第65話 それでも探した
扉を、控えめに叩く音がした。
「……陛下。灯りを、お持ちいたしましょうか」
セレナさんの声だった。
あの人は、わたしを見た。
わたしは、小さく頷いた。
「入れ」
扉が開いて、セレナさんが、小さな燭台をひとつだけ持って入ってきた。
卓の上に、そっと置く。
それだけで、部屋の中に、やわらかい光が広がった。
セレナさんは、わたしの顔を見た。
それから、あの人の顔を見た。
何も言わなかった。
ただ、深く一礼して、また扉の外へ出ていった。
燭台の灯りが、絨毯の上で、かすかに揺れていた。
あの人の顔が、ようやく、よく見えるようになった。
何の表情も浮かんでいない、いつもの顔。
でも、目の下が、少しだけ、暗く翳っていた。
「誰にも、言わずに探した」
あの人は、言った。
「皇帝が表立って動けば、必ず人の口にのぼる。人の口にのぼれば、隠し事を抱えた家は、なおさら固く口を閉ざす」
「……はい」
「だから、内乱のころから俺に仕えてきた、ほんの数人の古い部下だけを使った。最初の四人の騎士のうち、生き残っていた二人と、その下の者たちだ」
あの人は、膝の上で手を組んだ。
「最初に調べさせたのは、ヴァレンティアの領地の村だった。十年前に、屋敷から連れ出された娘はいなかったか。夜中に、馬車が出ていくのを見た者はいなかったか」
「……」
「次は、奉公人の名簿だった。帝国じゅうの貴族の屋敷に、奉公に出された娘たちの名前を、ひとつ残らず洗わせた。名前を変えられているかもしれない。年を偽られているかもしれない。だから、灰色がかった青い目の、お前と同じ年頃の娘を、全部」
わたしは、目を見開いた。
――全部。
「何も、見つからなかった」
あの人は、静かに言った。
「次は、奴隷市場だった」
わたしの身体が、ほんのわずかに、強張った。
あの人は、それを見ていた。
少しだけ、言葉を止めた。
それから、また、話しはじめた。
「帝国の中では、人を売り買いすることは禁じられている。だが、国境の向こうには、まだ市が立つ。帝国の娘が、攫われて、売られていくこともある」
「……」
「侯爵家の娘を、死んだことにして、どこかへ売り払う。そういうことをする家が、ないとは言えなかった」
あの人の声は、平らだった。
「国境の市を、ひとつずつ調べさせた。ヴァレンティアの名を持つ娘はいなかったか。東部の訛りのある娘は。灰色がかった青い目の娘は」
あの人は、目を伏せた。
「二度、自分でも行った」
わたしは、息を止めた。
「皇帝が、ですか」
「皇帝としてではない。旅の商人のなりをして、ガレスを供に連れて」
あの人は、組んだ手に、少しだけ力をこめた。
「檻の中に並べられた娘たちの顔を、ひとりずつ、見て歩いた。灰色がかった青い目の娘がいると、足が止まった。近づいて、目を見た」
――ひとりずつ。
「違った。どれも、違った」
あの人は、短く言った。
「だが、違うと分かっても、そのまま通り過ぎることはできなかった。その市で、俺は、娘を十七人買った。それから、全員、親元へ帰した。帰る家のない者は、帝都の修道院に預けた」
わたしは、両手で口を押さえた。
「……十七人」
「お前を探しに行って、お前ではない十七人を見つけた」
あの人は、静かに言った。
「それが、二度目の市の帰りに、ガレスが俺に言ったことだ。陛下は、お探しの方は見つけられなかったが、十七人を見つけられた、と」
――あの人は。
わたしを探して、檻の中の、知らない女の子たちの顔を、ひとりずつ見て。
違うと分かっても、置いていけなくて。
「……その子たちは、今」
「元気でいると、聞いている」
あの人は、それだけ言った。
わたしは、手のひらの中のボタンを、ぎゅっと握りしめた。
目の奥が、熱かった。
