倒れる。旗が倒れれば、ついてきた兵が、全員死ぬ」

「……」

「だから、震えるのをやめた。怖いと思うのを、やめた」

 ――泣かないと、決めた日。

 わたしは、ふいに、自分のことを思い出した。

 泣いたら、石になる。石になったら、お母さまが喜ぶ。

 だから、泣くのをやめた。

 悲しいと思うのを、やめようとした。

 ――同じだ。

 わたしは、ボタンを握りしめた。

 この人も、同じことをしていたのだ。

 戦場で。

 十五歳で。


   ◇ ◇ ◇


「十六で、ガレスが来た」

 しばらくして、あの人は言った。

「叔父の近衛から、部下を連れて逃げてきた。叔父のやり方に、ついていけなくなったと言っていた」

「ガレスさんが」

「ああ。あいつに、剣を教わった。乳母と、最初の四人の騎士と、ガレスと。それが、最初の俺の周りの者たちだった」

 あの人は、ほんの少しだけ、口元の力を抜いた。

 笑ったのではなかった。

 でも、何かを、懐かしむような顔だった。

「十七で、身体が大きくなって、あの上着の袖が通らなくなった」

 あの人は、言った。

「それでも、捨てられなかった。鞍袋の底に押しこんで、どの戦場にも持っていった」

「……どうして」

 わたしは、訊いた。

 答えは、分かっていた。

 でも、訊きたかった。

 あの人は、わたしの手の中のボタンを見た。

「欠けたところを、なぞるためだ」

 あの人は、言った。

「残りのひとつが、どこにあるのか、忘れないために」


 わたしは、俯いた。

 目の奥が、焼けるように熱かった。

 ――このボタンを持っていてくれたら、僕は絶対に、欠けたボタンを探しに行く。

 あの子は、そう言った。

 わたしは、ボタンを持っていた。

 地下の暗闇の中で、十年。

 あの人は、ボタンの欠けた上着を持っていた。

 戦場の泥と血の中で、十年。

 二人とも、同じものの、片方ずつを。

「……十八の秋に」

 あの人の声が、ほんのわずかに、変わった。

 わたしは、顔を上げた。

「戦の行軍で、ヴァレンティアの領地の近くを通ったことがある」

 わたしは、息を止めた。

「ヴァレンティア家は、叔父の側についていた。少なくとも、そう見えた。叔父に、毎年、多額の献金をしていた」

 ――献金。

 わたしの石が、売られたお金。

 わたしは、ボタンを握りしめた。

「だから、領地の中には入れなかった。入れば、戦になる。俺の兵も、ヴァレンティアの兵も、領地の村の者も、死ぬ」

 あの人は、窓の外を見た。

「丘の上から、屋敷の屋根が見えた」

「……」

「ほんの、遠くに。小さく。あの屋根の下の、どこかの庭に、林檎の木があるはずだと思った」

 あの人の手が、膝の上で、ゆっくりと握りしめられた。

「お前は、あの屋根の下にいるのだと、思っていた」

 ――いた。

 わたしは、声に出せなかった。

 いた。

 あの屋根の下の、さらに下に。

 地下の、鉄の扉の向こうに。

 十一歳のわたしが。

「半刻ほど、丘の上で、屋根を見ていた。それから、ガレスに呼ばれて、馬を返した」

 あの人は、目を閉じた。

「あのとき、あの丘を下りていたら、と思うことがある」

「……」

「下りていたら、戦になった。お前の家の者も、俺の兵も、死んだかもしれない。お前も、巻きこまれたかもしれない。だから、下りなかった。下りなかったのは、正しかったと、今でも思う」

