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第64話 死亡証明書

窓の外で、日が沈んでいった。

 部屋の中が、少しずつ、薄暗くなっていった。

 誰も、灯りをつけに来なかった。

 セレナさんが、扉の外で、待っていてくれているのだと思った。

 あの人は、しばらく、何も言わなかった。

 膝の上で、両手を組んでいた。

 その指先が、ほんのわずかに、白くなっていた。

「玉座についてすぐ、帝国じゅうの貴族の家に、監査をかけた」

 やがて、あの人が言った。

 低くて、ゆっくりした声だった。

「叔父に与した家を洗い出すため、というのが、表向きの理由だった。所領も、財産も、兵も、一族の戸籍も。あらゆる記録を、貴族院に出させた」

「……はい」

「その山のような書類の中から、俺は、ひとつの家の記録だけを、自分の手で探した」

 あの人は、わたしを見た。

「誰にも、理由を言わずに。クラウスにも」

 わたしは、ボタンを握りしめた。

 ――ひとつの家。

「ヴァレンティア侯爵家の、一族の戸籍」

 あの人は、言った。

「当主、ギルベルト。夫人、エリザベート。嫡男、ユリウス」

 お父さま。お母さま。お兄さま。

 あの人の口から、その名前を聞くのは、ひどく奇妙な感じがした。

「それから」

 あの人は、少しだけ、言葉を止めた。

「長女、リシェル」

 わたしの名前。

「その名前の横に、一枚の紙が綴じてあった」


 あの人は、目を伏せた。

 長いあいだ、黙っていた。

 それから、まるで、何度も何度も読み返して、一字一字を覚えてしまったものを、そのまま口にするように、言った。

「――ヴァレンティア侯爵家長女、リシェル・ヴァレンティア。享年十歳。冬、熱病により病死。葬儀は近親者のみにて執り行い、同家の墓所に埋葬す」


 部屋の中が、しんと静かになった。

 わたしは、動けなかった。

 ――享年、十歳。

 ――病死。

 ――埋葬す。

 言葉の意味が、すぐには、分からなかった。

 頭の中で、その言葉が、ぐるぐると回っていた。

 知らない誰かのことを読み上げられたような気がした。

 でも、名前は、わたしだった。

「……わたし」

 声が、かすれた。

「わたし、死んで、いたんですか」

「生きている」

 あの人が、すぐに言った。

 強い声だった。

「お前は、生きている。今、ここに」

「……」

「死んだことに、されていた。帝国の記録の上では。帝国貴族院の印が押された、正式な届けだった」

 ――死んだことに、されていた。

 さっき、あの人が、自分のことをそう言った。

 十四歳で。生きているのに。

 わたしも、同じだったのだ。

 十歳で。生きているのに。


「……冬」

 気がつくと、呟いていた。

 あの人が、こちらを見た。

「冬、って」

 わたしは、手のひらの中のボタンを見下ろした。

「地下に、移されたのは、十歳の冬でした」

 あの人の肩が、ほんのわずかに、強張った。

「離れの部屋から、夜に。お母さまが来て、今日から、もっと静かなお部屋に移りましょうね、って。ドルフさんが、わたしを抱えて、階段を下りて」

 声が、震えた。

「その冬に、わたし、死んだことに、なっていたんですね」

 離れの部屋を出た夜。

 鉄の扉が、初めて、わたしの後ろで閉まった夜。

 あの夜に。

 わたしは、帝国の記録の上で、死んだのだ。

 お父さまの手で。

 お母さまの手で。

「熱病……」

 わたしは、両手で口を押さえた。

「熱は、何度も、出ました」

 あの人が、息を止めたのが分かった。

「スープに、何かが入っていて。飲むと、熱が出て。熱が出ると、涙が、止まらなくなって」

 ――あら、熱があるのね。かわいそうに。

 お母さまの声。

 額に当てられた、冷たい手袋の感触。

「だから、熱病で、って」

 声が、出なくなった。

 嘘ではなかったのだ。

 わたしは、本当に、何度も熱を出した。