「毎月、報告が来た」
しばらくして、あの人は、また話しはじめた。
「見つかりません。手がかりはございません。毎月、同じ言葉だった」
あの人は、窓の外の暗がりを見た。
「部下たちは、誰も口には出さなかった。だが、目が言っていた」
「……」
「陛下。その方は、本当に、お亡くなりになったのです、と」
わたしは、何も言えなかった。
「分かっていた」
あの人は、言った。
「理屈の上では、誰よりもよく分かっていた。死亡届がある。墓がある。十年の歳月がある。死んだと信じない理由など、どこにもなかった」
あの人は、自分の右手を、見下ろした。
「ただ、どうしても、受け入れられなかった」
燭台の灯りが、あの人の横顔の上で、揺れていた。
「戦場で、何度も、俺の命を救ってきた勘がある。森に潜む伏兵や、地中に埋められた罠を、俺は、理屈ではなく、肌で感じ取ってきた」
「……」
「その勘が、ずっと、言っていた。あの子は死んでいない。まだ、どこかにいる、と」
「――それから、石だった」
あの人が、言った。
わたしの身体が、凍りついた。
――石。
あの人は、わたしを見た。
まっすぐに。
「この十年ほどのあいだに、帝国のあちこちで、出所の分からない魔石が出回るようになっていた」
あの人の声は、静かだった。
「青黒い、小さな石だ。帝都の闇の競売で、月に一度だけ売りに出される。どれほど調べても、誰がどこから運んでくるのか、分からなかった」
わたしは、両手で、膝を抱えた。
「西の反乱の首謀者の陣幕に、その石があった。俺は、それを手に取って、光にかざした」
あの人は、目を閉じた。
「奇妙な石だった。眺めていると、胸の奥が、ひどく冷えた」
「……」
「クラウスに、出所を洗わせた。分かったのは、ひとつだけだった。その石は、いつも、東部から運ばれてくる、と」
あの人は、目を開けた。
「東部は、広い。何十もの家がある。偶然だと、頭では思った。それでも、俺は、東部の視察を組ませた。主だった家を、ひとつずつ回る、と言って」
――東部。
――ヴァレンティアの領地。
「十日後に訪ねると知らせてあった。それを、その日の朝に変えた。普段どおりの屋敷を見せよ、と」
あの人は、膝の上で、手を握りしめた。
「あの屋敷の晩餐の間に入ったとき、足の下から、何かを感じた」
わたしは、息を止めた。
「途切れ途切れの、弱い魔力の脈だった。冷たい水の底で、誰かが、細い息を繰り返しているような」
あの人の声が、ほんのわずかに、かすれた。
「生きている、と思った」
燭台の灯りが、揺れていた。
わたしは、あの人の顔を見ていた。
――冷たい水の底で、誰かが、細い息を繰り返しているような。
それは、わたしだった。
あの夜。
上のお屋敷に、たくさんの人が来た夜。
わたしは、暗闇の中で、膝を抱えて、息を殺していた。
物音を立てるな、泣くな、とドルフさんに言われて。
その息を。
あの人は、床の下から、感じ取っていたのだ。
「……石が」
わたしは、言った。
声が、震えていた。
「わたしの、石が」
あの人は、黙っていた。
「わたしの涙が、売られて。帝国じゅうに、流れていって」
――あなたのことを想って泣いたら、あなたとの思い出が、石になって、売られていく気がして。
さっき、わたしは、この人にそう言った。
そうして、わたしは、あの子のことを考えないようにした。
売られたくなかったから。
それなのに。
「その石が、あなたを、東部へ」
声が、出なくなった。
あの人は、静かに、頷いた。
「お前の涙が、俺を、お前のところまで連れてきた」
低い声だった。
「あの石を手に取ったとき、胸の奥が冷えた。あの冷たさが、どこから来るのか、俺は、あの地下の扉を開けるまで、分からなかった」
あの人は、わたしの手の中のボタンを見た。
