第66話 約束を破った
「二年前の秋に、墓所へ行った話をした」
あの人は、言った。
燭台の灯りが、その横顔の上で、揺れていた。
「……はい」
「あの墓所は、ヴァレンティアの屋敷のすぐ近くにあった」
あの人は、膝の上の拳を、見下ろしていた。
「墓所の丘から、屋敷の屋根が見えた。十八のときに、遠くの丘の上から見た屋根よりも、ずっと近くに。歩いて、半刻もかからなかった」
わたしは、息を止めた。
「墓守は、侯爵家の者が墓参りに来たのを、一度も見たことがないと言った。棺は、最後まで閉じられたままだったと言った」
あの人の声は、平らだった。
「おかしいと、思った。思ったのに、俺は、あの屋敷の門を叩かなかった」
「……」
「皇帝であることを隠して、旅の騎士のなりをしていた。供も、わずかしか連れていなかった。正面から訪ねれば、屋敷の者に、何かを嗅ぎつけたと気づかれる。気づかれれば、隠しているものを、もっと深く隠される」
あの人は、目を閉じた。
「そう考えた。だから、いったん帝都へ戻って、確かな手がかりを掴んでからにしようと思った」
あの人の拳が、震えていた。
「それから、二年かかった」
部屋の中が、しんと静かになった。
――二年。
わたしは、手のひらの中のボタンを見下ろした。
二年前の秋。
わたしは、十五歳だった。
地下の、鉄の扉の向こうで。
あの人が、墓所の丘から屋敷の屋根を見ていたとき。
わたしは、その屋根の下の、さらに下にいた。
歩いて、半刻もかからないところに。
「あの日、あの門を叩いていれば」
あの人は、言った。
「お前は、二年早く、あの地下から出られた」
――二年。
二年分の春。二年分の冬。
二年分の、お兄さまの鞭。お母さまのスープ。ドルフさんが拾っていった石。
そして、十回目の春。
あれは夢だったと、決めた春。
もしも、二年早く、あの扉が開いていたら。
わたしは、まだ、待っていたかもしれない。
夢だったと、決める前に。
あの子だと、分かったかもしれない。
わたしは、ボタンを握りしめた。
何も、言えなかった。
「それだけじゃない」
あの人は、続けた。
「お前を見つけてからも、名乗らなかった」
あの人は、顔を上げた。
燭台の灯りの向こうで、黒い瞳が、まっすぐに、わたしを見ていた。
「名乗れば、お前の十年を、いちどきに背負わせることになると思った。怯えきったお前に、それを告げるのは、もう一度扉をこじ開けることだと思った」
「……」
「だから、待った。お前が、自分で扉を開けるまで」
あの人は、少しだけ、言葉を止めた。
「それは、お前のためだったと、言えないこともない」
あの人の声が、低くなった。
「だが、それだけではなかった」
わたしは、あの人を見つめた。
「怖かった」
あの人は、言った。
「名乗って、お前に、どうして来なかったのかと訊かれるのが。それに答える言葉を、俺は、持っていなかった」
――どうして、来なかったの。
さっき、わたしは、その言葉を口にした。
七つの子の声で。
「お前が自分で気づくのを待ったのは、お前のためでもあった。だが、俺が、その問いから逃げていたからでもある」
あの人は、静かに言った。
「それも、事実だ」
あの人は、ゆっくりと、立ち上がった。
燭台の灯りが、あの人の影を、壁に大きく映していた。
わたしは、窓の下に座ったまま、あの人を見上げた。
あの人は、動かなかった。
三歩離れたところに、立ったまま。
それから。
あの人は、片膝を、絨毯についた。
わたしは、目を見開いた。
皇帝が。
この国でいちばん高いところにいる人が。
わたしの前で、膝をついていた。
「……陛下」
思わず、そう呼んでいた。
あの人は、答えなかった。
膝をついたまま、わたしを見た。
それから、深く、頭を下げた。
短く刈りこんだ黒い髪が、燭台の灯りの中で、わたしのほうへ傾いた。
「迎えに来ると、約束した」
低い声だった。
かすれていた。
「必ず迎えに来る、待っていろ、と。塀の上から、泣くなと叫んだ」
「……」
「俺は、迎えに来なかった」
あの人は、頭を下げたまま、言った。
「地下からお前を連れ出したあの日、俺は、お前を迎えに行ったのではない。見つけただけだ」
わたしは、両手で口を押さえた。
「理由はある。追われていた。戦をしていた。死亡届があった。墓があった。どれも、嘘ではない」
あの人の声が、ほんのわずかに、揺れた。
「だが、理由があったことと、約束を守れなかったことは、別だ」
燭台の火が、揺れた。
「遅すぎた」
あの人は、言った。
「それだけは、事実だ」
「……」
「すまなかった」
◇ ◇ ◇
宰相クラウスは、東の客殿の廊下に立っていた。
隣には、騎士団長ガレスがいた。
昼過ぎに、皇帝が午後の予定をすべてずらせと命じた。夕刻になっても、皇帝は東の客殿から戻らなかった。夜になっても、戻らなかった。