 お母さまが、熱を出させたのだから。

 その熱で、死んだことにされた。


 あの人は、何も言わなかった。

 膝の上の拳が、震えていた。

 薄暗い部屋の中で、あの人の顔は、よく見えなかった。

 でも、その肩が、何度か、大きく上下するのが見えた。

 息を、整えようとしているようだった。

「……その紙を読んだ夜のことを、話す」

 やがて、あの人が言った。

 ひどく、かすれた声だった。

「何も、感じなかった」

 わたしは、顔を上げた。

「悲しいとも、悔しいとも、思わなかった。ただ、頭の中が、真っ白になった。紙の上の文字が、意味のない黒い染みにしか見えなかった」

 あの人は、組んだ手を見下ろしていた。

「それから、夜が明けるまで、執務室の机の前に座っていた。侍従が扉を叩くまで、一度も動かなかった」

「……」

「戦場で、何百もの死を見てきた。昨日笑っていた者が、翌朝には冷たくなっている。そういうことが当たり前に起きると、誰よりも知っているつもりだった」

 あの人は、目を閉じた。

「小さな女の子が、俺の知らない冬に、俺の知らない病で死んでいた。それも、当たり前に起こりうることだと、頭では分かっていた」

 あの人の声が、ほんのわずかに、途切れた。

「それでも、信じられなかった」


 ――信じられなかった。

 わたしは、あの人の顔を見つめた。

「……墓が、あるんですか」

 声が、震えた。

「わたしの」

 あの人は、少しのあいだ、黙っていた。

 それから、頷いた。

「ある。ヴァレンティア家の墓所の、いちばん隅に」

 あの人は、言った。

「二年前の秋に、行った。皇帝であることを隠して、旅の騎士のなりをして。墓守の老人に、古い知人の墓を探していると言って」

 ――二年前。

 わたしが、十五歳のときだった。

 地下にいた。

「陽の当たらない一角に、小さな墓石がひとつ立っていた。名前と、生まれた年と、死んだ年。それだけが、刻まれていた」

 あの人は、静かに言った。

「祈りの言葉も、別れの言葉もなかった。花を手向けた跡もなかった。墓守は、侯爵家の者が参りに来たのを、一度も見たことがないと言っていた」

 わたしは、目を閉じた。

 苔に覆われた、灰色の石。

 名前と、年だけ。

 誰も、来ない墓。

 ――わたしの、お墓。

 誰も来ない地下で、わたしが春を数えていたころ。

 誰も来ない墓で、わたしの名前が、苔に覆われていた。

「葬儀は、身内だけで、ひっそりと済ませたそうだ。流行り病だから、棺は最後まで閉じられたままだった、と」

 あの人は、そこで、言葉を切った。

 何かを、言うかどうか、迷っているようだった。

「……まだ、何か、あるんですか」

 わたしは、訊いた。

 あの人は、しばらく黙っていた。

 それから、低い声で言った。

「お前を、あの地下から連れ出したあと」

 わたしは、息を止めた。

「ガレスとエドガーに命じて、その墓を、開けさせた」


 わたしは、目を見開いた。

「誰にも知られないように、夜のうちに。棺の中を、確かめさせた」

 あの人の声は、平らだった。

 でも、膝の上の拳が、白くなるほど握りしめられていた。

「空の棺なら、それでよかった。だが、空ではなかった」

「……」

「子どもの背丈ほどの包みが、入っていた。白い布にくるまれて。中には、骨があった」

 わたしは、両手で口を押さえた。

「エドガーが、確かめた。人の骨ではなかった。仔山羊の骨だった」

 ――仔山羊。

「それが、小さな子どもの服に、くるまれていた」

 あの人は、目を伏せた。

「淡い黄色の、袖口に花の刺繍のある服だった」

 わたしの身体が、凍りついた。

 ――淡い黄色の。

 ――袖口に、花の刺繍。

 知っていた。

 ハンナが、繕ってくれた服。

 離れの庭で、あの子と水たまりに飛びこんで、泥だらけにした服。

 ハンナが、黙って洗ってくれた服。

 わたしの、いちばん好きだった服。

「……わたしの、服です」

 声が、出なかった。