「分かってからは、ずっと思っている。あの石の中に、どれだけ、お前の泣いた夜が詰まっていたのか、と」
わたしは、膝に顔をうずめた。
身体が、震えていた。
――売られていった。
わたしの涙は、ずっと、売られていった。
お母さまの首飾りになって。
知らない誰かの屋敷になって。
知らない誰かの戦の、お金になって。
ひとつ残らず、わたしの手から、離れていった。
何の意味もなく。
ただ、奪われていくだけだと思っていた。
それなのに。
その石が。
ひとつだけ、意味を持っていた。
――あなたを、わたしのところまで。
「……わたし」
膝に顔をうずめたまま、声が、こぼれた。
「わたし、ずっと、忘れられたんだと思っていました」
あの人は、何も言わなかった。
「誰も、来なかったから。十年。誰も、わたしの名前を、呼ばなかったから」
声が、震えた。
「あの子も、きっと、わたしのことなんて、忘れて。新しい上着を着て。どこかで、楽しく暮らしていて」
――あの子はもう、きっとわたしのことなんて覚えていない。欠けたボタンのことだって、とっくに忘れて、新しい上着を着ているのだろう。
七つのわたしが、離れの部屋で、そう思った夜があった。
「それで、いいんだって。そう、思おうとしていました」
「……」
「でも」
わたしは、ゆっくりと、顔を上げた。
燭台の灯りの向こうに、あの人がいた。
三歩離れたところに。
「忘れられて、いなかったんですね」
声が、かすれた。
「村を、ひとつずつ。名簿を、ひとつずつ。檻の中の女の子の顔を、ひとりずつ。毎月、見つかりませんって言われても」
わたしは、ボタンを、胸に押し当てた。
「わたしが、地下で、もう待たないって決めたあとも」
――十回目の春に、あれは夢だったと決めた。
その春にも。
この人は、まだ、探していたのだ。
「ずっと、探していてくれたんですね」
あの人は、しばらく、何も言わなかった。
燭台の灯りが、その黒い瞳の中で、揺れていた。
喉が、一度だけ、ごくりと動いた。
「……一日も」
あの人が、言った。
ひどく、低い声だった。
「一日も、忘れたことはない」
わたしは、息を止めた。
「戦場の泥の中でも。玉座の上でも。死亡届を握りしめていた夜も。墓石の前に膝をついた日も」
あの人は、わたしを見ていた。
まっすぐに。
「一日も、だ」
わたしは、何も言えなかった。
喉の奥が、焼けるように熱かった。
目の奥も。
――泣いては、いけない。
ずっと、そう言い聞かせてきた。
泣いたら、石になる。石になったら、売られていく。
でも。
今、この胸の奥からせり上がってくるものは。
地下で、暗闇の中で、ひとりでこらえてきたものとは、違う気がした。
冷たくなかった。
痛いのに、温かかった。
わたしは、唇を噛もうとして、やめた。
――唇を、噛むな。血が出る。
さっき、あの人がそう言った。
わたしは、両手でボタンを包んで、胸に押し当てたまま、ゆっくりと、息を吐いた。
もう一度、吸った。
吐いた。
目の縁が、熱く濡れていた。
でも、まだ、こぼれなかった。
こぼれる、ぎりぎりのところで。
何かを、待っているみたいに。
あの人は、動かなかった。
ただ、燭台の灯りの向こうで、わたしを見ていた。
何かを、言おうとしているようだった。
言わなければならないことが、まだ、あるような顔だった。
膝の上の拳が、ゆっくりと、握りしめられていった。
わたしは、その拳を見ていた。
あの夜、わたしの冷たい手を、そっと包んでくれた手。
机にぶつけたという傷の跡が、まだうっすらと残っている手。
十年、ボタンの欠けた場所を、なぞりつづけた手。
「……リシェル」
あの人が、わたしの名前を呼んだ。
燭台の灯りが、揺れた。
「まだ、言っていないことがある」