北の国境の件で、隣国の使者が、明朝の謁見を確かめに来ていた。財務卿が、報告書を抱えて執務室の前で待っていた。
それでも、クラウスは、扉を叩くつもりはなかった。
ただ、主君が無事かどうかだけを、確かめたかった。
「……閣下」
控えの間から、侍女長セレナが、静かに出てきた。
「陛下は」
「お部屋の中に」
セレナは、扉のほうを見た。
「長いお話を、なさっておいでです」
セレナは、扉に、そっと手をかけた。
「灯りの具合を、見てまいります。それだけ」
セレナは、扉を、ほんの指一本分だけ開けた。
そのすきまから、燭台の灯りが、細く廊下にこぼれた。
クラウスは、見るつもりはなかった。
だが、見えてしまった。
部屋の奥の、窓の下に、少女が座っていた。
両手で、口を押さえていた。
その少女から、三歩ほど離れたところで。
皇帝が、片膝をついていた。
深く、深く、頭を下げて。
――すまなかった。
低い、かすれた声が、扉のすきまから、かすかに漏れ聞こえた。
クラウスは、動けなかった。
隣で、ガレスが、息を呑む音がした。
先帝の代から、三十年、宮廷に仕えてきた。
あの方を、お生まれになったときから存じ上げてきた。
帝都を奪還した夜も。戴冠の日も。三百十二枚の命令書に署名した夜も。
あの方は、一度も、誰にも、頭を下げなかった。
誰かに許しを乞うことも。
すまなかった、と言うことも。
一度も。
その方が、今、膝をついていた。
皇帝としてではなく。
ひとりの、約束を守れなかった男として。
セレナが、音を立てずに、扉を閉めた。
廊下が、また、薄暗くなった。
三人とも、しばらく、何も言わなかった。
「……閣下」
やがて、ガレスが、低い声で言った。
「隣国の使者には、私から伝えます。明朝の謁見は、延期だと」
クラウスは、ゆっくりと頷いた。
「財務卿には、わたくしから」
それから、扉のほうを、もう一度だけ見た。
「……陛下を、お待たせするわけにはまいりませんな」
クラウスは、静かに言った。
「あの方は、十年、お待ちになったのですから」
セレナが、目元を指で押さえていた。
ガレスは、天を仰いでいた。
クラウスは、二人に一礼して、廊下を歩きだした。
その背中が、ほんの少しだけ、震えていた。
◇ ◇ ◇
わたしは、動けなかった。
目の前で、あの人が、膝をついていた。
頭を、下げていた。
――すまなかった。
その声が、耳の奥で、何度も響いていた。
わたしは、両手で口を押さえたまま、あの人の黒い髪を見つめていた。
――遅すぎた。
あの人は、そう言った。
それだけは、事実だ、と。
言い訳をしなかった。
理由は、全部、話してくれた。
追われていたこと。戦をしていたこと。死亡届のこと。墓のこと。
どれも、嘘ではないと、わたしにも分かった。
それでも、あの人は、その理由の後ろに隠れなかった。
――理由があったことと、約束を守れなかったことは、別だ。
お母さまは、いつも、理由の後ろに隠れた。
あなたのためなのよ、と。
ヴァレンティア家のためなの、と。
一度も、わたしに、すまなかったとは言わなかった。
お父さまも。
お兄さまも。
わたしを地下に閉じこめた人たちは、誰ひとり。
それなのに。
わたしを地下から出してくれた人が。
わたしを、十年、探しつづけてくれた人が。
わたしの前で、膝をついて、謝っていた。
――どうして。
また、その言葉が浮かんだ。
でも、今度の「どうして」は、さっきとは、まるで違う形をしていた。
どうして、あなたが、謝るの。
あなたは、来てくれたのに。
あの人は、頭を上げなかった。
わたしが何かを言うまで、ずっと、そうしているつもりのようだった。
許す、とも。
許さない、とも。
わたしの答えを、待っていた。
いつものように。
わたしが、自分で決めるのを。
わたしは、口を押さえていた手を、ゆっくりと下ろした。
胸元のボタンを、両手で包んだ。
黒くくすんだ、縁の欠けた、銀のボタン。
十年、握りしめてきた。
夢だったことにしても、捨てられなかった。
わたしは、それを、じっと見下ろした。
言葉を、探した。
何と言えばいいのか、分からなかった。
いいんです、と言うのは、違う気がした。
十年は、いいことではなかったから。
許します、と言うのも、違う気がした。
この人を、許すとか、許さないとか、そういうふうに考えたことは、一度もなかったから。
それなら、わたしは、何を。
燭台の火が、静かに揺れていた。
窓の外は、深い夜だった。
部屋の中には、あの人の、かすかな息の音だけが聞こえていた。
わたしは、長いあいだ、黙っていた。
あの人も、頭を下げたまま、黙っていた。
十年分の沈黙が、部屋の中に、静かに満ちていた。




