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第67話 来てくれました

燭台の火が、ひとつ、小さくはぜた。

 その音で、わたしは、顔を上げた。

 あの人は、まだ、膝をついていた。

 頭を、下げたまま。

 どれくらい、そうしていたのだろう。

 あの人の肩が、ほんのかすかに、上下していた。

 息を、整えているのだと思った。

 ずっと。

 わたしが何かを言うまで。

 ――遅すぎた。

 あの人は、そう言った。

 それは、本当だった。

 十年は、長すぎた。

 十回目の春に、わたしは、あの子を夢にした。

 あの子の顔も、声も、暗闇の中で溶けていった。

 あの扉が開いたとき、わたしは、あの子を、知らない男の人だと思った。

 遅すぎた。

 それは、本当だった。

 でも。

 わたしは、手のひらの中のボタンを見下ろした。

 でも、それだけが、本当なのだろうか。


 あの日。

 鉄の扉が開いた日。

 ランプの光が、目に痛かった。

 知らない男の人が、扉のところに立っていた。

 ――リシェル。

 その人は、わたしの名前を呼んだ。

 お母さまも、わたしの名前を呼ぶことはあった。

 でも、それはいつも、わたしの少し向こうを見ながら、合図のように鳴らされる名前だった。泣きなさい、の前に置かれる、呼び鈴のような。

 あの人の呼んだ名前は、違った。

 まっすぐに、わたしに向かって呼ばれた。

 わたしを、わたしとして。

 それから、あの人は、わたしの足首の鎖を外した。

 自分の外套を、わたしの足元の石段の上に、そっと置いた。

 わたしは、それを握りしめて、自分の足で、最後の一段を上った。

 ――お前が嫌がることは、しない。

 あの人は、そう言った。

 そして、本当に、しなかった。

 毎日、扉を叩いた。

 入っていいか、と訊いた。

 曲がった匙で、スープを確かめた。

 三歩離れて歩いた。

 振り返らずに、待っていてくれた。

 触れていいか、と訊いた。

 花冠を編んだ。木に登った。水たまりに踏みこんだ。

 名前を教えてくれた。

 ――アルフレッド。それが、俺の名前だ。

 あの子が、次に会うときは教えると言った名前を。

 遅すぎた。

 それは、本当だった。

 でも。


「……でも」

 声が、こぼれた。

 かすれていた。

 ほとんど、息だけだった。

 あの人の肩が、ぴくりと動いた。

 わたしは、ボタンを、両手で包んだ。

 胸に、押し当てた。

 それから、もう一度、言った。

 今度は、少しだけ、はっきりと。

「でも、来てくれました」


 あの人が、動かなくなった。

 息さえも、止まったように見えた。

「遅かったかもしれません」

 わたしは、言った。

 声が、震えていた。

「十年は、長かったです。わたし、待つのをやめてしまいました。夢だったことに、してしまいました」

 あの人は、何も言わなかった。

「でも、あなたは、来てくれました」

 わたしは、あの人の、下げられた黒い髪を見つめていた。

「わたしが、もう待っていなかったときに。誰も来ないって、決めてしまったあとに」

 喉の奥が、熱くなった。

「それでも、あの扉を、開けてくれました」

 ――理由があったことと、約束を守れなかったことは、別だ。

 あの人は、そう言った。

 それなら。

「約束は、守れなかったのかもしれません」

 わたしは、言った。

「でも、あなたは、来てくれました。それも、本当です」

 わたしは、息を吸った。

「遅すぎたことも、本当で。来てくれたことも、本当です」

 ――どちらかが嘘なわけじゃない。どちらも、同じ俺だ。

 いつか、あの人がそう言った。

 処刑の話をした日に。

「どちらも、本当なんです」


 あの人が、ゆっくりと、顔を上げた。

 燭台の灯りの中で、その顔が、見えた。

 何の表情も浮かんでいない、と、わたしは思っていた。

 ずっと。

 でも、違った。

 今は、違った。

 あの人の顔は、ひどく、歪んでいた。

 眉が寄って、唇が引き結ばれて、何かを、懸命にこらえていた。

 黒い瞳が、燭台の灯りを映して、揺れていた。

 濡れているように、見えた。

 でも、こぼれてはいなかった。

「……リシェル」

 あの人が、わたしの名前を呼んだ。

 ひどく、かすれた声だった。

 それ以上は、何も言わなかった。

 言えなかったのだと思う。

 わたしは、あの人の顔を見ていた。

 十年前の、あの子の顔を探そうとした。

 見つからなかった。

 あの頃の、太陽みたいな笑い顔は、どこにもなかった。

 でも。

 この、何かを懸命にこらえている顔は。

 ――ほら、まだ欠けてる。

 塀の前で、旅の外套の前を開いて、欠けたボタンの場所を指さした、あの子の顔。