 ほとんど、息だけだった。

「わたしの、いちばん好きだった……」

 その先は、言えなかった。


 薄暗い部屋の中で、わたしは、膝を抱えた。

 身体が、震えて止まらなかった。

 ――死んだことに、されていた。

 紙の上で。

 墓の下で。

 わたしの好きだった服に、仔山羊の骨をくるんで。

 誰かが、それを、棺に入れた。

 誰かが、それを、土に埋めた。

 誰かが、その上に、名前と年だけの石を立てた。

 そして、誰も、来なかった。

 お父さまも。

 お母さまも。

 お兄さまも。

 わたしを埋めたことにした人たちは、一度も、その墓に来なかった。

 毎日、地下へは、降りてきたのに。

 石を、拾いに。

「……徹底的に、だった」

 あの人が、低い声で言った。

「戸籍からも、貴族院の名簿からも、帝都の社交界の噂からも、お前の名は、消されていた。ヴァレンティア家の子は、嫡男ひとり。誰に訊いても、そう答えた。お前に仕えていた乳母も、とうに暇を出されて、行方が分からなかった」

 ――ハンナ。

「お前が、この世にいたという痕は、あの墓と、あの紙のほかに、ひとつも残されていなかった」

 あの人は、言った。

「生きている者を、ここまで消すことができるのかと思った」


 わたしは、膝に顔をうずめた。

 目の奥が、焼けるように熱かった。

 喉の奥から、何かがせり上がってきた。

 ――泣いては、いけない。

 ここで泣いたら、石が落ちる。

 あの人の目の前で。

 わたしは、唇を噛んだ。

 強く。

 血の味がした。

「……リシェル」

 あの人の声がした。

 すぐ近くではなかった。

 三歩離れたところから。

 あの人は、動かなかった。

 近づいてこなかった。

「唇を、噛むな」

 低い声だった。

「血が出る」

 わたしは、唇を離した。

 顔を上げられなかった。

 膝に顔をうずめたまま、何度も、何度も、息を吸って、吐いた。

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、そこにいた。

 薄暗い部屋の中で、三歩離れたところに。

 わたしが顔を上げるまで、ずっと。


 どれくらい、そうしていたのだろう。

 窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。

 わたしは、ゆっくりと、顔を上げた。

 目は、熱かった。

 でも、まだ、こぼれていなかった。

 あの人は、窓の外の暗がりを見ていた。

 わたしが顔を上げたのに気づくと、ゆっくりと、こちらへ目を戻した。

「……ひとつ、訊いてもいいですか」

 わたしは、言った。

 声が、ひどく、かすれていた。

「ああ」

「その紙を、読んで」

 わたしは、ボタンを握りしめた。

「墓を、見て」

 あの人は、黙っていた。

「死んだって、書いてあったのに。お墓まで、あったのに」

 わたしは、あの人の目を、まっすぐに見た。

「それなのに、どうして」

 声が、震えた。

「どうして、まだ、探してくれたんですか」

 ――あの地下に。

 ――ヴァレンティアのお屋敷に。

 あの人は、来た。

 死亡届を読んで、三年も経ってから。

 墓を見て、二年も経ってから。

 それでも、来た。

 どうして。

 あの人は、長いあいだ、わたしを見ていた。

 暗がりの中で、黒い瞳が、かすかに光っていた。

「……信じられなかったからだ」

 あの人は、言った。

「理屈ではなかった。証拠もなかった。ただ、あの墓石に触れたとき」

 あの人は、自分の右手を、見下ろした。

「冷たかった。どこまでも、冷たかった。その冷たさが、俺の知っているお前の、何ひとつとも、重ならなかった」

 あの人は、手を握りしめた。

「だから、探した」

 あの人は、静かに言った。

「その三年の話を、する」

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