 あの人は、目を開けた。

「だが、正しかったことと、悔やんでいないことは、別だ」


 わたしは、両手で口を押さえた。

 声が、漏れそうだった。

 あの丘の上に、あの子がいた。

 十八歳の、あの子が。

 わたしが、地下の暗闇の中で、春を数えていたころに。

 ほんの、すぐそこに。

「……わたし」

 手のひらの中で、声がくぐもった。

「地下からは、空が、見えなかったんです」

 あの人が、こちらを見た。

「格子の窓は、高いところにあって。光は入ってきたけど、空は、見えなかった」

 わたしは、手を下ろした。

「だから、丘も、見えなかった」

 声が、震えた。

「見えていたら、わたし、きっと、手を振ったのに」

 あの人の肩が、大きく震えた。

 あの人は、何も言わなかった。

 言えなかったのだと思う。

 喉が、何度か、ごくりと動いた。

 膝の上の拳が、震えていた。

 わたしも、もう、何も言えなかった。

 窓から差しこむ光が、少しずつ、茜色に変わっていった。


   ◇ ◇ ◇


「……二十一の春に」

 長い沈黙のあとで、あの人が、また話しはじめた。

 声が、ひどく、かすれていた。

「帝都を、取り戻した」

 わたしは、顔を上げた。

「叔父は、玉座の間で、自分の剣で死んでいた。俺が着いたときには、もう」

 あの人は、短く言った。

「帝都の門の前で、クラウスが待っていた。七年、叔父の宮廷の中で、俺のために動いていた男だ。あいつは、門の前で、泣いていた」

「……宰相さまが」

「ああ。あいつが泣いたのを見たのは、あれが最初で、最後だ」

 あの人は、窓の外を見た。

「戴冠の儀は、その年の夏だった」

 夏。

 わたしが、十四歳だった年の。

「冠を頭に載せられたとき、俺が考えていたのは、ひとつだけだった」

 あの人は、言った。

「これで、行ける、と」

 わたしは、まばたきをした。

「誰にも、文句を言わせないくらい、強くなる。お前と別れた日に、俺は、そう言った」

 ――だから、大人になる。誰にも文句を言わせないくらい、強くなる。

 あの子の声が、耳の奥でよみがえった。

「戦ったのは、父上の仇を討つためだった。叔父に苦しめられた者たちのためでもあった。帝国を、取り戻すためでもあった。どれも、嘘ではない」

 あの人は、わたしを見た。

「だが、その理由の中に、もうひとつ、誰にも言わなかった理由があった」

 あの人の黒い瞳が、まっすぐに、わたしを見ていた。

「迎えに行ける力が、欲しかった」

 わたしは、息ができなかった。

「謀反人の皇太子では、お前を迎えに行けない。行けば、お前まで巻きこむ。だが、皇帝なら」

 あの人は、静かに言った。

「皇帝なら、ヴァレンティアの正門を、正面から叩ける。誰にも邪魔をさせずに、お前をあの家から連れ出せる。もう、誰からも、隠れなくていい」

 ――迎えに来る。

 ――ここから、連れていってくれるの?

 ――うん。

「それだけのために、七年、戦ったわけじゃない。それでも、それがなかったら、どこかで、膝をついていたかもしれない」

 あの人は、目を伏せた。

「だから、冠を載せられたとき、思った。これで、やっと、迎えに行ける、と」


 部屋の中が、静かになった。

 茜色の光が、絨毯の上で、ゆっくりと伸びていた。

 わたしは、あの人の顔を見ていた。

 ――これで、やっと、迎えに行ける。

 二十一歳のあの人は、冠の重さの下で、そう思ったのだ。

 わたしは、十四歳だった。

 地下にいた。

 あと三年。

 あと、三年も。

 ――どうして。

 また、あの問いが、喉の奥でうずいた。

 それなら、どうして、あと三年もかかったの。

 わたしは、唇を噛んだ。

 あの人は、わたしの顔を見ていた。

 わたしが何を思ったのか、分かっているような目だった。

「……玉座についてすぐ」

 あの人は、言った。

 声が、少しだけ、低くなった。

「俺は、ヴァレンティア家を、調べさせた」

 あの人の膝の上の手が、ほんのわずかに、震えた。

「そこで、一枚の紙を見つけた」

 わたしは、あの人を見つめた。

 あの人は、しばらく、何も言わなかった。

 何かを、ひどく、言いにくそうにしていた。

 この人が、言葉に詰まるのを、わたしは、ほとんど見たことがなかった。

 処刑の話をしたときでさえ、この人は、迷わずに言った。

 それなのに。

「……リシェル」

 あの人は、わたしの名前を呼んだ。

「次の話は、お前にとって、いちばん、聞きたくない話かもしれない」

 わたしは、ボタンを握りしめた。

「それでも、聞くか」

 わたしは、長いあいだ、黙っていた。

 それから、小さく頷いた。

「……聞きます」

 あの人は、静かに、息を吐いた。

 窓の外で、日が、沈みかけていた。

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