 ――残りのひとつは、リシェルが持ってるから。

 あのときの、あの子の目と。

 同じだった。


 わたしは、窓の下から、ゆっくりと立ち上がった。

 膝が、震えていた。

 あの人は、膝をついたまま、わたしを見上げていた。

 わたしは、一歩、踏み出した。

 あの人の目が、見開かれた。

 もう一歩。

 三歩の距離が、二歩になった。

 あの人は、動かなかった。

 わたしが近づくのを、ただ、見ていた。

 もう一歩。

 手を伸ばせば、届くところまで。

 わたしは、そこで、止まった。

 あの人の膝の上で、拳が、白くなるほど握りしめられていた。

 あの夜、わたしの冷たい手を、包んでくれた手。

 十年、欠けたボタンの場所を、なぞりつづけた手。

 わたしは、その手を見下ろした。

 それから、あの人の目を見た。

「……触れても、いいですか」

 わたしは、訊いた。

 あの人が、いつも、わたしに訊いてくれるように。

 あの人の喉が、ごくりと動いた。

 唇が、何かを言おうとして、震えた。

 声は、出なかった。

 あの人は、ほんのかすかに、頷いた。

 わたしは、膝をついた。

 あの人の前に。

 あの人と、同じ高さに。

 それから、そっと、手を伸ばした。

 あの人の、握りしめられた拳の上に。

 わたしの手を、重ねた。


 温かかった。

 あの夜と、同じだった。

 大きくて、硬くて、ごつごつしていて。

 拳の上に、うっすらと、古い傷の跡があった。

 わたしの手の下で、あの人の拳が、震えていた。

 ゆっくりと、その拳が、ほどけていった。

 指が、ひらいた。

 わたしの手を、受け止めるように。

 わたしは、ボタンを握っていたほうの手を、そっと、あの人の手のひらの上に置いた。

 ボタンごと。

 黒くくすんだ、縁の欠けた、銀のボタン。

 あの人の手のひらと、わたしの手のひらのあいだに。

「……アルフレッド」

 わたしは、言った。

 あの人の手が、大きく震えた。

「あの子の、名前」

 声が、震えた。

「やっと、呼べました」

 ――次に会うときは、ちゃんと名前を教える。

 十年前、林檎の木の下で。

 あの子は、そう言った。

 次は、来なかった。

 十年、来なかった。

 でも。

 来た。

 遅すぎたけれど、来た。

 名前を、教えてくれた。

 その名前が、あの子の名前だったと、今、やっと分かった。

「アルフレッド」

 もう一度、呼んだ。

 今度は、あの子に。

 林檎の木の下の、あの男の子に。

 そして、目の前の、この人に。

 どちらも、同じ人に。

 あの人は、何も言わなかった。

 ただ、わたしの手を、ボタンごと、そっと握り返した。

 強くなかった。

 壊れものを包むように、そっと。

 あの夜と、同じように。


 どこかで、何かが、ほどける音がした気がした。

 十年。

 ずっと、止まっていたもの。

 あの春の庭で、塀の向こうへ消えた背中を見送ったときから。

 わたしの中で、ずっと、止まっていたもの。

 七つのわたしが、林檎の木の下で、ボタンを握りしめて立ちつくしていた、あの時間。

 それが、今。

 ゆっくりと、動きだした。

 あの人の手の中で。

 わたしの胸の奥で、何かが、温かく、溶けていった。

 冷たくなかった。

 地下で、ひとりでこらえてきたものとは、違った。

 痛いのに、温かかった。

 苦しいのに、ひとりではなかった。

 目の奥が、熱かった。

 熱くて、熱くて、どうしようもなかった。

 ――泣いては、いけない。

 ずっと、そう言い聞かせてきた。

 泣いたら、石になる。

 石になったら、売られていく。

 あの人の前で、石を落としてはいけない。

 わたしの涙が、また、誰かの首飾りになってしまう。

 でも。

 ――泣くなよ! 約束だからな!

 塀の上から、あの子が叫んだ。

 わたしは、その約束を、十年、守った。

 あの子のことを想って、泣かないようにした。

 あの子との思い出を、石にしないように。

 でも、今。

 あの子は、ここにいた。

 約束をした、あの子は。

 もう、塀の向こうではなく。

 わたしの手を、握っていた。

 目の縁で、何かが、ふくらんでいった。

 熱いものが。

 わたしは、それを、止めようとしなかった。

 止められなかった。

 あの人の手を、握ったまま。

 わたしは、あの人の顔を見上げた。

 燭台の灯りが、にじんでいた。

 あの人の顔が、ぼやけていた。

 ――ああ。

 こぼれる。

 そう思った。

 まつげの先で、ひとしずくの重さが、揺れていた。

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